scene:02 敵の姿
――ヒュオオォォォォォォ……
ガチン、ガチン、ガチン、と。
四方を白灰石に囲まれた回廊に、その音はよく響いた。
一定のリズムを刻み近づく
一体、何が近づいて来ているのか。
いいえ、そんなことよりさっさと逃げなくちゃ。
けれど動けない。思考が、状況の変遷についていけない。
――ガチン、
目前に迫った剣の音に、
そして、
淡く光を放つ白灰石の通路の先。
十字路になっている場所の真横から、ニョッキリと白い大木が生えた。
先端を
――ガチンッ
木材ではあり得ない音を
ゆったりと『剣の音』の正体が姿を現した。
十字路から姿を見せたのは、八本の脚を持つ白い脂肪の塊だった。
水を一杯に満たした革袋に足を生やしたような姿。一歩進む度にたぷたぷと表皮が揺れる。頭と
そして
ああ、察したくはないのに。
滴るヨダレを見て、それが“口”だと分かってしまった。
そして、
――――ヒュオオォォォォォォ……
聞こえたのは、回廊内に響いていた風鳴り。
全身の毛が逆立つ感覚。
考えるまでもない。
あれはアイホルトの魔獣だ。
あの
ならば、あの白いブヨブヨが姿を見せた理由は一つだ。
魔獣は蒸発し続ける自身の
同じ事を考えたらしいルシャワール皇帝――ヒロトが「こりゃあ、マズイな」と
「逃げようか」
「はい」
ヒロトの言葉に応じ、エリザは荷台の万槍を取って馬車を飛び降りる。
この狭い回廊で馬車を反転させている余裕はない。
しかし、
――ガチンッ、と音がする。
その音は馬車の後方から聞こえた。
「陛下、今のは――」
「あ~……辺境伯」
馬車の後方へと視線を向けたエリザに、ヒロトが困ったような笑みを返す。
「お連れ様のご到着らしい」
馬車の後方に立つ皇帝の、そのまた向こう側。
白灰石の通路の先には、前方から迫る魔獣と同じ姿があった。
ヒロトは「はは、こりゃまいったな」と青い髪をグシャグシャと
「辺境伯、残念だが戦うしかないようだ」
「…………はい」
そのひと言を絞り出すだけで、勇気の蓄えが尽きかける。
万槍を
本当にわたしは戦えるのだろうか。
万槍は
こんな逃げ場のない狭い通路でまともに使えるのか。
――だけど、と思う。
この皇帝が死んだら戦争が再開する。
終戦の機会はもはやどちらかが倒れるまで訪れないだろう。
それはダメ。
それだけはダメだ。
民草の平穏の為に、何としても彼を守らなくては。
エリザは強く万槍を握り締める。
変化はその瞬間だった。
生物の背骨のような柄に、竜の頭蓋を押し潰したような穂先。
その竜の瞳にあたる部分。圧縮された魔導式が保存される宝玉に
――魔導干渉光。
それは槍に封じられていた竜が息を吹き返したかのように。
万槍は「腹が減った」とばかりに、エリザの
エリザは困惑と同時に、
槍に
この槍は、わたしに一体何をさせようと――
「辺境伯ッ!!」
ヒロトの鬼気迫る声に、エリザは現実へと引き戻された。
慌てて魔獣へ万槍を構えようとする。
だが、
「違うッ」
ヒロトは魔獣を見据えたまま、槍を構えようとするエリザの手を押さえた。
「槍を地面に突き立てるんだ!」
「――は、はい!」
言われるがままにエリザは万槍を白灰石の床へ振り下ろす。槍の穂先は白灰石をバターのように切り裂いて、アッサリ突き刺さった。エリザの知らない固有式が発動しているのかもしれない。
だけど一体、陛下は何を――
視線の先には当然、ギチギチと口を
その頭上に――小さな黒点が浮かんでいた。
次の瞬間、回廊に嵐が吹き荒れる。
嵐の中心は宙に浮かぶ黒点だった。周囲の空気どころか、空間そのものが黒点へ向かって
故に、あらゆるものは
黒点の真下にいた魔獣は、その身体を紅茶に溶けるミルクのように崩され、黒点へと吸い込まれた。馬車に
黒点は全てを巻き込み吸い込みながら、それでもまだ
当然、エリザとて黒点の
既に両足は地についておらず、腰は水平に浮き、床に突き刺した万槍だけが頼りだった。ヒロトに至っては槍から手を滑らしエリザの腰に抱きついている始末。男に抱きつかれた経験など無いエリザは動揺しつつも、二人分の体重を支えるべく万槍に腕を深く絡ませる。黒点は更に勢いを増して大気を吸い込み、回廊はさながら
それでも終わりは来る。
――――ヒュオオォォォォォォァァァァ……
回廊を破壊し尽くすまで永遠に続くかと思われた黒点の暴食は、二体目の魔獣の断末魔を最後に突如終わりを迎えた。
「ぎゅふッ」
唐突に戻ってきた静寂に対応しきれず、エリザはべちゃりと床に落ちる。エリザの腰に抱きついていたヒロトも一緒だ。
不格好だけど仕方ない。命があるだけ良かった。
二人してゆるゆると身体を起こし、エリザは暴風に
「今のは、一体――」
「
「え?」
エリザの
ヒロトは素早く立ち上がり、
「気を抜くには早いぜ辺境伯。
そろそろ、貪食極点を使った奴らが来る頃だ」
その言葉に誘われるように“彼ら”は現れた。
魔獣が姿を見せた前後の通路から、黒い
丈の短い
瞬く間に
二人を囲う
水望鏡のように大きな黒
全てが画一的。
全てが同質。
そこに一切の個性は無い。まるで
大勢がマスクで表情を隠している様は、リーゼの家臣団で見慣れているはずだった。
だが、これは違う。
その挙動からすら一切感情が読み取れない事が、こんなにも恐ろしいなんて。
エリザは思わず、隣に立つ皇帝へ答えを求める。
「……陛下の臣たちですか?」
「いや違うね」
わかってるだろ、と言わんばかりの視線をエリザに返してヒロトは
「――そうか、あそこが動いていたか」
青髪の皇帝は、猛獣のような笑みを浮かべてカラス達の名を口にした。
「彼らは――」
◆ ◆ ◆ ◆
イカの触手はうっすらと粘液で覆われている。
触手はマリナとアトロを縛り上げたまま、土と木々の根を裂きながら森を進む。その際に巻き上がった
最悪だ、不快などという
マリナは顔には出さず嘆息する。
泥の中に潜りヒルに吸い付かれながら敵を待ち伏せた時の方が、まだマシだとすら思う。
唯一の慰めは、隣で縛り上げられているアトロの顔が薄闇でも分かるくらいゲッソリしている事だろう。他人の不幸は自身の不遇を忘れさせる。
「はぁい、着きましたよぉ」
そうしてアトロの顔色が青から緑色に変わる頃、ようやく二人は触手から解放された。
メイド服に染みこんだ粘液が糸を引く感触に
マリナは触手の記憶を振り払おうと「それで、これから何をなさるのですか?」と魔導士と修道女へ問いかける。
「……“門”を、調べるのだ」
答えたのはアトロの
そう、三人がいるのはアイホルト回廊の“門”とされる洞窟だった。
つまり最初の場所に戻ってきたのである。
「式に綻びがあったのなら、そもそも転移などしない。特定の人物のみを転移、ないし転移から排除するとなれば“鍵”か“門”のいずれかに細工をせねばならぬ」
だから『門』だ、とアトロは面倒くさそうに答えた。
不満たらたらなクセに、説明すべき事はきちんとするらしい。律儀な奴だ、とマリナは苦笑する。
だが、それならば確かめておきたい事も出てくる。
一応は協力関係を結んだが、押さえるべき所は押さえるべきだろう。
「話を蒸し返すようですが」マリナはケイトを見やる。「“鍵”の方は調べなくて良いのですか?」
「ああ、必要ない」
やはり答えたのはアトロだった。
「鍵はソイツが所属する修道会が保管していたものだ。細工など誰もできんよ」
「修道女――
「まあ――」
途端、ケイトは
マリナが口にしたのはケイトへの疑念だったのだが、この修道女は疑われることが
そんなケイトを
「コイツは裏切らんよ。
――この老亀は『面白い方』につくからな」
「面白い……?」
「宗教上の理由なのさ。――いや、性癖かな」
「もぉ、アトロさんったら~。急に褒めたりしてどおしたんですかぁ~?」
「…………まあ、こんな奴なんだよ」
「なるほど」
油断ならない変態ということだ。
マリナとアトロから
まったく、このチビとは大違いだ。
そうマリナはアトロへと視線を向ける。
アトロは洞窟の入り口付近で片膝をつくと、左手を地面につけて
途端、左手を中心にして魔導陣が展開される。複数の円が重なり合ったソレは周囲へと
対して、魔導陣を展開したアトロは死んだように動きを止めた。
いつまで
少し心配になり声でもかけようかと思った所で、隣から「魔力の流れを読んでるんですよぉ」とケイトが解説が入った。
「わたくしもぉ、詳しくは
ここに組まれている〔式〕の
だが、残念な事に仲村マリナはそういった方面が苦手である。
故に訳知り顔で「なるほど」と返答するに
「おかしい」
魔導式が鼓動が収まった時、アトロが最初に口にしたのは疑問だった。
「何も異常がない」
「どういう事ですか?」
余程、不可解なのだろう。マリナの問いにアトロはすんなり答える。
「〔門〕に細工をすれば根幹魔導式に痕跡が残る。どんな複合魔導式でも根幹魔導式を介して結果を導くからな。故に根幹魔導式には動作記録の全てが記されるのだ。実際、一度回廊へ
「それなら~、
「
そしてケイトを見やり、肩をすくめてみせた。
「そもそも、それなら隠蔽の為の魔導式が残る。その痕跡すらない」
「まさか、魔導式そのものに自己分解の機構を組み込んでいたってことですかぁ?」
「そういう事だ」
「あらあらまぁまぁ、また面倒なことになりそうですねぇ~……うふふ」
「また
「ちょっと待ってください。……どういう事ですか?」
アトロとケイトの二人だけにしか通じない会話に置いてけぼりを食らったマリナは、眉根を寄せて
「つまりな。痕跡も証拠も一切残っていないとなれば、逆説的に犯人はそれが出来る奴しかおらぬという事よ」
「出来る方をご
「無論」
自信たっぷりの言葉とは裏腹に、アトロは目元に憂いを浮かべていた。
それだけでなく悩ましく額を押さえている。出来れば外れて欲しいという願いと、それ以外にあり得ないという冷静な判断との
「決まりだ。ヒロトと辺境伯を狙ったのは――」
◆ ◆ ◆ ◆
「――
皇帝ヒロトは、瞬く間に二人を囲んだカラス達をそう呼んだ。
ミッドテーレ大陸北部の大部分を支配する〔アルフへイム統合連邦〕に属する人種だ。
身体的な特徴から
ふと、エリザ達を囲むカラスの群れが割れ、奥から一人のカラスが歩み出る。
カラスは
鳥面の下から現れたのは、汎人種では
性別すら判断しかねるほどの美形。
その
「お初にお目にかかります。
ルシャワール帝国皇帝、ヒロト・ラキシア・ヤマシタ・ルシャワール陛下」
バラスタイン辺境伯領の公女であったエリザも一応学んではいたが、動詞の語尾変化と接語の種類についていけず、あくまで聞き取りが出来る程度。
それを
「私どもは連邦中央議会隷下の部隊。
そして私は、この隊の
「ほう」
エリザを気遣ったのだろう。ヒロトはあえて大陸公用語で言葉を返す。
「いいのかい名乗ってしまって? “流れ
「誤解です皇帝陛下」
慌てた様子もなく、
「我々は
「幼子を
「これは手厳しい」
「私どもは王国による陛下の暗殺計画を察知し、いち早く陛下をお守りすべく参りました。 なにしろ
その国家元首の危機は、ひいては人類種全体の危機でありますから。
されど、手段がいささか手荒であったのも事実。――どうかお許し頂きたい」
相手を挑発するような態度をとるヒロトにエリザは驚き、思わず
――
礼儀正しく聞こえなかったフリをしていた。
まるで、宮廷貴族たちが夜会で
エリザはようやく皇帝と
この二人がしたのは、互いの立場の表明。
それは言葉の内容ではなく、態度と手順によってなされたものだ。
それは『こちらの脚本に従え』という圧力。
ひいてはその余裕ある態度から力の差を強調するというもの。
対してヒロトは殊更に反抗的な態度を示しつつも、相手の言葉を遮る事すらしなかった。
それは
だが同時に『そういう筋書き』と口にしたのは、筋書きから外れる事は許さないというヒロト側からの警告。相手にも『筋書き』に従うように強制しつつ、探りを入れたのだ。
そして
「何の事やら」と
つまり舞台の登場人物が脚本という存在に触れることすら許されないのだ。それは彼らにとって『筋書き』の優先順位がかなり高い事を示す。こちらからすれば
と、そこでエリザの胸中に疑問が湧いた。
そうなると、わたしの役どころは一体――
「ですが」
エリザの思考を破る、
町娘がひと目で恋に落ちそうな透き通った瞳が、エリザを見据える。
そして宣告した。
「そちらの方は
――王国の貴族ともなれば
問答無用だった。
その行動の意図は、誤解しようのないほど明白。
殺される。
突きつけられた魔杖に
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