二十五/願いをかなえる
おおよその位置は時から聞いていたし、フェルミからも知ることができた。
――空間転移を使うときには、必ず何らか「境界」を意識できる場が必要であるという。境界線を踏み越え、境界面を通ることで肉体はあちらとこちらへ行き来する。
アパートの一室で、今ならまだ最後の一手は止められるかもしれない、と和久田が言った時、ドミトリを除いた二人が顕著な反応を示した。フェルミは大方予想をつけていたずらっ子のように笑って見せ、武藤は端的にいって一発逆転の策でもない限りは絶望的な状況で突発的なアクションを起こすことに否定的なふうだった。ドミトリは別にこの一件に関してさほど興味もなかった。彼(鴎外『舞姫』ではヒロイン・エリスを指す三人称にも「彼」が用いられている)の左肩の数字は35と明らかに増大していた。自らの力を他のパルタイが集めた《意志》と交換しているらしかった。
「正直、もうどうしようもない。賭けに出るしかない、気がする。何もしないで終われるなら、それに越したことはないんじゃないか」
そう、和久田には西門の無事ともう一つ気になることがあった。
「フェルミ、おれの体がどこにあるか、わかるか」
『ええ、もちろん』
「ありがとう」
スイッチを押し込む。
「ごめん武藤、一度だけ、我儘を聞かせて」
もう日が沈んでいた。夜の色が路地に充ちつつあった。番地を二つも直進すれば、こじんまりしたカラオケボックスがみえる。間美羽はそこにいるはずで、その扉の前には、フェルミの言いじょうに反してそれらしき三人の人影があった。
『和久田さん、いまどこに?』武藤からの着信。
「間のいるカラオケのすぐ目の前に来た。調べなきゃ、聴きださなきゃならない、あいつがどのくらいパルタイのことを知ってるのか」
時から聞いていたのと同じ背格好、服装の一人が塊から離れていく。すべて準備が整い、何らかの手段でひととびにマリヤの許へ向かおうというわけか。他人の目の前で超常の力は使うまい……和久田は交差の死角、二階建ての箱のような建屋の陰、やや奥に隠れた。まっすぐ進む間は、ちょうど和久田の隠れていた方に曲がろうとして、曲がり切って道に入ったところで目と目が合う。
「やあ――間美羽さん、だっけ」
携帯電話を軽く持ち上げたまま問う。この会話が武藤への答えにもなる。間の方は露骨に警戒していた……彼女も気付いている。
「誰?」
「和久田徹。西門のクラスメイト」一呼吸置く。「昨日以来だね。蜂の仮面、だろ? ……西門も殺すのか」
「違う!」顔がさっと紅潮した。反駁する目にはややヒステリックな、しかし決然とした意志の色があった。「そんなはずない、あれだってやろうと思ってやったわけじゃない事故だし」
「マリヤは小澤と、西門が最後だと言っていた。小澤は一応無傷だが何があるかわからない。もし西門をあれ以上傷付けるつもりなら……」
間は小刻みに首を横に振ってみせた。
和久田はよく似たものをかつて見たことがある……今も、折に触れて目にすることがある。
復讐を望む目だ。間美羽は武藤と同じ、破滅的な復讐を望む者の目をしている。
しかし、似ている止まりだ。彼女は、武藤陽子に敢えていえば欠けているものをよくよく持ち合わせている。
「じゃあ、西門をどうこうしたら死ぬつもりか」
「死ぬ?」
間の目に軽い嘲りの色が浮かぶ。何を言っているんだこいつは、という目。「パルタイは願いをかなえるだけ、でしょ? 金はもう払ったし、命なんて」
「そうか」
武藤も息を呑んでいた。あの男は、あの女は、いやどちらでもいいが、マリヤは……
「じゃあ間、お前を西門のところには行かせられない」
いいな、武藤。
携帯電話と入れ違えに掌大の青いボタン付きのディングを握り込み、都合四メートルをひと跳びで詰める。真横に着地、膝で衝撃を殺しているタイムラグで間は後ずさる。和久田の手は前腕をがっちり掴んでいたが、突き刺すような
『もう何でもいい、眠れッ!』
骨に伝わるような掠れた声が響く。加害の意志を象った棘が一躍輝いた。膨張し、内側からはちきれるように展開する三倍長の針を、うねる腹が自在に跳ね上がってまっすぐ和久田に向かう。和久田はその針をさけてのびきった黒い腹をむんずと掴んだ。すると、消える。それは武藤が自らの肌にカッターナイフをつきつけたときの挙動にどこか似ていたし、かつてニールスに操られる西門の身に触れた武藤の《爪》がかき消えたときとまるで同じだった。
「復讐のためのザインなんだろう、きみのは。そのザインが、真に復讐のためのザインだから、彼らほどの恨みのないおれには触れることもできないんだ」
和久田は体を上に引っ張ってまっすぐ立ち上がる。自分でも妙な駆動だと思った。和久田は先の怯えきった
「死ぬ気はないんだろう、やぶれかぶれで最期に一旗揚げようというんじゃない。だからこそだ、パルタイがおれの見る目の前で人を食らうなら……」
もう間は何も言わなかった。空いた右手を懐に突っ込みぐいと押し込む。テレポートか、和久田は突進しふたたびつかみかかる。千切れてもどうせ再生する、という異様な確信があった。
「マリヤ……《作動》!」
彼女が用いたのはドミトリのものとは違うらしい、間の背後に黒いモノリスが出現した。それがいわば穴であり扉だった。間はその穴の中へ逃げるように飛び込む。和久田はその背後から指先一本彼女の手首にふれたまま、重力の向きを九十度弱前方に向けて突っ込む。落ちていくと同時に重力から解放される。そのとき体の中で力の流れに劇的な変化が生じ、和久田は自分が金に輝く目をしているのを知った。
四角い影が裏返った。
同刻、フェルミのアパートでは、作動させようとしたすんでのところでディングを消された武藤が頭一つ背の低い童女に詰め寄っているところだった。
『私を殺してもワクタさんのザインが消えるだけ、ドミトリを殺してもテレポートが使えなくなるだけ、損しかありませんよ』
「彼がどうなってもいいと! あの人まで間美羽のザインの力に操られたりしたら!」
『あー、それなら十中八九大丈夫ですよ。それにムトウさんにはぜひ別のことをばしてほしいんですがね。オザワさんがいるでしょう? 彼女、危険です』
聞けば小澤は和久田がここに来る前いた喫茶店で、暴れ出さないようにと椅子に手足を縛り付けられているという。確かに、これまでの犠牲者のように、いつ何らかの仕掛けが作動して彼女を襲うかわからないが、フェルミの口ぶりの下品な含みにただ苛立った。
「知りもしない赤の他人が自分の息子より大事だと?」
『冷たいですねムトウさん。いや、これがそうでもありませんよ、正直言うと、情が湧いて来てるんですよね。できることなら彼女も助けてもらえるなら、私もうれしい』
情?
武藤はしたり顔でいるフェルミの顔を凝然と見た。これが、情? 《超人》へ至るという最終目的へのとっかかりとしての便宜上の息子が敵地に単身向ったのを放っておくのは、あるいは自信の表れかもわからない。しかし人間を本質的には食料としかみなしえないはずの《超常》の一が、情と言ったか?
内省を打ち壊したのは、《超常》を知覚するレーダーの網にかかった得体の知れない何かだった。マリヤのものに近いが、やはり異なる。位置を探ると、和久田の家の前の道をまっすぐ進んだつきあたりの、市を斜めに貫く街道を、素早く通り過ぎていったようだった、
『あれ、予想よりかなり早いですね』
「何が」
『オザワさんですよ、あれ』
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