第四話~1

 俺は――急な話だけれども――一人っ子だ。

 兄弟が多い奴に聞く、チャンネル権の争いだとか、食べられてしまうから好物は先に確保しなくちゃいけないだとか、そんな事柄とは無縁に育ってきた。

 持っているものはいつも新品で、母は俺用にと小鍋で子供でも食べられる甘いカレーを作ってくれた。

 別に裕福だなんだと主張したいわけじゃなく――そもそも俺の家は一般的な中流家庭だ――何を言いたいかといえば、闘争本能よりも防衛本能が強い人間だということだ。

 好物は残して後でゆっくり食べたいし、何かが起きれば結論を急ぐよりも出来るなら牛歩戦術でいきたい。

 そのくせ、奪われるかもしれないという危機感をあまり持っていないせいか、いささか楽観的なところがある。

 一人っ子が皆そうとは言わないけれども、とにかく俺はそんな性格に育ったのだ。


 だからこそだろうか。

 俺は大して考えもせず、あの中庭の紙切れの回収を最後にまわすことにした。

 子供の脚と腕、ドクがあちらと呼んだ存在の何らかのパーツ――俺が手に入れたものと見えているものが比例しているとして、紙の大きさにしても、可視部分の大きさにしても、ではあれが最後のピースなのだ、とはどうしても思えない。

 それならば、他を探してからでも遅くはないだろう。

 何せ、紙切れを必要としている人間が、他にもいるとは思えない。

 かの友人には俺の第六感など頼りにならないと専らの評判なのだけれども、今回ばかりはそんな強い確信がある。


 真っ直ぐ階段へ向かう俺に、ドクはいささか躊躇ったようだった。

 けれども恐らくは、着いて行くだけだと宣言した手前、表立って反対するわけにもいかなかったのだろう。

 結局は黙って、俺に手を引かれていた。

 手のひらに感じる拍動は相変わらずで、妙に俺を駆り立てる。


「ドク」


 仄暗い階段を上りながら、少し後ろを歩く少女へと声をかけた。

 これといって意味はないけれども、声をかけないといけないような気がしたから――なんて、先程からあてにならないと評判の第六感に頼ってばかりだ。

 いや。

 もしかすると、ただ単に、この静か過ぎる空間に臆した俺の言い訳なのかも分からない。


 そんな俺の内情を、知ってか知らずか。

 ドクは何も言わなかったけれども、腕を捻って手首を離させると、恋人同士のように指を絡ませて手を繋ぎ直した。

 このおかしな場所で、何故だか俺のことを良く知っている風の、俺からしてみれば偽名――というより寧ろ、コードネームか何かのような――しか知らされていない少女と手を繋ぐ。

 この年代の女は苦手だと言っておきながら、振り払うことなくただ受け入れて、暗く、時折赤が射す階段を上る。

 俺のこの行動は、正しいのか、それとも間違っているのか。

 それすらも分からないのに、こうしなければならないのだと――に信じてすらいる自分に気付く。


 ドクの手はいつの間にか、じわりじわりと冷たくなっていた。

 俺はそれに臆するでもなく、もしかすると手首を強く握り締め過ぎたか、そうでなければ玄関が寒すぎたのかも分からないとだけ考える。

 まともじゃあないな、と、口の中だけでつぶやいた。


 先程俺達が降りてきたものでなく、あの二つの足音が上っていった、生徒用の玄関前から繋がる階段。

 上って折れてを何度か繰り返し、辿り着いたのは四階だ。

 どうやらここが最上階なのだろう、それより上へ向かう階段はない。

 階段を背にして右手は特別教室が並び、左手には普通教室が並んでいる。

 白衣のポケットへ軽々収まってしまう程度の大きさしかない紙切れを探すとなると、教室一つ一つを慎重に見て歩かなければいけないだろう。


 さて、どちらから行こうかと考えながら適当に左へ足を踏み出した俺を、ドクはしかし、不意に引き留めた。

 短く切り揃えられた爪が、手の甲に刺さる。

 少女のものとは思えないくらい、驚く程に強い力。

 遠慮なしに握られたせいで指が反り、関節がぱきりと鳴った。


「右に行こう、いっちゃん」

「なんで」

「右の方がいいよ」


 見下ろしたドクはうつむいていて、表情がよく分からない。

 手の甲に爪が刺さっている。

 冷たい。


「ドクだから、とでも言うのか」

「……そうだね、私はドクだから。右へ行くべきだと、そう進言するよ」


 進言。

 ならば、俺の意思で曲げてもいいのじゃあないだろうか。

 俺がそんなことを思ったのだと悟ったかは知らないけれども、ドクは更に手に力を込める。

 曲がってはいけない方向に指が付け根から曲げられて、手が悲鳴を上げそうだ。


「どうしてもか」

「くどいな、いっちゃんも」


 ドクが低く笑う。

 ぎりぎりと握り締められる手。

 どうやらプレーヤー・キャラクターたる俺には今回、選択肢が用意されていないらしい。

 いわゆる、強制イベントというやつだ。

 鳩尾辺りが、締め付けられるような心地がする。


「……分かった」


 俺は喘ぐように短く息を吐いて、うなずいた。




 何故だろうか、足元が覚束ない。

 空きっ腹に焼酎のロックでも一気に流し込んだときの、唐突な酩酊感にも似た何か。

 現実味のないオブジェクトを踏み付けるかのように、右手へと歩き出した。


 教室の扉に付いたガラスから陽が射して、廊下を仄赤く染めている。

 最上階だけあって吹き抜けからも陽が入るのか、ドクが行くのを嫌がった向こう側の廊下も少し赤く見えた。


 目眩がする。

 また、デジャヴだ。

 強く目をつぶり、立ち止まる。


 そんな俺をどう見たのかは知らないけれども、ドクは、手を引いて廊下を進み始めた。


 高校の教師だから、デジャヴを感じるのだろう。

 何もおかしくはない。

 ここには全く、人らしい人がいないというだけで、こんな風に陽が射す校舎を、俺は何度も歩いてきた。

 学生の頃だって、毎日のように見たはずだ。

 だから、何も恐れることはない――心にそう言い聞かせる。


 けれども目を閉じて歩こうとするその行為は、俺にとってあまりにも不馴れなものだった。

 底無し沼でもがくような、足元から這い上がる恐怖と不快感。

 ざわざわと毛が逆立つ。

 堪えきれなくなって、目蓋を持ち上げた。


 ――まだか。


 口の中だけで、そうつぶやく。

 デジャヴを感じたその時から思ったより進んでいないらしく、景色はほとんど変わらなかった。


 左手に特別教室が並び、右手には吹き抜け越しに、向こう側の仄赤い廊下が見える。

 廊下のその更に向こうは、壁を挟んで教室の引き戸が規則性を持って並んでいる。

 左手も右手も、全ての扉が閉まっているようだ。

 紙切れがどこかにないか探さなくてはならないのに、ドクは歩みを止めることがない。

 扉を開けずに通り過ぎることにも、足を踏み出すことに対しても、欠片の臆面すら感じられなかった。


 赤の中、黒い後ろ姿。

 足を踏み出す度に、お下げ髪が揺れている。

 前にも思ったけれども、いつか見たような、そんな光景だ。

 俺はただ手を引かれたまま着いて行くだけで、そこに俺自身の意志は介在しない。


 ――どうせ、ドクは知っているのだろう。


 ドクだから、とそんな良く分からない事柄を理由にして、ここがどこで、あの手足が誰で、何が起こっているのか、それを承知しているに違いない。

 だから恐らく、四階から行くのを躊躇ったり、あちら側の廊下を嫌がったりという行動には、何らかの理由があるのだ。

 そして、それを俺には知らせず、子細顔でノン・プレーヤー・キャラクターのふりをすることにも。


「君は一体、何なんだ」

「……くどいなぁ、一路くんは。私はドクだよ。それ以上でも以下でもないのさ」


 くどい、と言うわりにはどこか楽しげな声で、けれども振り返らずに、ドクは足を進めていた。

 景色は、尚も変わらない。

 仄赤い廊下とセーラー服の少女の後ろ姿がまるで静止画に見えて、延々と続いているような気分になった。

 いや、もしくは、廊下がベルトコンベアにでもなっていて、幾ら逆行してみても進めないのだと、そんな錯覚に囚われる。


 ――もしかすると、一生このまま、進めず、立ち止まることも出来ずに、歩き続ける羽目になるのではないか。


 不意に頭へと過った考えに、あばらの下がきゅう、と痛んだ。

 嫌だと叫べたならば、どれだけ良いか。

 吐き気がして、まっすぐを見ていられない。


 うつむくのは嫌だった。

 今うつむけば、何かを見過ごしてしまうような気がしていたからだ。


 けれども取れる行動といえば、決して多くない。

 俺は、吹き抜けへと視線を移した。

 それが唯一の、マシな選択肢に思えたからだ。


 こちら側の窓ガラス、吹き抜けがあって、向こう側。

 規格どおりに作られた人工物だけが俺の目に映っていて、それなのに違和感を覚えて、視線を固定した。

 何か、ある。

 霞む目をしばたたいて、じっと注視する。

 少しして、それが何なのかを理解した。

 薄く開いた唇から、乾いた息が漏れる。


 ――あれは、指か。


 向こう側、一枚だけ吹き抜けに面した窓が開いていて、そのレールに両手が置かれていた。

 身体や腕はなく――いや、しかしそれは、ただ単に俺に見えていないだけなのだと途端に理解する。

 きっとあれが、もう一つの足音の主なのだ。


 白い、血が通っているようにはとても見えない五指が、そこにはあった。

 折れてしまうのではないかと思うほど、レール部分を強く握り締めているらしい。

 人間以外の指ではあり得ないと、そんなことは一目瞭然だというのに、作り物めいて見えるのは何故なのだろうか。


 目をしばたたかせる。

 視界の真ん中辺り、一瞬、何かが煌めいた。

 安っぽい光だった。


 あれは何か――そう問われれば、答えは、何てことはない、ただの玩具の指輪だ。

 駄菓子屋で売っている、色が付いた半透明のプラスチック製の指輪――それが、左手に填められていた。

 見覚えがあるように感じるのはきっと、近所の子供が身に付けでもしていたのを見たのだろう。


 右の白く細い指が、指輪を撫でる。

 大事そうに、撫でている。

 あんな安っぽい玩具の指輪を、世界中の何より価値があるもののように身に付けて――


「いっちゃん」

「ッ!」


 左手に走った痛みと、強い語気に肩が跳ねた。

 腕を強く引かれ、足が縺れる。


 窓枠、一瞬のあか、ずっと続くような天井くろ


 痛みと共に息が詰まって、そこでようやく、廊下へ引き倒されたのだと理解した。

 辛うじて後頭部は打たずに済んだものの、完全に意識を違う場所に取られていたのだから、受け身なぞ取れるはずもない。

 したたかに腰を打ち付けた。

 床材はコンクリートなどとは違って多少の弾力性はあるものの、そんなものは気休めにもならなかった。

 ぐう、と低く獣のような呻きが漏れる。


 いつもの倍の速さで、いつもの倍の強さで、心臓が収縮し、全身に赤い血潮を巡らせているらしい。

 大きく息を吸い、そして吐き出す。

 それを繰り返せば、痛みは未だ治まらないものの驚きは多少遠退いたらしい。

 後ろに付いた手を床から離し、両の手のひらを払いながら、俺はゆっくりと顔を上げた。

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