第三話〜2

「ここから脱け出さなくてはいけない……分かるだろう?」


 ドクの手が、握り締めた俺の左手を包み込む。

 小さな手だ――柔らかく、細く、あまりにも頼りない手。


「さて、じゃあ、どうする?」

「……どう、って」


 思考が脇に逸れたせいで、すぐにはドクの言葉を理解出来なかった。

 目をしばたたく。

 頭が、一拍遅れて動き出した。


 ――どうすると言われても。


 いくら言い聞かせるよう言われたところで、俺の抱えた疑問への解決はまったく図られず、結局何もかもが堂々巡りするだけだ。

 それなのに、俺に訊くのか。

 何もかもを俺に、委ねるのか。


 ドクの黒い瞳が、赤を反射しながら見つめてくる。

 その瞳に急かされるように、答えなど持たないままの唇を戦慄わななかせた。

 きちんと呼吸は出来ているはずなのに、いやに息苦しく思えて、肺に溜まる空気を何度も短く吐き出す。

 心の中でそんな自分自身を、まるで犬のようじゃないかと嘲笑う姿は、何と滑稽なことか。


「俺、は」


 どうにか発した声はひどく掠れていて、唇のすぐ近くで溢れ落ちた。

 前に立つドクにすらきちんと届いていないのじゃないだろうか――そんな気がして、いつの間にか足元へと落ちた視線をそろりと上げる。


 しかしドクはもう既に、俺を見てはいなかった。

 目が覚めたとき、真っ赤に染まっていた、向かって左側。


 わずかに窺える、赤が写り込む横顔を見ながら、彼女は猫のようだと不意に思った。

 深い理由があるわけではない。

 ただきっと、猫のような彼女には、犬のような社交性はないのだろうなと、動物を飼ったこともないくせに考えたのだ。

 そういえば、猫が何もない所を見つめるのは、人間より遥かに聴覚が優れていることが関係しているのだと、テレビか何かで言っていた。

 人間には聞こえない、何らかの音を聞き付けるからなのだと。

 実際に猫と話せるわけでもないのに、彼らは完璧に、完全に、そうだと言い切れるのだろうか。

 いや、たとえそうだったとしても、外側から観察しただけでは本当にそれだけなのか、分からないのではないか。

 こうして俺が考えていることを、ドクが何ひとつ知らないのと同じように。


 浮かんだ疑問の解決を図るつもりは、そもそも、俺にはない。

 ゆっくりとまばたきをして、身体ごとドクの視線を辿った。


 クリーム色の床材の先にあるのは、先程、二つの足音が上っていったと思われる階段だ。

 連なる手すりの柱は、所々黒っぽい塗装が剥げて、赤茶けた錆が露出している。

 途中の踊場までは壁がなく、ここからでも多少身を乗り出せば、半ばまでなら窺うことが出来るようだ。


 俺はドクと同じように、下駄箱から背を離して階段へ正対――といっても階段自体は下駄箱に対し垂直方向へと延びているから、そうは言えないかも知れないけれども――した。

 踊場より上は、上階からの陽がわずかに射すだけでやはり仄暗い。

 人気ひとけはなく、もはや足音もなく、なんて静かなのか――そう思った直後のことだった。

 唐突に、ぱたぱたと軽い音が響いたのは。


 恐らく、先程聞いた足音だ。

 子供のものだろう。

 先程より、幾らもペースが速い。

 平らなところ、想像するに廊下を走っているらしいそれは、数秒もしない内に、たたん、たたん、とリズムを刻み始めた。

 これはどうやら階段を降りてくるのだと、誰だろうとすぐに気が付いたことだろう。


 降りるスピードは、さほど速くない。

 まだ階段が得意でないのか、一段ずつ下っているような音だ。

 そういえば俺も、周りの子供より階段の上り降りが上手く出来るようになるのが遅かったのだ。

 俺自身に記憶があるわけではないけれども、母に言われたことがあった気がすると、考えていた。

 何歳頃だろう。

 確か――


「おや」


 小学生に上がってようやく上手くなったと――いや。


「降りてきたようだね」


 そのときの母は涙ぐんでいたはずだと、脳みその中に絵が浮かぶ。


「ほら、いっちゃん」


 そして、ようやくここまでしたのねと――俺自身に覚えのない言葉を、つぶやいていたのだと。


「見えるかい」


 延々と続いていた不格好なリズムは、俺が脳みそをさらう間にも徐々に大きくなる。

 視線を外せないままでいた踊場に、わずかだけ射す赤へ、黒が混じった。

 足音の主であるのだろう小さな影が、俺の視界に映り込む。

 幼児向けのキャラクターものの靴と、白い靴下、そこから伸びる脚。


「なん、だ、あれ」


 声が、引きる。

 俺の視線が向かう先――階段を降りてくる脚には、膝から上が、なかった。




「ああ、いっちゃんには見えていないのだったね」


 本当に何てことはないように、分かりきっていることだとでもいうようにつぶやいたドクのそれを、他人事のように聞く。

 耳のそばに空気が層を作って、微かにハウリングしているようにも思えた。

 動けずにいる俺の視線はずっと階段へ向いたままで、一段一段、不器用に降りてくる足を、ただ見つめていることしか出来ない。

 身体のほとんどがないせいで詳細はよく分からないけれども、キャラクターものの靴は、黒がベースでそこに金色のラインが入っているものだ。

 恐らくは男児なのだろうと思う。


 あれをどう表現すべきか。


 膝から上がないといっても、例えば刃物か何かで切断されているとか、そんなグロテスクな状態になっているわけではない。

 かといって、その膝から上に何か靄がかかって見えないというような、曖昧な状態とも違う。

 そうあれは――動く絵を、太腿の位置で破り取ったような。


「ええと、膝から下だけが、見えているのだったかな」


 答えようとして、けれども、すぐには声を発することが出来なかった。

 何故なら、声帯を震わせるための空気が、俺の中に存在していなかったからだ。

 いつから止まってしまっていたのか、引きつけでも起こしたかのように息を吸い込む。

 酸素を求めた身体が意思とは関係なしに喘ぎ、幼い足音だけが響いていた校舎の空気を、ぐしゃぐしゃと乱した。


 苦しい。

 目眩がする。

 強くまばたきをして、視界のかすみをどうにか消し去った。


 たんっ、と、最後だけ二段目から両方を揃えて飛び降りた足は、その途端に陽へ向かって――俺達から幾つか下駄箱を挟んだ向こうへと駆け出す。

 先程、二つの足音がした方だ。

 脚しかないのだから、俺達のことが文字通りのだろうか。

 実際のところは分からないけれども、それが俺達のことを気にする素振りは、わずかにも見られなかった。

 いや、少なくとも爪先がこちらへ向くことはなかった、という方が正しいかも知れない。

 なにせドクの様子からして、俺にこそ、その顔が見えていないのだから。


「いっちゃん」


 下駄箱の陰に、足が消える。

 浅く荒い呼吸のまま見送った俺の左手へ、不意に温もりが触れた。

 大袈裟に肩を跳ねさせた俺に何を言うでもなく、ドクはそれを軽く引っ張ると、もう片方の手も使って包み込む。


「何も怯えることはないよ、あの子に――ああ、それに、いっちゃんには私がいるのだからね、恐ろしいことなどこれっぱかりもないさ」


 恋人へ睦むよう、ドクの細い指が俺の手の甲をなぞる。

 その行為は、場所と状況とに少しも見合わず、違和を感じ取った理性が訴えかけるのは、気味の悪い薄ら寒さだ。

 だというのに、俺はドクの手を、積極的に振り払うようなことはしなかった。

 いや、出来なかった。

 きゅっと握られた手から、温もりがわずかずつだけ移って、指先が血流を取り戻す。

 俺達はこのわけの分からない場所にありながら、生きているのだ、とそう唐突に思った。


「さぁ、いっちゃん」


 ドクが一体何を促しているのか、何ひとつ分かっていなかったけれども、俺はただ反射的に足を踏み出していた。

 下駄箱の影の帯の向こうに並ぶのは、陽が作る赤い帯。

 俺が目覚めた時から、果たしてどのくらいの時間が経ったのか――夕焼けというものは、これ程まで長く続くものだったろうか。

 答え合わせをする余裕はない。

 ただ、そういうものなのだと言ってしまえば、そうなのだろうと納得してしまうだけの、妙な説得力がここにはあった。


 這い上がる肌寒さに身動ぎながら、黒と赤のストライプを幾つか越えて、あの足が消えた辺りへと向かう。

 どうやら目指す場所は、俺達が隠れた場所とは反対側の端に位置しているらしかった。

 相変わらず左手はドクの両手に包まれたまま、右手はまるで骨が氷にでもなってしまったかのように冷えて、痛む。


 ああ、果たして、確かめる必要など本当にあるのだろうか。

 弱気な思いが不意に頭へ過ぎっても、足は勝手に動いてしまう。

 そして足を動かしていれば、嫌でも玄関の端へ辿り着く。

 立ち止まっているのか、はたまた俺に聞こえないだけなのかは分からないけれども、足音はもう聞こえない。

 確かめなくてはいけないのだろうか――未だ臆する俺を叱咤するかのように、左手がきつく握り締められた。


 細く細く息を吐く。

 目蓋をきつく下ろして、そのまま、右手九十度に身体を向ける。

 ドクは止めるつもりも、促すつもりもないようで、ただただ、俺の動きに合わせて相変わらず左手へ立ったようだった。


 そろりと目蓋を持ち上げる。

 その先に映るのは、陽に染まるリノリウムと、一段低くなったコンクリートの三和土たたきだ。

 赤い帯の中に伸びる小さな黒い影は、緩やかな曲線が描く二本の何かではなく、人の、子供の形をしている。

 ――影は、あるのか。

 ならばきっと、ドクの言う通り、俺がただ見えていないだけなのだ。

 そうぼんやりと考えては、ぼやけた影の輪郭をまるで愛でるかのように、ゆっくりとした動きで辿った。


 そのとき視界の隅に映った、何かの切れ端。

 けれども今はどうでも良いと意識から追い出して、判然としない黒をまた辿る。


 黒の最後。

 片方、下ろしたばかりなのか、まだあまり汚れていない踵が見えた。

 爪先は真っ直ぐ外へ向いていて、もう片方の足はつまらなそうに地面を蹴る。

 やはり膝より上は破り取られてしまったかのように、俺の目には映らない。


 そのまま顔を上げれば、割れたガラスが散らばっていることに気が付いた。

 更に視線を上げた先、下の部分が枠だけになっているドアが一枚あって、どうやら外側から破られたらしい。

 あの二つの足音のせいなのだろうか。

 それにしては、ガラスの割れる音を聞いていない。

 踏み付けるような音も、だ。


 視線を巡らせればすぐ、ドアで言えば二枚ほど離れた位置で、俺は目をしばたたいた。

 破られることなく、普通に開け放たれている。

 乱暴に破られたドアとは別に開いているのはどことなく落ち着かないような気がしたけれども、とにかく、そうなっている。

 あの二つの足音は、ここから侵入したらしい。


 射し込む日は相変わらず赤く、じりじりと世界を焼こうとしているようだ。

 今そのドアから出たところで、俺は、ドクの言うに戻ることは出来ないのだろう。

 門から先がただ真っ赤に染まっているだけの光景を眺めながら、俺はそう痛感していた。

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