十八/《ザイン》緑柱××蜂、あるいは仮面(2)

 駅前に出た。片側二車線の交差点と駅舎の間にはおおよそ正方形の広場があり、往来が縦横に交差している。三人とも、和久田も含めて、一度も振り返ることなくここまで走ってきた。あのアリスがマリヤを押しとどめているのを祈るばかりだった。

 ひとまず改札を抜けなければならない。ペースを緩めず三人は走った。ただならぬ雰囲気を感じさせる三人組に往来の幾人が視線を投げかけ、進路の邪魔をされて眉を顰める。改札まであと五メートルとない。しかし、そこで、殿にいた和久田は、頬を刺す無数の刃物の切っ先、血に濡れた九十のナイフの切っ先を四時の方向に感取し、内心慄然とした。

 肌が粟立っていた。それはひどく不吉な、ほとんど和久田にとって凶兆のようなものを感じさせた。初めて武藤の《黒兎》の姿を前にしたときと同じ、張り詰めるような害意と復讐意志がそこにはあった。違うのは、ほとんど形而上的な尖端持つ武藤のと異なって、こちらの方は格別に血腥いということで……

 振り返ったときにはもう遅い。

 小澤は、脚力の高い西門とその手を繋いで、彼に引っ張られるようにして走っていた。その小澤の体が突き飛ばされて左に倒れる。

 ほとんど奇襲だったが、西門はかろうじて手を放さずつなぎとめた。しかし小澤の体から急速に力が抜ける。態勢を立て直そうと西門が腕を引っ張ってもただと首が引力に逆らわずに垂れ下がるのみで、彼女の目は完全に沈黙していた。

 和久田はそのときほど狼狽した西門を見たことがなかった。肌がにわかに色を失い、目はかっと見開かれて、ひくつく半開きの口から次の瞬間には破裂するような切羽詰まった声が迸る。改札のすぐ手前で人が倒れたとあって、人の流れがひどく阻害され、和久田らの周囲にエアポケットのような空間が開いた。

 横合いから小澤を狙って突き飛ばしたのは、猫ほどの大きさの影であった。人間とは思われない。そいつは小澤の右腕にとびかかって噛みつき、どうやってかすぐに戻っていった。

 戻っていった? どうやってかすぐに? 何を思わせぶりなことを。それがアリスと同じ超常の力であり、マリヤやフェルミと同じくパルタイの力に属するものであることなど、和久田には見るまでもなく明らかなのに。腕から飛び去った影は、三メートルほど先にいた別の影の腕へと収束していった。その形は、本来はずんぐりむっくりとしていただろう太ましい立体を細長く引き伸ばして腕に巻き付けたようで、先端は万年筆のペン軸のようにも見えたが、一目見ただけでその人間の傷を疼かせる暴力的な針の様子は、むしろもっと生物的な凶暴さと野蛮の感じを和久田に印象付けた。

 灰色のパーカーを着ている。見覚えがあるようなないようなパーカーだった。とっさに間美羽を思い出したが、しかし目の前のこれといって特徴のない灰色のパーカーなど巷に万単位で流通しているだろう。顔を上げると、そこにはやはり自分と目が合うべき顔が……いや、その顔は昆虫の口吻様の装飾を施されたガスマスクで隠されている。マリヤと同じ光を通さない白色が隈取のように表面を覆い、視界を確保するガラスは光って、ほとんど暮れかかった空の、炎色反応の色彩を煮詰めて固めたような半ば濁った赤色を呈していた。

 間違いない、これは自分の同族の気配。和久田のようにパルタイの後胤たる者としてその核を肉体に埋め込んでいるかはわからない。しかし今和久田が相対しているこれが紛れもなくパルタイの製作する生物型器械ザインであることを確信した。そしてそうであるからには、やはりこの灰色のパーカーを着ているのは。

 改札付近を急ぐ人々の間にざわつきが広がっていた。しかし、あるいはそこに、一つのまた新しい影が現れた。光を呑み込む黒色のジャケット、日差しの下でも雲母きららと輝く白いファー、上半三分の一程度が剥き出しになっているほとんど球形のバスト。真っ黒のレザーパンツとブーツ。靴底は嵩上げされて七センチほども高くなっていた。パーカーにガスマスクのもう一人と並ぶとその身長差がよくわかる。それがほとんどいつの間にかそこに立っていた。何食わぬ顔で歩いて来ていたのを和久田も西門もしっかりと視界に収めてはいたのだが、そうと意識するまでの間に彼女はそこまで間合いを詰めてしまったのである。

 二人とも、その姿は伝聞の形でこそあれよく知っていた。しかしそれは間美羽がザインを身に纏った姿ではなかったのか。ガスマスクのザインを展開しているのが間だとすれば、このいかにもパルタイ然とした女は? そのとき和久田はやっと後者の瞳の色に注目した。白い!

『知ってるだろ? 存在と仮象Sein, und, Schein……どちらが実体か像かはともかく、二つかそれ以上の姿を持っていて悪い道理はない。フェルミだってちんちくりんのガキと一丁前なナイスバディ―の二通りある。それと同じことさ』パルタイは誰を見るでもなく言った。

「アリスはどうした。お前でも勝てる相手じゃないだろう、あれは。それともまた上手く逃げおおせたのか?」

『それがな、あのお嬢さんな』悪辣を絵に描いたような笑み。『向かってくる拳を見ると体が竦むようにらしい』

 マリヤはぐったりとしたままの小澤に目をやり、腰に佩いていた三角の刀剣を引き抜くと切っ先を彼女に向けた。西門が彼女を庇って間に入る。パルタイはその胸をまっすぐ突き刺す。苦悶の表情を浮かべた少年の顔から汗が垂れ、力なく倒れ臥すまで、二秒とかからなかった。血の出ないことといい、ほとんど殺陣の役者のような動きだった。そういうせいもあって、マリヤの派手な服装もあって、マリヤが小澤を抱え上げ肩に担いだ頃には雑踏は元の落ち着きを取り戻しているように見えた。

 自傷の為の道具は手元にない。和久田にはほとんどどうすることもできなかった。ガスマスクは去り際、こちらとマリヤとを交互に見るようにしていたが、すぐに彼方へ向かって行った。

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