第三話〜3

 足はただただ、つまらなそうに地面を蹴る。

 目眩がして、何と言い表せばいいのか分からない感情が、はらの底に燻っているような心地がした。


「いっちゃん」


 最早耳慣れてしまったドクの声が俺を呼ぶ――引き戻される。

 そこで漸く、左手を包んでいたはずの彼女の手がないことに気が付いた。

 か細い温もりは、離れても未だ俺の手に名残を残しているようで、拳を強く握り締める。

 ゆっくりとした動きでほどけば、今度こそ本当に、温もりが浚われていく。


 ――惜しいと、俺は、思っているのだ。


 短く、細く、息を吐き出して、左下へと視線を移す。


「さぁ」


 ドクは、俺へ向けて何かを差し出していた。

 乳白色の、それ。

 爪を短く切り揃えた細い指が、歪な形をした物をつまんでいる。

 じっくりと見なくとも、じっくり考えなくとも、先程顔を上げるとき存在に気が付いた、あの紙切れだと分かった。


「これは……」


 俺の心を、何故、という思いが占める。

 何故、ドクはそれを、俺へ渡そうとしているのか――一見してただのゴミと取れなくもない、そんな紙切れを。

 いや、考えるまでもないのだ。

 分かっている。

 それが、この狭間から脱出する為に必要なものだからだ。


 まるでゲームの中のノン・プレーヤー・キャラクターのように。

 ドクは、俺があたかも、プレーヤー・キャラクターであると言うかのように。

 手懸かりをこうして、差し出しているのだ。


 顔には出さないまま心の中で暗く笑った俺は、ドクのお望み通り――プレーヤー・キャラクターのふりをして――それを受け取った。

 少しだけ厚い乳白色の、ざらついた紙。

 そこへ、ボールペンで引かれた線。

 白衣のポケットにそれを押し込めば、元々入っていた紙切れと手触りだけでは判別がつかなくなった。

 やっぱり同じものなのだとそう、ひっそりと思う。


 ドクはそんな俺を――どんな感情でなのかは俺にはさっぱり分からないけれども――じっと見つめると、その口元にほんのりと笑みを乗せた。

 ドク自身が気付いているのかは、分からない。

 恐らくは無意識のままで、そうなったのだろう――ポケットへ突っ込んだままの左の指で二枚の紙切れを弄りながら、勝手に推測していた。


 ゆっくりとまばたきをする。

 黒く塗り潰された視界、目蓋を持ち上げると同時に射す赤は、どうも俺を落ち着かなくさせるようだ。


 ――それにしても、いつまで。


 玄関ドアの向こう、赤い空は――と呼んで正しいのかは分からないけれども――きっと、尚赤く燃えているのだろう。

 ドクから外へと視線を移した俺は、その異変に漸く気が付くこととなった。


 赤を遮るものが、先程よりも増えている。


「腕、が」


 喉の奥が勝手に、ひくりと震えた。

 膝から下だけの足と、肩から先の右腕。

 それが今、俺の目に映っている。


「ああ、腕が見えるのかい」


 何てことはないとばかりに軽い口調で告げるドクに、そうかこれは――妙な言い方にはなるけれども――あの足の右腕なのかと納得した。

 道理で、ちょうどその辺りに浮かんでいるらしい。

 断面はといえばやはり、動く絵をそこから破り取ったかのようだ。

 いくらか冷静に観察出来るのは、初めて遭遇したわけではないということの他に、断面があくまでも二次元的で、現実感があまりないせいもあるのかもしれない。

 もし血が溢れでもしていたら、俺でなくとも、まともではいられないだろう。


 ゆっくりと目をまばたかせる。

 下は半ズボンか何か短いものを履いているようで服は見えなかったけれども、上はどうやら長袖で、更にジャケットを羽織っているのか分厚い生地に覆われているらしい。

 特段おかしな格好というわけではない。

 ないだろう、けれども、この時期にしてはそのジャケットではいささか厚着にも思えた。


 赤の中に立つ男の子らしきそれを見るのが何となく嫌で、俯いてポケットの中の紙切れをいじる。

 タイミング的に考えるとするなら、俺がを手に入れたから、右腕が見えたのだろう。

 あちらで――職員室で、仕事中に見付けた紙切れは、それならば、足だ。

 そういえば、中庭にも一枚落ちていた。

 あれを回収すれば、今度は何が見えるようになるのか。

 左腕か、胴体か、首か。

 いや、それとも全てか。

 そもそも、残りはあの一枚と限るのか。


 立ち竦むだけの俺では解など持ち得ない事柄を自問して、そしてはたと気が付く。

 俺が想像した通り事実それが男児であるのだと仮定して、そんな子供が見えるようになったからといって、何か変わるのかと。

 いいや。

 自らをノン・プレーヤー・キャラクターへやつしたドクが示したものなのだ、きっと意味があるに違いない。

 そう自らへ言い聞かせるしか、今は出来ないのだ。


「おや」


 隣からドクの声がして、反射的に顔を上げる。

 片腕と二本の足が未だ暇そうに揺れているはずのそこにはしかし、割られたガラスと開いたドアしかなかった。


 まさか、と。


 まさか外へ出たのかと、一抹の不安のようなものが沸き上がる。

 逃してしまったのか――追いかけていたつもりは、なかったけれども。

 いや、そもそも俺は何故、いつまでも変わらず在るものだと信じていたのだろうか。


 これまでだってただ黙って眺めていただけだと言うのに、その瞬間になって急に、焦燥感が湧き上がった。

 心臓が痛む。

 古くからの友人ならきっと、お前はマルチタスクどころかデュアルタスクだって上手く出来ないのだから、と神経質そうに眉間に皺を寄せるのだろう。


『本当にお前は間が抜けている』


 脳裏に、友人の呆れ混じりの表情がありありと浮かんだ。

 全くどうして、こんなときに思い出すのがあいつの顔だとは――心の中で溜め息をついて、うんざりと振り払う。

 そのせいか、少しだけではあるけれども、調子を取り戻したようだ。

 短く息を吐き出す。

 足を踏み出そうとした俺を止めたのは、離れたところから聞こえてきた金属音だった。


 これは、何の音だ。

 理解出来ずに、一瞬固まる。

 けれども俺は、すぐに気が付いた。

 これは、下駄箱の扉が開閉される音じゃないだろうか。

 どうやら赤に飲まれることなく、あの足と右腕はまだ建物内にいたらしい。

 そんなことを、根拠もないのに考える。


 安堵――それと、言い知れぬ不安感。


 肚裏とりで、自分自身ですら良く分からない気持ちの悪い何かが渦巻いていた。

 痛みではない。

 かといって痒いわけでもない。

 安堵だけでも、不安感だけでもなく、様々なものが混じり合った何か。


 右手で鳩尾の辺りを押さえて、左手でドクの手首を掴んだ。

 驚いたのだろうか。

 ドクが微かに震えたことに気付いたけれども、俺はそれでも構わず彼女の手を引いて、音のする方へと向かった。


 そこはどうやら、先程俺達が隠れるようにして立っていた側らしい。

 雪道の足跡を上から寸分違わず踏みつけるような巧緻こうちさで――勿論リノリウムに足跡が残っているわけではない――覚えのある経路を遡る。

 浅く吐き出した息がうっすらと実体を持って、すぐに消えていく。

 左手はドクの温もりが移って多少はましだけれども、右手は冷えて痛みが走る。

 心持ちの違いなのか、身体も足もいやに重く感じていた。


 自らと、ドクと。

 そのどちらをも引き摺るようにして歩けば、思ったよりも早く、あの脚へ追い付いた。

 思っていた通り、俺達が最初隠れた所だ。


 一瞬のデジャヴ。

 けれども何てことはない、ただ場所を変えただけで、先程の行動を綺麗になぞるように取っているのだと気が付いて、短く息を吐き出した。

 いつの間にか俯いていた顔を上げ――今度は紙切れはなかった――目に映るのは、あの全てが開かれたロッカーの扉。

 しかしそこは、わずかに様子を変えていた。


「あそこまでしか届かないようだ」

「……ああ」


 どことなく微笑ましいものを見るような声で言うドクに、俺は短く頷いた。

 あの脚はひょこひょこと飛び上がり、片方だけ見える腕を目一杯伸ばして扉を開けたり閉めたりしている。

 どうやら、遊んでいるらしい。

 届くのはどう頑張ったところで中程までなのか、それよりも上は触れられた様子がなく、相変わらずの陰影を作り出していた。


 閉じた扉を順に開いて、また閉じていく。

 どんなに目を凝らしたところで、俺には脚と右腕しか見えない。

 だから一体どうなっているのか良く分からないけれども、ポーズを見るに、下駄箱を覗き込んでいるようだと思った。

 それに、何をしているのかとドクに尋ねたところで、きっと答えてはくれないのだろう。


 ゆっくりと目をしばたたく。


 腕は、手が届くぎりぎり、下駄箱全体から見ればちょうど真ん中の段を残して、全ての扉を再び開いた。

 出来上がるラインと、幾度めか分からない目眩。

 満足したのか、はたまたもう飽きたのか、それ以降扉の開閉は行われず、足は再びつまらなそうに地面を蹴った。


 ゴムの靴底を、コンクリートが見た目には分からないくらいにわずかずつ削って、靴の寿命をも削っていく。

 脚の持ち主の知らない間に成されるその搾取から、俺はそっと目を背けた。


「いっちゃんのサインのようだね」


 耳へ届いたドクの声は、いやに穏やかだった。

 思わず身震いして、左隣へと視線を落とす。

 表情は窺えない。

 横顔であるからでもあったし、赤があまりに鮮やかであるからでもあった。

 思わずじっと見つめる。

 何のことを言っているのかすぐには分からず、数拍置いてからまた下駄箱へと顔を向けた。

 言われてみれば確かに、閉じられた扉は真一文字を描いている。


 ドクが何故、俺の用いるサインを知っているのかなどと、そんなことを今更訊ねる気にはなれない。

 訊いたところでドクが答えるはずもない――返ってきたとしても、ドクだからね、とか恐らくその程度だ――だろうし、それを問い詰めたからといって、事態が好転するとも思えなかった。


「おや、いっちゃん。ほら、あそこに」


 芝居じみた口調で、またもノン・プレーヤー・キャラクターのように言うドクは、最早下駄箱の真一文字からも、つまらなそうにする足からも、興味をなくしていたらしい。

 

 細い左手の人差し指が向けられた先にあるのは──乳白色。

 どうして最初、身を隠した時に気付かなかったのか。

 分からないと首を傾げたくなるほどはっきりと存在を主張する、コンクリートの三和土に落ちている紙切れだった。

 あれで三枚目、つまり少なくとも四枚は存在していたらしい。

 握り締めていたドクの手をそっと離せば、俺が足を踏み出すよりも早く、ドクが紙切れを拾いに行った。

 黒いセーラー服の袖から覗く、赤い手の痕。

 そんなに強く握ったのかと、他人事のように思う。


「はい」

「……ドク」

「なんだい、いっちゃん」


 薄く笑むドクを見下ろし、何でもない、とたっぷり間を持たせてから告げた俺は、紙切れを受け取った。

 あらためることもなく、すぐに左のポケットへと収める。

 ざらざらとした触り心地はやはり、前の二枚と同じで、大きさや形以外ではもうどれがどれなのか――つまり足がどれで腕がどれでとは――分からなくなった。

 横顔に赤い陽を浴びるドクはじっと俺を見つめ、見つめられる俺は、彼女を通り越しその奥の足と右腕を見る。


「……違う、のか?」


 男の子供らしきそれに、体のパーツは増えていなかった。


「ああ、じゃあ、あちらじゃあないかな」


 俺の言葉に何を察したのか、ドクはふいと顔を背けてつぶやいた。

 あちら。

 その単語にようやく、足音が一つではなかったことを思い出す。

 ドクが言いたいのは恐らく、それのことなのだろう。

 ただ俺からしてみれば、音を聞いただけで、何かを見たわけではない。

 階段を上るような気配のあと、子供だけが駆け降りて来たのだから、ドクの言う『あちら』は上の階にいるのだろうか。


 もし、紙切れを揃えていくことで、足音をさせていた存在が完成するとして。

 ひとつは、幼い子供だ。

 もうひとつは、それよりも重い足音であったのだから、それより幼くはないだろう。

 常識的に考えるなら、年嵩の方が、会話を試みるには良いはずだ。

 尤も、それがきちんと話し合いの出来る存在かどうかは分からないけれども。


「とりあえず、そっちと紙切れを探す」

「……私はいっちゃんに着いて行くだけさ」


 顔を背けたままつぶやかれた言葉に、軽く目を閉じる。

 違和感のようなものがあって、けれども、その違和感が何か分からない。


 右手で腹の辺りを押さえると、手が冷えすぎていたのか、肩から指先までに痺れが走った。

 再び目を開ければ、ドクの黒い瞳が俺を真っ直ぐに見つめている。

 ただ赤を反射しているだけで、光そのものを感じさせない黒。

 陰に溶けていってしまうのではないだろうか――ふと湧き上がった不安感に促されるまま、口を開く。


「どこから探すべきか」


 脚と右腕だけが浮かぶ、本来なら気味が悪い光景も、次第に見慣れてしまうものらしい。

 それを眺めれば、ドクは何も言わずに俺の左隣へと並んだ。

 やはり、答えるつもりはないのだろう。

 ダンジョンを捜索するのはプレーヤー・キャラクターの仕事だということだ――そもそも俺は、プレーヤー・キャラクターになどなったつもりはないのだけれども。

 仕方がない。

 そっと嘆息して、再びドクの手首を掴んだ。


 きっとまた、手の痕が付いてしまうだろう。

 もしか、そのまま痣になるかもしれない。

 ドク本人が嫌がっていないのだから俺が気を遣う必要はないのだと、無理矢理な理論を自分の中で展開させた俺は下駄箱に――脚と右腕に背を向けた。


「いっちゃん、良いのかい、あの子を一人ぼっちにしてしまって」

「……そもそも、ずっと独りだろう」


 たん、たん、と地面を蹴る音がする。

 ドクは何も言わない。

 手のひらから伝わる鼓動だけが、俺の縋れる唯一のものだった。

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