二十三/Sein und Schein

 和久田、武藤、小澤、その場にいるのは人間だけだった。パルタイはどこにもいなかった。

 和久田が立てた仮説はこうだった……おそらくパルタイ・マリヤは肉体を二つに分割することができる。あの白黒の怪人はSein und Scheinと名乗った。つながれた二つの項のそれぞれを各々の片割れが担っているに違いなかった。一対一で戦うのは無理でも、二人でかかれば、であれば成功の確率ははるかに高かった。だから今だって十分に危険のある時らをおいて和久田と武藤は二人して川崎内陸部の住宅街の一角に押し入ったのだ。そう考えたのだが、しかし迂闊だった。

 半ば博打だったが、仮説の外れたことの副作用side effectは大きかった。時とその朋輩は間らが角を曲がったところで距離を詰め、車線も引かれない細い交差点の陰に固まった。どうやら一行はそのうちの一人が横浜駅からほど近い距離に住んでいるのでそこに向おうとしているらしかった。

 あまり遠くまで行くのは面倒だった。次第に道が細くなって見失わない保証もない。時は決断しぐいと一歩前に出た。流石に人死にの出るほどのことを彼女にした覚えは彼にはなかったし、他の面々もそう思っているのだ。

 時は一歩前に出た。しかし、そこで彼の足は止まってしまった。間も一歩また一歩と向かってきたのである。方向転換に少しでもかかったようには思われなかった。間は時や他の連中を凝っと見据えてずんずんと歩いてくる。まっすぐ時に向かうその眼差しには何か著しく欠けたものがあった。その著しく欠けたものを有していたかつての間の目を時は今や明確な存在感をもって思い返すことは出来なかった。その足取りはほとんど二人の距離が腕一つに満たないほどになるまで続いた。時は一歩退いた。

 間の目にあるのは何か著しく欠けたものだった。著しく欠けたもの? しかし時は自身こうして、その何か欠けたものもつ間に気圧されている。妙なことだった。以前の彼女はもっと無気力で、時の仲間が何をしたところで、今のようなぽっかりと口を開け地底へ黒洞々と降りてゆく巨大な穴のような目をしたためしなど一度としてなかった。時は凝っと彼女の目を見た。欠けているのではなく別のものが詰まっているのではないか? まなうらをくりぬいて何か別のものを詰め込んだようなふうに見えないこともなかった。

 間はまた一歩前に出た。時は完全に曲がり角の手前に押し戻されて、彼女は後ろにいた連中を見据えた。時はそれで遥か前を歩く三人組を見、そこに胸先三寸の位置にいるのと寸分たがわない格好を発見した。

「おい間、おまえ」

 ガラス玉、ガラスの目玉、鹿の剥製に据えられた人工の眼球、光の落ちくぼんで奥まった位置と表面から同時に反射している。

『これは極めて極めて極めて通俗的なことをいうんだがね』

 間の頭の上からひび割れてぶれて響く低い声がした。時も、後ろの面々もいちどきに視線を上げた。すると黒々としたひとすじのすきまが煤よりも荒くゴムまりよりも細かな黒い塵を吐くか吐かないかしながらまっすぐ上下に開き、間の正中線をまっすぐ貫いて地面に接し、観音開きの要領でかげろうのようにゆらぎ又硬直した間の像をこじ開けてあらわれた。

『いや単純な話だよ。単純な話なんだ。あるものはある、ないものはないというけれどね、

?』


 三度コールしてときにも他の面々にも繋がらない。小澤はごく短いパンツのほかは下着以外に何も身に着けておらず、武藤が貸した上着を羽織った。武藤は終始小澤から視線を外していたが、和久田には表情のはしばしが強張っているのはわかった。いや、もしかするとその全身も? 彼の想像力は視覚をして武藤の肉の像を結ばしむることはついになかった。小澤はといえば借りた上着が地肌に直接触れるのでこそばゆそうにしていたが、その合間合間にそもそもなぜ武藤がいるのかと訝しむ目を彼女に向けることをやめなかった。実際和久田とのではないかというふざけ半分の醜聞を除いて周囲との接点を持たない武藤がこのような場所にいると知られるのは大きな不都合に違いなかった。

 とりもなおさず、時と合流しなければならない。手分けして相手取るはずだった間とパルタイとを、向こうはひとてに引き受けることになってしまっている。その旨小澤に伝え、めいめい息をつきながら部屋を出ると、戸が閉められるのとほとんど同時に、高い耳鳴りと共に、あの超常のしるしたる肌を舐める違和と危機の感覚があった。

 目の前の空間、として和久田の目が結んでいた像がぱたんと上下両側から折れ曲がり真っ黒になったその像の部分の奥から二重の人影がひといきに現れる。白い光が長髪と瞳と胴を飾る羽根とで輝き、それ以外の光を全て吸い取るような滑らかな黒の衣に、即座にマリヤの影を感じ取った和久田は、そのすぐ前にいたもう一つの影の西門であることに気付くのが遅れた。

 首筋にそう刃渡りの長くはないナイフを押し当てられている。ああ、ここにいるのがおれ一人だったなら! 小澤は動けなかった。武藤も、ここに小澤がおらず、囚われているのが西門や同じ高校の生徒でもない赤の他人であったなら、迷うことなく全身《黒兎》を展開してとびかかり八つ裂きにするに違いない。しかし、よりにもよって、一度パルタイに憑依された視界で《黒兎》を見ている西門が目の前にいる。彼女は和久田の背後に隠れようとして、動くことのできず、足許を小刻みにふらつかせながら結局その場にとどまっていた。

『罠にかかってくれて助かった。ひっかかってくれたおかげで、このとおり、最後の標的を連れていくことができるようになったのだから』

 時のところに行っていたのではないのか? しかしそこで和久田は思い直した。こちらが間のいる横浜と超常の反応がある川崎とに分かれただけで、パルタイまでもその二か所に分かれて行動していなければならない道理はない。白いパルタイは独自の方法で西門に接触し、身柄を拘束してここまで連れてきたのだ。

「何故小澤を無傷で帰すなんてことを?」

『無傷とは限らないさ、心の傷ということもあるし、これから開く可能性だってある。傷がとかとかいうことを一々こうるさく云々するなんて、?』

「マリヤだっけ? 放せよ、光生に何しようってのさ」

「待て、由佳」

 西門が口を開いた。和久田はその顔を見た。こめかみには一筋の冷たい汗が、そのしずくのあたかも皮膚にしがみついているかのように伝い、平素にまして青白くなった肌は生気を失った土気色をさらしはじめていた。ナイフをつきつけられて顎を上げていたから、ちょうどアオリの構図で、瞳のかすかな光だけが、二三またたいて、和久田を見つめている……

「大丈夫だ、おれは」

「大丈夫じゃない」

「一番危ない由佳が……とりあえずは……無傷じゃないか」

「わたしも自分が何されたかわかんないんだけど」

「でも、多分死なない。パルタイは契約の対価に、命を、持っていくんだろう? だから契約もしていない人間を殺すなんて不合理だ、きっと事故で……そう不幸な事故で……一人死んでしまっただけだけれど。そうなんでしょう、パルタイさん」

『さあ』マリヤは答えるでもなく言った。『パルタイは願いをかなえるだけだから』

「光生」和久田も名を呼んだ。そこで言葉が詰まった。和久田はくらがりで蒼白になった西門の顔を、普段のユーモアある助言をする西門の顔を、喫茶でまっすぐ目を見通す西門の顔を思い浮かべた。

「いいのか」

「ああ」頷いて言った。「いいんだ。これはおれが償わなければならないことだから」

『これでいいんだね?』

 確認するようにマリヤが言った。西門は甚弱々しく首を縦に振った。結んだ像がぱたんと折り畳まれて後には黒い長方形の像だけが残って消えた。

 西門は目を開いた。こうして空間がときは目を閉じていなければ堪えられなかった。彼は今やどことも知れない高層ビルのがらんどうの一室にあった。前面に壁丸ごとのガラス張りが開けていて、見るとどうも武蔵小杉のタワーマンションに自分は連れてこられたようだった。

 これではどうしたって逃げようもないし、和久田や小澤も、あるいは武藤もここまで来ることはできまい。

「間は?」

『今夜にでも来る。それまでしばらくここで待っているといい』

 彼はあの白い顔の中ほどに輝く射干玉ぬばたまの黒い瞳の奥の、一度見た間の目に見えたものと同じ、底のない憎悪の色を思い出した。

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