十九/喫茶店にて

 西門を担いで駅前の喫茶店に入り、注文を済ませたところで武藤が入ってきた。彼女は最初立ち話を二言三言交わしてすぐその場を離れる心づもりだった。この一件にかかわっていることを西門に知られるのは都合の良いことではなかったから。しかし店員の視線を感じると、その半ば奇異の、半ば非難の眼差しに弱い武藤は観念したように和久田の向かいの椅子を引いた。意識のないまま椅子に座らされた西門を挟んで対面で席に着く。和久田は西門の前にあったコーヒーを差し出したが首を振って断った。ともかく、マリヤが武藤の爪から逃げおおせたことは事実らしい。妙な黒服を与えられたからといって、武藤自身の身体感覚は決して荒事向きのものではなかった。

 その武藤は血の気の失せた顔をして、ひどく憔悴しているようにさえ見えた。和久田が一口コーヒーを啜りソーサーに置くと、セラミックの硬い音が鳴って、彼女は不意の衝撃に肩をびくつかせた。

「すみません」俯く。

「また、取り逃がしてしまって、小澤さんのみならず、西門さんまで」

 和久田は我知らず眉根を寄せていることに気付いて、軽く眉間を揉んだ。胃の真上あたりでさかまく溶岩のような一種の怒りが彼の表情を硬くしていたのだ。

 まただ。また武藤を単独でパルタイと交戦させた。その結果彼女は怯えている。自分以外の誰かに怯えている。それが一番気に食わなかった。

 おれは何をしているんだろう? 自問した。知己が攫われ、古くからの友人はほとんど死にそうな目に遭ったというのに、そんなことよりも体に傷一つ付いていない武藤を気にしている。もっとも彼女が傷付きうることなど絶対にないのだが。何人も武藤陽子の肉体を傷付けることはできない、彼女に架せられた《呪い》が解けるまで。

 気がかりなのは、武藤も武藤で和久田と共闘するよりは二人で別行動をとり広くパルタイを警戒する策の方が有益であると考えているらしいことだった。彼女には必殺の爪がある。それでもその威力を十分に振るいうる相手は、少なくともパルタイの中では非常に少ないように見えた。マリヤを筆頭に、あの変幻自在の怪人どもを相手に、殴り合いの喧嘩などでさえ一度もしたことのないような武藤が立ち回れるとは、和久田には思われない。少なくとも彼女は一個の美神ではあったが、その美神が同時に戦女神でなければならないとは、和久田は考えていなかった。そして武藤は戦女神でないがゆえに代わって盾となり槍となるのは、ほかならぬ和久田、《流転》と《熱》の天道虫の鎧を纏った、名をカフカという怪人の一でなければならない、そのはずなのだ。しかしこの善美の神は他への慈しみも持ち合わせているので、超常をたちどころに殺しうる自らの《爪》の力を恃んで単独行動を選ぶ。

 口約束だったとはいえ、「もしも和久田がパルタイに立ち向かうようなことがあるならば、そこに必ず武藤がいるようにする」という約束を交わしたのは、ほかならぬ武藤なのだ。それを彼女はつい先程、自分を囮にするような形で……和久田に西門と小澤とを託して……マリヤに相対したのではなかったか?

 にわかに畏れが湧き起こった。

 武藤はおれにあの二人を預けた、おれの力を恃んで二人を託したのだ。それなのにおれは、その期待を裏切ってしまったのではないか? 和久田は頬を流れる血が肉体の奥へと引いていくのを感じた。

 和久田は口を噤んだ。武藤も黙っていた。三人して何もものを言わずして椅子に座っていた。

 武藤が立ち上がろうとして、一拍先に動いたのは西門だった。次第に意識をとり戻し、背もたれに預けていた頭をのそりと持ち上げて、落ちくぼんだ目で、まず、左の武藤を見た。突然悲鳴を上げて椅子から転げ落ちそうになる。和久田が椅子ごと支えてもちこたえた。ほぼ立ち上がって中腰に近い姿勢をとっていた武藤は二三歩距離を取った。

 西門は覚醒の最中開けていく視界の中に、人間とは思われない、無数の黒い粒に覆われ、先の見えない黒い靄を湧き立たせる影が、風景を刳り抜くかのようなありさまで平然と椅子に腰かけているのを見たのである。覚醒した彼はまずその濃密な《死》の匂いをまつろわせた黒い影に驚いてとびのき、そして彼自身の座る椅子を支えた人物に視線を移して尚おののき、ふるえあがりながら己の顔をのぞき込む者の着ける仮面(?)の、通常の幾何学の原理を一顧だにせぬ歪んだ輪郭とその黒い表面の濡れたような反射、そして隙間から漏れる光の、面の裏に備え付けられた電球のものとみるにはありうべからざる激しさから逃れようと体をのけぞらせた。

 しかしそこで西門の視界は普段と変わらぬものへ立ち戻った。前後を感覚してのち、彼はようやっと胸に深々と突き刺さった三角剣を思い出してその箇所を触れるも、ほとんど貫通していると思われた傷は見つからず、どころか衣服にもまったく裂けたところはない。肋骨の間を通り肉を引き裂いた剣の跡は、悉消え去っていた。だが冷たい汗をかかせた一撃を思い出して、西門はふたたび胸の内奥の肉の鈍く痛むのを感じた。

 胸を押さえる西門を見て、武藤も眉根をよせて共苦の表情をつくる。そうしながら彼が俯いている間に足早にその場を離れ、店の外へ出てしまった。西門は目を開けて最初に視界に入ったあの影を追って周りを見回したが、特段異様なものは見当たらなかった。横に座っていた和久田に問う。

「小澤は?」

 聞かれた方は、すぐには返答できない。西門はほとんど鞭打つように、体を軋ませながら、テーブルに手をついて立ち上がった。よろめく彼を支えようと和久田が肩を貸して、それに応じたところで、徹、と肺をひねって空気を絞り出すように名前を呼ぶ。

「どこに逃げたかとか、わかるか」

「一回休んだ方がいい」

 西門は目をめいっぱい見開いて意識を保っている様子だった。その顔はほとんど死人のように血の気を失い青白く、メラニンの色彩を孕んでほとんど土気色になっていた。

「わからないのか」

「わからん」

 和久田は首を縦に振った。西門は俯き、眉間の皴をいっそう深くしたが、心臓が不自然な動きをしているのを感じて腰を下ろした。

「今何時?」

「二十分と寝てないよ、お前」

 和久田の予想に反して早い覚醒だった。だが、ほとんど疑似的な死を経験したような西門の体に、意識を取り戻してすぐ万全の力を出すことはかないそうにない。間らにも問い合わせていたが、連絡はついていなかった。そして和久田は、これは西門には伝えていないことだったが、今度ばかりはマリヤからの書きつけの類も受け取っていなかった。

「どうすればいい、徹」

「おれに聞かれても、わからないって、そんなの」

 西門の声は、それが内心の迷いを反映しているのか、胸や息がつかえるという器質的な問題なのかはともかく、途切れ途切れだった。

「間美羽への、校内暴力、の主犯は由佳だ。あいつが中心人物だった。その由佳が、今連れ去られていったんだろう?」

「ああ」

「マリヤ、奴の言い条を信じるなら、もうこれでほとんどあいつらの復讐は終わってるはずだ。多分もうこれ以上被害が出ることは、多分ないだろう」

 彼は言った、おれは自分を裁かせなければならない。

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