二十八/Haines, ou Wrath
白い床にぬめりのある黒い水たまりが広がった。それはマリヤが一歩一歩近付いていく間にも広がりつつあった。彼は自らを甚だしく恃む者の勝ち誇った笑みで和久田を見下ろしてみせた。アリス、《黒兎》、彼女と違って、パルタイによって生み出されたこの男の鎧は、あの死を与える爪に比べれば全然脅威などではない。
『今の空間転移はドミトリの借りものじゃないぞ。《虚実》の応用でな、やれやれ、誰かが、どこに、あるかなんて、全くどうでもいいことだと思わないか?』
和久田は……いや、今は「カフカは」と呼ぶべきかもしれない……また血を吐いた。だが今度はやや少なめだった。痛みに悶える間にもその目は力強く見開かれ、いささか強い言い方をすれば、闘志に燃えていた。そして先の血の塊を最後に、気道は回復され、フェルミの息子はかすれていながらも声を発した。
『……西門光生か……
その視線はまったく凝然としていた。
『復讐はいい、でもそれを終えて、それだけでいいのか? 高校に友達もいるんだろう、その縁も全部切ってでも成し遂げたい復讐なのか、おまえの中で、それはどちらの方が重いんだ』
しかしそこでマリヤがぴしゃりと遮った。
『くだらない。安心することだな、ハザマ。パルタイは願いをかなえる、それがお前の願いだというのなら、その願いをかなえるだけだ』それから、またやはりあの勝ち誇ったにこやかな顔を作って、『今頃駅前でマリヤがアリスの相手をしているところさ。聞こえているかな、カフカ? おまえも見覚えがあるだろう、こう、襟口に羽をつけた女の姿をしたほうだよ』
『何?』
『Sein und Schein。パルタイ・マリヤは、二人で一人のパルタイというわけさ。まあ、何かがどのようにあるかなんて、至極くだらない事柄ではあるんだけれどもね?』
和久田は動くようになった右腕を下にして、仰向けだった体をひねるようにひっくり返した。転がりながら和久田は、今度はきっと西門を見て言った。
『西門。おまえ、一体何をしたっていうんだ? なんだってこんなことになっている?』
彼は答えなかった。和久田を、黒い粘液にまみれて、瞳を金色に光らせ、体表の一部はすでになにやら青く輝き、カフカと呼ばれた、聞き覚えのある名前の《怪人》を見た。唇を噛むようにして、しわを寄せながら目を剥き、うつむいて、結局答えずに、怪人は今度は間に向き直った。
『間、西門に危害を加える気はないって言ったんだっけな』
間は首を縦につよく振ってみせた。
『じゃあ西門をこんなところに連れ出して、なんだ。何をしようっていうんだ? これがどれほど怯えていたか知らないだろう』
「違う、違う! 何も……」
床に転がる得体の知れない男への恐怖もわずかに続いていた。あれは血を吐いているのではないか? 間の顔は赤く、目は黒く、きらきらとしていた。間は西門を見た。和久田はその目に希望を見出した。
マリヤが言葉を次いだ。
『さあハザマ、仕上げといこう。大丈夫、オザワはもういい感じに前科者になれる程度の暴れぶりを見せつけてくれているようだ……これで最後! おまえの復讐劇もついにおしまいさ。ニシカドコウセイ……こいつに然るべき処置を施すことで、めでたしめでたしとなるわけだが……九割方まで準備を進めてしまって、構わないかな、ハザマよ?』
「ええ、ええ……構わない。早く進めて」
この頃になると間ももう怯えから脱却しつつあって、息を整えながら立ち上がり、緊張した面持ちで西門を見つめた。西門もそれに応えて間を見返す。彼女の目には涙がきらきらと光っていた。瞳孔の開いた瞳はいっそう黒かった。
マリヤはその輝く瞳を眺めやると、満足げにほほえんで、ごく薄いタブレットを取り出した。操作に応じて、どこからということもなく細い腹の蜂が飛び、間の肩に留まって、変形し、白い羽と、血の色に似た濃密な赤色の羽を、それぞれ二枚ずつ、間の腕の三倍長にまで伸ばす。同時に腹部がねじれ、あたかもそれがほどけるような挙動をみせながら左右二つに広がり、膨張して、節々をかたや赤かたや白に光らせる。
部屋の四隅から四つの、硫化金属の光沢をもった、赤と白の針が出現した。それは鶏の羽の形をしていた。四つの尖頭はみな西門を照準していた。
『世界にはいろいろな虫がいるが、寄生バチの中でも変わり種があってな。ワモンゴキブリ、大型だな、こいつの触角をまずへし折る、それと同時に一流の脳外科並みかそれ以上の精度で神経に毒を注入して動きを鈍らせる……そいつを巣穴に持ち帰って、内臓部分に卵を産み付ける、ここはふつうの寄生バチの要領だな……幼虫の巣にされたゴキブリは巣穴に籠ったまま動きもせずに内臓を餌にされ続ける、衰弱し続けるがまるで動こうともしない、そして十分に成長した幼虫が蛹になり、羽化し、腹のクチクラを破って外に出てきたその時でさえ、犠牲になったこいつは生き続けている! まあそのうち死ぬんだが、それはともかく、この毒が撃ち込まれたら最後「病める時も健やかなる時も」ということになるわけさ。血生臭い道中だったが、最後はこれさ! いい喜劇だと思わないか、ねえ、カフカ? あるもあらぬも捻じ曲げる、
怪人の脳裏に武藤の薄らとした笑顔が浮かんだ。パルタイが人間を殺すなら、それがこの手の届く範囲での出来事であったなら、わたしはそれを絶対に許すことはない。和久田はその武藤の使徒だった。武藤陽子の神的な意志の
マリヤの視界に不自然に黒い影が映り込んだ。
その影は、いっとう妙だった。逆さにした雫型で、地面に近付くにつれて先細りしている。実際その先端からはぽたぽたと黒い液が雫となって落ち、水たまりを作っていた。妙なのはその水たまりだった。先程までカフカが浸かっていた、大の字になった人間がざっと四五人は収まるような粘液の湖が、ほとんど消えている。その真上に、肩、背、胸、腕に厚い層を持った膨れあがりが、現実感のないありさまで浮かんでいる。
影は脚一本で地面と接していた。スニーカーに液が染み込み、照り返しのない黒色を呈した履物は、中でもそのつま先だけを地面に着けて、過半は浮き上がっていた。その一本脚に傾いた体の重量をまとめて支えさせている、というのではない。むしろその体はほとんど浮き上がらんばかりだった。
展開されたザインやケルペルは光を反射しない。一面の表情のない黒色の涙型の塊も、上部のくすんだ金色の光点二つを除いて光を持たなかった。
パルタイの息子は断続的に呻く。強くマリヤを睨み、唇をわななかせ、気道の通りを確認して、運動の向きを下方修正する。水たまりを踏み潰し、二本の足で立ち、叫ぶ。
『…… WANDLE!!』
流転……母の《名》。
光点の輝きがいっそう強まって後、青い光の文様が抉るように現れる。水の層が潰れ、形成される《鎧》、昆虫のクチクラに似て非なる堅牢さで、細く、肩を覆う半球状の大袖には後方外側へ開く長い角がそれぞれ一本生え、胸と腹に分かれた胴鎧は更に細分化されていた。指の関節から飛び出る凸部の先には青い光が灯っている。
そして顔には上中下三部分が左右に分かれた六分割で構成された
西門は目を見張った。その姿は、かつて朧気な意識で目にした《怪人》の再来にほかならなかった。
ほぼ同時刻、武蔵小杉駅にほど近いタワーマンションの敷地内の公園、その一角、植樹された木々と建屋の死角に、武藤は小澤を担いで入り込んでいた。
顔中に血と唾、それに顔の脂だろうか、諸々の液が混然と付着し、言い知れぬ不快なにおいを漂わせている。そうして眠っている。武藤は、立ち上がり、意識を失ったその様子を見下ろしながら、背後から緩やかな速度で飛来している《超常》の気配を感じていた。
青く光る影はフェルミだった。
『おつかれさまです、アリス』
そう言って掌大の転送装置を取り出して武藤に渡した。
『場所は、あなたならもうわかるでしょう?』
武藤は居並ぶタワーマンションの一、煉瓦色の高く聳える側面、ガラス窓の楯列の一室を睨んだ。砕けたガラスの尖端の色を帯びた視線だった。あのお決まりの《超常》への憎悪、焼け焦げた復讐者ハムレット、《超常》を見境なく《死》へ叩きつける、死を与える神的暴力を帯びた視線だった。
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