十二/侵入

 マリヤが和久田のポケットにねじこんだのは一枚のメモ書きで、住所が二つ、彼の潜伏先と思しきものが記されていた。和久田はなぜこれが自分に、あの恐慌の中、他の認識を惑わす幻術を用いながらその場を去ろうとしたパルタイによって手渡されたのか理解した。

 一か所は病院から徒歩数分の距離にあるマンションで、もう一か所は和久田らが通う高校のやや北に位置する倉庫だった。たしかちょうど西門のいた中学の面々のたまり場になってはいなかったか。おそらくは守衛室のような場所を根城にしているのだろうと和久田は考えた。

 少し迷ったが、武藤にこのことを伝えると、位置を聞いた段階で彼女は自分が倉庫に行くと言って、すでにそう決め込んでいるようだった。曰くマンションはデコイで本命は倉庫だろう、パルタイにはドミトリの空間移動技術もあるし、そうでなくとも待ち伏せしていればやってくるに違いない、と。

 そういうわけで和久田は大病院から徒歩五分に位置する築二十年ほどの方形のマンションに向かった。日がほとんど暮れかかっていた。部屋番号は403。インターホンを押すまでもなくドアノブに手をやり、ゆっくり回す……開いている?

 間違いない、ドアは施錠されていなかった。

 開ける。照明は消されて暗く、玄関には一足の靴もない。しかしフローリングには土足の足跡が一歩、二歩、三歩ときて四歩目で消えている。白い砂が途切れているのがひどく不気味に映った。

 和久田も土足で、足音を立てないように静かに部屋の中へと踏み込んだが、すぐに気付いたのは、妙に清潔であるということだった。そう狭い部屋でもないのに、複数人を監禁している割にはごみや袋が見当たらない上、その部屋にはまるで人間の匂いというものがなかった。一つには肌感覚であり、もう一つにはそう、人の血や垢の傷んで発するすえた匂いが感じられない。

 感ぜられる雰囲気様のものからは、その部屋は無人に思えた。しかし扉が開いていたことといい、その招かれているような感じは、和久田に少なからぬ警戒を促した。

 まっすぐ一本道の廊下があり、奥には洗面所と風呂場があるようだった。玄関から歩くとそう遠くない位置で右に開けて居間が見える。机があり、椅子が六脚あり、食卓のすぐ後ろにはキッチンが備え付けられていたが、調理器具はどこにも見当たらない。戸棚にも食器類は見えなかった。

 そのキッチンは部屋に入って左側にあった。和久田はそこを軽く見渡してから、時計回りに振り返って外壁の窓を見、点いていないテレビとその前のソファを見、そして最初見ていたキッチンから二百度ほど回ったところで、飛び込んできた光景に和久田は凍り付くほどの寒気を覚えた。

 そこにあったのは、おそらく和室に繋がるだろう襖だった。そして襖板のそれぞれ、床と壁との隙間とは、乱雑に切られた紙製のテープでもって、上から何重にも目張りされていた。一々が粗雑でありながら、その執拗な仕事ぶりに、超常とは別の異様なものを感じて、和久田は背に冷たいものを感じた。復讐、とマリヤは言った。その復讐の主たる人物、間美羽と目されているが、その人物の、この復讐という営為にかけるある種の熱意を垣間見たのである。

 そして……このように目張りされていたから、外にまで悪臭が漏れなかったのではないか? 匂いを漏らさないために、ここまで執拗に戸を目張りしたのではないか? 床や壁に一切血やその他の汚れが見当たらないことに気付く。

 和久田は一歩一歩、襖の向こうに聞き耳を立てながら近付いていく。何も聞こえない。中央の戸板を目張りしたテープの、端がわずかにはがれているのをつまみ、音の出ないよう細心の注意を払いながらゆっくりゆっくりはがしていく。途中まではがれたが、そこで斜めに亀裂が走って、裂けながらひときわ大きな音を立てた。心臓が飛び跳ねる。やや時間をおき、落ち着かせたところでふたたびテープの端をつまんだところで、ナイフを使えばいいのだということに気付く。持ってきていたのは、時が餞別と渡してきたもので、場所によっては雑貨店でも売られていそうな安っぽい一枚刃だった。疑心暗鬼の結果だとは思いながら、和久田は、あるいは時も自分の超常にかかわっていることを立ち振る舞いからそれとなく看取しているのかもしれない、と考えた。

 いや、当然杞憂なのだ……和久田は襖の向こうでうごめく何者かの気配を探った。これといってそれらしきものは感じられない。意を決して、上から下まで一気に紙のテープを切り開く。二歩下がって半身で身構え、変化のないことを確認してから、上下のテープも同様に切り開いていく。そうして一通りを終えると窪みに手をかけて一息に両の戸を開け放った。

 薄暗がりを見て、和久田は総毛立った……そこには、何もない。畳の敷かれた和室の上には、流血の為した赤黒い痕どころか、ほとんど埃さえ落ちていない。座布団や卓袱台や調度類や、あるいは紙テープやビニール紐や鋏や金属塊や、とにかく人のいたことを示すあらゆるものがそこにはなかった。そして、正面の窓には段ボールが張られている……そこだけに唯一人間の痕跡があって、その段ボールを固定する何重にも張られた紙テープの有様に、彼は身震いした。



        こっ


  こっこっこっ

                  こぅっ



 

 振り向く。しかし何かいるはずもない。彼が今立っている居間には、彼以外何者もいなかった。では、今の声はどこから? 和久田の耳には、それは後ろから、それも和久田が入ってきたこの403号室の入口に近いところから聞こえてきたようだった。

 そう、何もいない。同時に、それでいながら、遠くから雑音が聞こえてくる。壁の向こうに風呂場からだろうか? 暗い浴槽に張った水の、黒々とした底から? あるいは、薄暗い水底に空いた、どこか別の暗い場所へつながる穴?



    ぎい      こっこっこっこっ

 ぎいっ    こぅ

     こっぎいっこっ



 玄関から正面にのびる廊下、足跡が消えた廊下があって、声はその奥から聞こえてきた踏みつけられたフローリングが軋む音が大きく聞こえてきた。一体なぜ? こうしている今だって、和久田の皮膚感覚は、あの超常一般の放つ焼けつくような異常の気配を毫ほども察知していない。そして、板の軋む音と同時に聞こえてくる人ならざる者の声に、和久田はようやく得心がいった。いつか見たことがある。そう、あれは小学校で飼われていた鶏だった。断続的に鳴きながら足許を歩き回るあの鳥どもとまったく同じ声が、今、廊下の奥から聞こえてくる。

 背後の襖の奥の部屋にも注意を払いつつ半身で身構える。ナイフを握りなおす。そうしたところで、こう、と一声とくべつ甲高い声がして、硬い羽根に覆われた鶏の前肢が、和久田の頭ほどの位置で廊下側の壁を掴み、展開された前肢の先端が暗い部屋のわずかな光を反射してきらめきながら、ぬう、と部屋の中へ飛び出た。

 人の世に潜む怪人・パルタイは、状況に応じていくつかの姿をとる。第一は、平素巷間に潜み過ごすための平凡な人間の姿。フェルミは普段イタリア系アメリカ人と日本人の相の子、片親の故地日本に越してきた学生として過ごしているが、和久田やあるいは(超常を察知するレーダー様の能力を持つ)武藤でもってしてもその正体を見抜くことはできない。

 第二はマリヤが病室で見せたような、黒ずくめと単色の髪・瞳の姿である。肌を撫で、ひりつかせ、たちどころにと感じさせる独特の気配を放ち、パルタイとして活動する多くの場合はこの姿をとるほか、パルタイ一人ひとりに独自の超能力を行使することができる。フェルミは手で触れた物体の運動するベクトルを操作することができるほか、緑のパルタイであるフリオロフは得物である鋏を自由に膨張縮小させて戦った。

 そして第三はフェルミが一度だけ見せた姿で、パルタイ独自の超能力のモデルとなった怪物を模したものであるらしい。和久田も明確にそれとして見たのはフェルミの一度だけなので、わからないが、目の前の巨大な羽根の持ち主がそれであることは容易に想像できた。

 そして、腕に続いて肩口が……いくつかの羽根の逆立ちが刺々しく光っている……、首が……帷子のように隈なく滑らかに羽毛で覆われていた……、そしてのっぺりとした白に輝く鶏冠と瞳が現れた。人間とは逆向きに曲がる膝関節を備えた脚が一歩踏み出す。蜥蜴の鱗に似た硬質の外皮が均一に濡れているかのようにてらてらとして室内の淡い光を跳ね返しながら、ぬらり、と踏み出すごとに床板が軋む。身の丈は二メートルを超す巨大な鶏が、生気のない目で矢のようにまっすぐ和久田をとらえた。

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