十三/会敵

 目の前の鶏の化け物が明らかに《超常》に由来することを察知した和久田は、重心を低くし、まったく反射的に前に跳ぶと同時に、左の掌にナイフを突き立てる。

 一歩――

 肉が引き攣る、目に星が舞う。その中で眼前の怪物を見る瞳の奥に煤けた金色の光が映じ、左手首を取り巻く円周状の空間が裏返った。現れたのは三角柱の底辺を内側に向けて円形にまとまった腕輪である。手の甲の側には一点腕時計ウォッチのような円形の盤があり、黒い甲殻に七つの円を輝かせる一匹の甲虫が蹲っていた。

 二歩――

 前へ前へと進む筋肉の動きに照応し、酸素を運ぶ血管中を仮想のフォトンが走り抜ける。彼の動きはまったく肉体の反射であった。突進する運動の中で、和久田の肉体を瓦斯とも液体ともつかない黒い粘つく霧が覆っていく。脚、腕、腹と抜けていく霧はまたたくまに硬質のクチクラへと変じていく。

 三――

 黒い鶏の腹部に異様な奥行きが生まれた。左腕を振うと和久田の掌からナイフが飛んでいった。腹の奥から干戈剣戟のと触れ擦れ合う音声おんじょうが響いてきた。床に突き刺す足の一歩の音声おんじょうが、一転金属鎧プレートメイルの底の響きに変わった。

 四!

 和久田は床を蹴り、天井目がけて頭から落下した。ほとんど直線の軌道を描いて、異様な勢いで、引力に逆らって正反対に跳び上がる。

 巨大な鶏は、立ち止まり、身をのけぞらして、天井にする黒い影を見た。そこにはつい先程までのシャツを羽織った少年の姿はなく、その異様な姿を敢えて一言で表現するなら、そう、それは天井に張り付く黒い巨大な昆虫であった。黒い鎧の端々に炎を抽象化したステンドグラス様の青と金の光の文様を浮かべ、煤けた金色の触角を生やし、青い頭部と黒く濁った光を宿した金の複眼を持つ、全身に短い棘を具えた昆虫。触角は眉間から生え、ちょうど黄鉄鉱の結晶からその色彩を抽出し塗りこめたような暗い金色を呈していた。頭部の青は伸びた髪の放つ光の色であった。全身を包む鎧は世界に遍在しながら人間には顧みられることのない暗黒物質の現前であり、浮かぶ光は極小のビッグバンの顕現だった。非現実の世界から引き出されたイメージに注ぎ込まれるこの世ならざる質料υληが互いに合一し、一個の現実態ενεργειαを形作っている。しかしその事実をパルタイであるマリヤは知らないし、ましてや和久田も知る由もなかった。兎も角も彼らにとって自身の肉体であるその超常は、その在り方に関する明確な理解の存在不在如何を問わずして明確にausdruecklich自在に操りうるverfuegbar代物であった。

 鎧はわずかな光もとらえ且つ反射するので、黒い色にはどこか油に濡れたような風情があった。五体を隈無く包む鎧は造形的装飾を排し、腕なら腕、脚なら脚を流線的に覆っている。奇妙なことだが、鎧には接ぎ目がどこにもなかった。コールタールにも似た表面のごく薄い層がたえまなく流動して、関節部分を覆っているのだった。

 昆虫は天井にぺったり足をつけていたが、それもわずかの間だった。、天井を蹴って滑るように落下する。それを見たマリヤは首筋の羽を大きく逆立たせた。にわかに膨張したように見えるその運動は、首筋から背へと進み、再び床に着地した和久田が後方へ跳躍する段になって一直線に射出され、視界を埋め尽くすほどの面状の刃の波涛として迫る。

 和久田は重力のベクトルを今度は真後ろに変更、壁に向かって落ちていく最中にテーブルのへりを掴んでひっくり返した。天板の床側がマリヤを向き、飛んできた刃を受け止める。五本が板を貫いて反対側に飛び出し、一本が鎧に軽く突き刺さったが、さりさりさりさり、しりしりしりしり、と小刻みに音を立てて刃は、鎧に刺さった根元からぽとりと落ちて、地面に触れる前にふんわりとした羽毛に戻ってしまった。

 床を転がる和久田めがけて突進するマリヤ。しかしちょうどテーブルが死角となっていた。金色の目をきらりと輝かせて天板の陰へ滑り込めば、指先で触れるだけでテーブル全体にかかる重力の向きを操作することができる。三十キロは下らない木の塊が、突如として音もなく持ち上がり、マリヤをちょうど迎え撃つ軌道を描いてした。和久田は天板の上に乗っている。天板はさながらバリケードである。二人は一気にあけはなたれた襖の奥の和室まで落ちていった。

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