十一/繭

 ほどなくして武藤フェルミ両名と別れてすぐに、西門から彼とは別の学級の人間が襲われたと連絡があった。

 戸澤や時や久保、以下西門と同門の面々の多くは未だに病院に留まっていた。午後八時までは面会が可能であるという。皆大人しくしていたが懐には警棒やメリケンサックが突っ込まれ、あるいは弓袋にバットや木刀を忍ばせている。ジーンズの裾にポケットを作ってペインティングナイフを改造した刃物を仕込んでいる者さえいた。

「まだ目を覚まさないか」

 西門と鉢合わせすると、彼は何か求めているような目をしていた。問う和久田に無言で頷く。直も朱音も昏睡から覚めてはおらず、状況は先と全く変わっていなかった。いや悪化してさえいた。

 ……本当に、一体、どうすればいいのだろう?

 そんな疑問が浮かんで離れないような状況は、不安だった。こういう時、たいてい自分はうまい決断をすることができない。二度にわたって大きな失敗を犯した和久田は、その体験から自ら英雄的であることを諦めた。自分には最善を選択する能力がない……。

 その時、猩と一つ颶風が吹きわたって、病室の入口に黒い影が現れた。薄暗くなった廊下を背にして尚その髪と瞳とは白色にのっぺりと輝いている。彼は並みいる学生連を睥睨するように見て、

『なんだ、まだいたのか』

 と言うと、徒手で殴りかかってくる一人を床を這うように躱して転倒せしめ、足を払って倒した二人の内の一人の襟を掴んで三四度顔を殴りつけてから、警棒を振り上げた別の一人に投げ飛ばした。倒れこんだ先にはカーテン越しのベッドがあり、金属が大きな音を立てて床に擦れると寝ていた患者が悲鳴を上げて、ナースコールベルを鳴らしたのが聞こえた。

 サックで武装した一人が殴りかかったが、単なる金属の輪を繋げただけの構造だったのがいけなかった、パルタイは拳を正面から掴み取り、その手を振り下ろすと、前のめりにガクンと下がった顔にめりこむような膝蹴りを食らわせる。腿を蹴りあげて、靴底で胸と顔を踏みつけ、足を払って倒した二人の内もう一人もついでとばかりに顔を蹴り飛ばす。大上段で木刀を構えて突進する、あれは久保だろうか、彼女に正対したマリヤは一瞬の虚の姿勢からまっすぐ顔面へ拳を突き出し、鼻っ柱を叩き折られた久保は血を垂らして卒倒した。

『面会時間とかを確認しておけばよかったな』

 マリヤはそう言って、見るともなしに病室の奥側にいた面々を見て、すぐにベッドを見た。それを庇うように時が一歩前に出て言った。

「パルタイのマリヤだな」

『ああ、いかにも』

「狙ってるのはこいつらか」

『そうとも』

「どうしてここまでする。復讐にしたってやりすぎなんじゃないか」

『心当たりはないか?』

 そう問われて黙考する時を前にして、マリヤはふと呟いた……いや、ない奴もいるにはいるのか。

『いやそれはともかくとして、どうだ』

 問いに面して、時は黙考し、答える。

「ここまでされるのは、どうだろう。わからん」

『わからない! 聞いたか、こいつは自分が何をしたかわからないそうだ。え、そいつじゃない? そう。まあ、誰でもいいさ。ここにいるのは関係者のはずだ』

 マリヤはこの場にいない誰かと話しているようだった。いや、何かしらの通信機器を介して実際に遠くの何者か、すなわち彼と契約した人間と会話しているのだ。

『生憎と今日は君たちの相手をしている暇はないんだ。ついさっきナースコールも押されてしまったようだし、この騒ぎだから』

 マリヤは時を見て、和久田を見て、西門を見て、小澤を見た。一人一人の顔をその目に焼き付けようとするかのような視線だった。和久田は彼の視線の根元、さらにその奥にいるだろう依頼人の姿を想像した。

 するとその男の背後において、数段濃度の高い力の展開が看取された。一対の翼の形を成した力場を背にしたマリヤに一方ならぬ危険を感じて、和久田は一人駆け出す。つられて西門も一歩二歩と前に出る。この直前の二人は病室の端、ベッドの脇、直の足元にあたる位置に立っていたが、前のめりに突っ込む和久田を嘲笑うように、強い力場の展開は突如として霧の晴れるように薄らいで消えた。代わりにそこにいたのは、よろよろと起き上がっていた久保である。和久田はつんのめった挙句転んで正面から彼女にぶつかり、二人して床に倒れこんだ。では、マリヤは?

 パルタイは二つのベッドの間、直と朱音の枕元に、カーテンの遮る光でできた陰に同化するようにして立っていた。やはり目と髪だけが平板に輝き、肌は粘土のような生気に欠けた色をして、皮下には対照的に大量の筋肉が醸す生命力の生成があった。そして右肩にはパルタイ全体の通し番号のひとつである《3》、左肩には彼がかつて喰らい、今は彼の内にある人間の魂、《生命への意志》の数を示す《25》の文字が、ゴシック的なフラクトゥールでもって刻まれていた。……つまり…………

 パルタイの、超常の軍勢特有の、あの得体のしれない感じが病室中に充満した。コップの水面が揺れるでもない、酸素や窒素が凝固するでもない。ただ空気という総体が粘性を持ち流動する或物へと相転移を引き起こし、重みと化した空気の中でマリヤはしかと目を見開きニッと笑った。そして彼がそうするのと、両脇のベッドで眠っていた二人の目がにわかに開かれるのと、ほとんど同時だった。

『さあ、目覚めるぞ、《繭》が!』

 目が覚めた二人は、二人して、肌を掻き毟っている。爪で皮膚を削り、毟り取っていこうとする。直は左腕を、朱音は右頬を。何か、皮膚の下でうごめく何かを取り除こうとしているのだ。全身が震えていた。ぶちぶちと肉が削げていく音がする。それでも取れていくのは皮膚と肉と血であって、その何かではない……血が出る、肉が削げていく。駆けつけてきた看護師が押さえつけようとしても、火事場の馬鹿力か、一時に振りほどいてしまう。やがて二人は腕を、あるいはすぐ目の前を、そして何もない場所に何かありでもするかのように、尋常の目には見えない、巨大な、悍ましい、不気味な怪物が、そこから立ち上がってくるかのように、何もない空間を見つめて、それまで周りで呻いていた患者の声など比較にならない大音声で悲痛な叫びをあげる…………このとき和久田は久保と頭からぶつかったことで立ち上がることもままならず、詳しい話は西門や時から聞いたのだが、そういうことだった。和久田が知りえたのは悲鳴とも怒号ともつかない、涙声を基調とした、人間のものとは思われぬような声だけであった。

 和久田は文字に起こせないような叫び、看護師が飛ばす指示の声の中で、ただ一人まったく静寂の中にあるかのような顔をして、誰一人の視線も受けることなしに歩いていく、パルタイの姿を見た。マリヤは一度和久田の転がっている手前で立ち止まってしゃがむと、ズボンのポケットに紙を一枚ねじこんだ。そして仕事は終えたと言わんばかりに悠々と病室を出ていくマリヤは敷居をまたいだところでパンク・スタイルから人間に擬態する際の姿形へと変化へんげしたが、高い背丈の天辺に位置するその顔までは見ることができず、和久田が起き上がり歩き出せるようになったときには既にパルタイは遠く去ってしまっていた。

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