二十/幕間(二)
マリヤは当座の根拠地としている幸区のマンションの一室に間共々戻ると、死んだように眠っている小澤を無造作に床に転がしてリビングの端にあるカウチに半ば寝そべるように座り込んだ。二人とも土足だった。気絶した小澤は特大のザックに頭から押し込まれていた。マリヤはモッズコートを脱いで椅子の背もたれめがけて投げつけ指折り犠牲者を数えながら黒い幅広の板状端末を取り出すと、《卵》を注入されていた一人の状態をモニタリングしている画面を開いた。
ザイン《緑柱蜚蠊蜂》は獲物の体内に幻覚を見せる《卵》を産みつける。産み付けられた人間は一度意識を失い、目覚めてからは始終何等か厳格に悩まされることとなる。そして一定の時間が経過すると産卵管を突き刺された場所から《卵》が孵り、肉を食い破って外に出ていく……しかしここでいう幻覚が果たして実に幻覚、一から十まで現実と不一致であるような虚妄の像といえるかは判然としない。
ニヒリズムの認識論的側面……認識の間主観性に訴えることなしに個々の主体の感性が結んだ像の真偽を判別することは可能か否か、あるいはよし間主観性によって相互の像の一致を見たとして、その像が対象を十全に表象していると判断しうるか否か。
閑話休題。バビロニア法典の原則の外にあるこの私設法廷において今や大方の被告は裁かれて、今しがた連れ帰ってきた小澤と二人、いや三人を残すまでとなっていた。モニタリング画面から目を放して座椅子に深々と腰かけている間の間を見やると、彼女はご満悦といった調子で片手に文庫本を、片手に携帯電話を持って双方器用に扱っているところだった。奇しくも彼の雇い主が望んだのも生命に寄り添って続く認識論的に永遠の火獄だった。ともかくパルタイは彼女の復讐に手を貸し、彼女に代わって手を汚しているというわけだ。決め手の《卵》を行使するのは原告である彼女だったとしても。
認識論的に永遠である火獄……間は指折り数えて願いの成就の日を待っていた。早ければその日の内に全ての駒が出揃うことになる。そうなれば最早、その日から死ぬまで、すべての被告人がおしなべて彼女の造りだした火獄に住まう。一切手を下すことなしに、手を下したという証拠なしに、超常の力と自身の心象の像によって練り上げられた地獄の形象の内に喘ぐ被告を高みから眺めやって涼しい顔をしてほくそえんでいればよいのである、それほど悦ばしいことはほかになかった。そして間が借り受けた超常の力を行使することにはもう一つの利点があるのだが、それについては後述の節に任せなければならないだろう。間はマリヤが突然立ち上がって古ぼけた登山用ブーツがドンと音を立てて床を叩くのを聞いて顔を上げた。いや本当は突然の物音に顔を上げたところその音の正体がブーツが床を強く叩く音であることを知ったのである。
「何?」
マリヤは唇を四角く開けて歯を剥き、湾曲した形で口角を上げて、そうしながら顔を白くして間に向き直って答えた。
「どうも、一人死んだ」
「は?」
「ザインが殺したわけじゃない、待ってろ今尾行してた端末の映像を……(マリヤは立ったまま端末を操作している、機械は支えもなしに平然と中空に浮遊していた)……あった、ああ幻覚だな、幻覚に追われてるんだ、で、路地から表通りに出ようってところで、左右確認をしそこなって、法定速度で走ってたトラックと正面衝突してお陀仏ってわけだ。全身を強く打って死亡って感じだなこりゃ。あー運ちゃんもかわいそうになあ、こんなろくでもないヤク中みたいなチンピラ一人撥ね殺したってだけで懲役食らいかねないんだから。畜群道徳畜群道徳……」
マリヤの弁解を聞くうち、間の心の内、丁度心臓のあたりに、突如として金属球を埋め込まれたかのような、背筋を丸くさせる重苦しい感じが募ってきた。彼女が望むのは認識論的な永遠の火獄だった。死を与えることは本意ではなかった。それに自分は殺されたわけではないのだ。同害報復の原則を取り払った復讐にしてもあまりに過剰であることは明白だった。
「嘘でしょ」
「確認するか?」
マリヤが映像を見せようとしてきたが、それを拒否し、そのまま座っていることもできなかったので立ち上がって、リビングを右へ左へどの方向へ向かってということもなくかたつむりのように曖昧にまた野放図に速足で歩き続けた。
間はいわば責任の重さにかえって浮足立っていた。犠牲者はまさに今しがた命を落としたところで、今現在はそれを客観的な方法で確かめる手立てはない。しかしながらあと何時間もすれば夜の報道番組で人死にが伝えられるか否か、それによって真偽を確かめることができるようになるはずで、青い空に黄色い膜の浮かぶ時刻だった。
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