第三話〜1

 並んでいる、いくつもの下駄箱。

 といってもそれは金属製のロッカーで、扉がついているから、遠目に外観は窺えても中を見ることは出来ない。

 たとえ見えたとしても、最初に目覚めた教室と同じように、中身は入っていないのだろう。

 ただ、あくまでもそれは、俺の想像でしかない。


 たん、と軽い足音と共に、ドクが再び俺の隣へと戻った。

 つられて空気が動いたのだろうか、不意に足元から肌寒さが這い上がってくる。

 玄関ドアのどれかが、開いているのかもしれない。

 そう考えてみたけれども、少なくともここから見える範囲では、全て閉じられているようだった。


 どうしてだろうか、こんなに寒いのは。

 今はまだ十月の半ば――日暮れ時とはいえ、ここまでになるとは珍しいと、そう思わずにはいられない程だ。

 じっと佇んでいるだけだというのに、微かに視界がぶれる。

 どうやら脳みそが勝手に身体を震わせるよう命令を下したらしいと、一瞬遅れて気が付いた。


 なぜこうも寒いのか――いや、寒い、だけだろうか。本当に?


 生徒用玄関と玄関ホールを、ドアや、その上のはめ殺しの窓から射す陽が、赤く、赤く染めている。

 高校に勤めているのだから、こうして色濃く染まる夕暮れどきの玄関なんてものは、何度となく見てきた光景だ。

 そのはずだというのに、地に足が縫い付けられてしまったかのように、少しも動くことが出来ない。


 視界の端で、ドクが俺を見つめている。

 にんまりと目を細めて俺の様子を眺め、楽しんでいる。

 ただ、そういう事実を悟ったとしても、反応する余裕が今の俺にはなかった。


 目眩がする。

 赤と黒のストライプ。


 また、デジャヴだ。

 俺はこの光景を、見たことがある。

 果たしてそれは、いつのことだったか。


 見慣れているはずの、見慣れない光景。

 見覚えがないはずの、見覚えがある光景。


 思い出せない。

 いやにやかましく、心臓が鳴っている。

 たとえば海馬とかそういうところが『違う』と訴えかけているような気がして、しかし、一体何を違うと言っているのか分からない。


 ただ、無性に寒い。


 吐き出した息が、極々小さな氷の欠片となって足元へ積もっていくようだった。

 見えないそれが存在を主張して、いやに神経を高ぶらせる。

 得体の知れない何かがすぐそこにいるような気がして、反射的に息を潜め、そして、自由になった手で口を覆った。

 知られてはいけない、静かにしなくてはいけない――どうしてか分からないけれども、そんな思いが俺の中を占めていく。


 そうして身体を震わせておきながら、頭の隅に残った冷静な部分では、まるで三流のホラー映画のようだと考えてもいた。

 本当にこれが、三流のホラー映画なら。

 得体の知れない何かはきっと、グロテスクな見た目をした化物だろうか。

 例えばゾンビとか、エイリアンとか。

 いや、さっき感じたように、この校舎自体が意思を持って、俺達に襲いかかって来るのかもしれない。


 震える身体と、頭の隅のくだらない妄想、何が起きているのか理解出来ない俺を、楽しそうに眺めるドク。

 たとえ何も出て来なくても、これだけで充分ホラーかも知れないとも思う。

 ついでにいえばその場合は、オカルトではなく、サイコホラーだ。

 俺が勝手に妄想した恐怖でおかしくなっていく様子を、観察して喜んでいる誰かがいる――もしかすると、俺の隣に。

 そんな妄執にとらわれて、その方がしっくりくると納得して、だけれども俺は結局、馬鹿馬鹿しいと心の中で吐き捨てた。

 彼女に一体、何が出来るというのか。

 細い指の、平均身長より少し高い程度の、俺の肩までしか身長もない、ドクというか弱い少女に。


 そう思うのに、相変わらず、周囲の空気が俺へ粘度を持って絡みついてくるような気がして、息が詰まる。

 喘ぐように俺はもう一度、いいや、と心の中で強く否定した。


 異質さから目をそらして、見ないふりをして、口を押さえていた手を静かに下ろす。

 見ないふり。

 聞こえないふり。

 知らないふり。

 これは治らない、俺の悪い癖だろうか。


 細く息を吐いて、よぎる苦々しさにすらも気付かなかったふりをして、無理やり平静を取り戻す。

 ちょうど、それと同じタイミングだった。

 微動だにしない赤と黒で出来た光景の中へ、新たな黒が伸びてきたのは。


 赤いラインを塗り潰すようにして、入り込んだそれ。

 全てが不規則な曲線で構成されていて、丸みを帯びている。

 どうやらそれは、玄関に置かれた備品無機物ではないらしい。

 そう、一瞬遅れて気が付いた。

 初めて見る、校舎を形成するもの以外の何かの影――微かに揺れて、伸びていく。

 どうしてなのかしらないが、ずくり、と腹の底の辺りが痛んだような気がした。


「おや」


 いやに間延びしたその声は、すぐ隣から聞こえたものだった。

 ドクだ――そう気付いた途端、空気に粘度を持たせていた何かが飛び退き、逃げていく。

 考えるよりも早く俺は、彼女の手首を掴んで端にある下駄箱の影に隠れた。


 うつむいた俺の視界を、赤ばかりが占めている。

 ストライプの中、歪な影が落ちてしまうのが恐ろしくて、ロッカーに背中を張り付かせた。

 細く、細く、息を吐く。

 一体どのタイミングからだったのか、それまで俺は、呼吸を止めていたらしい。

 そう気が付いて、努めてゆっくりと息を吸う。

 ひしゃげた肺胞が膨らんで、ようやく少しだけ血が通い始める。

 いつの間にか閉ざされていた感覚が、戻ってくるような気がした。


 親指の付け根辺りがちょうど、細い手首の動脈に当たっているらしい。

 微かな振動として伝わってくるドクの鼓動は思っていたよりも速く、いやに気持ちを高ぶらせる。

 背中に当たる温かみのない金属と、這い上がってくる冷たさと。

 それに相反して、皮膚の内側のどこかが溶け落ちるほどに燃えている。


 ――落ち着け、何を焦っている。


 そう自分に言い聞かせては目を閉じて、細くゆっくりと息を吐く。

 下駄箱に背中を預けながら懸命に気持ちを落ち着けて、なるべく影と気配とを薄くしようと試みる――そんな今のこの俺の姿を、もし端から他人として見ているだけだったなら、お前はハリウッドのアクション俳優気取りかと笑い飛ばすことも出来ただろう。

 しかし、どうにも頬が引き攣ってしまって無理らしかった。

 例えば恐怖。

 例えば焦燥。

 例えば、興奮。

 どんな感情から頬が引き攣るのかは、正直なところ、自分でも良く分からない。

 けれどもきっと恐らくは、俺自身すら知らない感情が渦巻いているのだ。


 努めてゆっくりと、呼吸する。

 目蓋を持ち上げた先、そこにあるのは下駄箱として使われている金属製のロッカーだ――そこまでは、想像していた通り。

 けれども他とは違って、全ての戸が開いている。

 揃って中途半端に開かれたそれが、規則的な陰影を作り出していた。


 何故だろうか、いやに胸がざわつく。

 じっと見つめればそれらが急に凹凸を失し、赤と黒の模様に、平面の鱗紋うろこもんに見えてくる。

 ああ、これがいわゆる、ゲシュタルト崩壊というやつか。

 そんなどうでも良いことを思いながら、ゆっくりと目をしばたたいた。


 目蓋の裏の黒が鱗紋を閉ざして、再び見つめる世界が立体感を取り戻していく。

 促すようにもう一度まばたきをして、それからようやく、先程の無機物ではない何か――生き物であろうそれの動向を窺うよう、耳を澄ませた。


 影はさっき、ここからすると背後の数メートル離れた辺りにあったはずだ。

 離れた気配を探るとかそんなな芸当は、俺には出来ない。

 出来ないけれども――タイミング良くというべきか、離れた位置から物音がして、それが先程の影によるものだろうことは知れた。


 たん、たん、たん。

 ぱたぱたぱた。


 そんな、二種類の音が聞こえる。

 それが一体何かなど、考えなくたってすぐに分かる――これは、人間の足音だ。

 ドクと同じくらいかもう少し重い、いや、重苦しい足音が一人分と、軽く短いスパンで繰り返される調子からして、幼い子供のものだろう足音が一人分。

 それらが玄関を上がって移動していく。


 強く握り締めたドクの手首と、伝わる鼓動、近付いてくる二つの足音。

 心臓は大きく収縮を繰り返し、そこから送り出される血液が、耳の奥で渦巻いている。


 ロッカーから背中を離して、顔を覗かせる――そうすれば足音の主が誰なのか分かるのに、そんな簡単なことがどうしても出来ない。

 音が近くなっている。

 もしかすると、相手側が気付いて俺達を覗きに来るのかもしれない。


 ――それならそれで構わないのじゃないか。


 ――いや、待て。


 ――それは本当に、人なのか。


 そもそも、俺は自分が勤める高校の職員室の、宛がわれた席で仕事をしていたのだ。

 けれどもいつの間にかドクが狭間と呼んだここに来ていて、一体何が起きているのか未だ全く理解していない。

 俺以外の唯一であるドクが何者かすら分からないのに、その場に現れた存在は、正しく人であるのだろうか。


 言い知れない不安が、頭をもたげた。

 指先が冷え、心臓が空転している。

 視界が周囲から徐々に暗くなって、自分の存在さえ曖昧になっていく。


「いっちゃん」


「いっちゃん」


 二つの足音が、途中で折れた。

 こちらに気付いていたのか否かは分からないけれども、位置からして、どうやら階段を上っているようだ。

 知らず知らずの内に浅くなっていた呼吸を整える余裕は、未だない。

 頚椎が、左斜め下への動きに合わせて軋んだ。

 視界いっぱいに映る、ドク。

 その黒い瞳でただただ真っ直ぐに、俺を見つめていた。


「いっちゃん」


 ドクは、軽やかな足取りで一歩、踏み出した。

 俺に手を引かれるままの、下駄箱に背中を預けていたその体勢から、身体を半回転させる。

 赤く染まるそこで、向かい合う。


 彼女の手がちょうど、俺の心臓の上辺りを押さえた。

 骨に守られていると理解しているのに、それだけなのだと思えば急に心許なくなる。

 もしかすると、ダイレクトに鼓動が伝わってしまっているのじゃないだろうか――一度そんな考えに取り憑かれてしまえば、どうにも落ち着かなくなった。


 怯えなのか、それとは違うものなのか、自分でもよく分からないままに空転し続ける心臓。


 知られたくないと、何故だろうか、強くそう思って、逃れるようにわずかに横へずれる。

 手のひらは、追ってくることなく下ろされた。

 安堵している心とは裏腹に、触れられていた場所がいやに冷える。


「さて、どうするんだい、いっちゃん」

「どうする、って」


 微笑むでも、不機嫌な顔をするでもなく、ドクはただただフラットな表情のまま見上げてきた。

 俺の視界を占めている、赤く染まった頬と、黒い瞳。

 反射的に、眉間へ皺が寄る。


 ドクは、俺に一体何を訊きたいのだろうか。

 そもそも、何故ドクはこの生徒用玄関へと連れてきたのだろう。

 本当の物語の始まりとは何なのか。

 訊いてみたところで、どうせ答えは返って来ないのだ。

 何も理解していない俺が、どうやって今後の行動を決められると言うのだろうか。


 黙り込む俺に、ドクはゆっくりと、陽に赤く染まる唇を開いた。


「忘れたのかな、いっちゃん。ここは狭間だよ。いっちゃんの存在する世界ではないんだ」


 出来の悪い子を諭すように、そうして、思考を促すように。

 告げられた言葉に、拳を握り締める。

 苛立ったとかそういうことではなく、はらの中で何か、覚えのない良からぬものが蠢くような気配がしたからだった。

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