第二話〜2
また一瞬だけ、視線が俺へと向けられる。
ドクはすぐに前を向いたのに、俺は、その唇が音を紡ぐさまを見ずにはいられなかった。
「ここはね、んん、そう、狭間とでも言ったらいいのかな」
「はざま……? それは一体どういう……」
はざまとは、あいだのことだろうか。
咄嗟に浮かんだのは、そんな当たり前の言葉だった。
こぼれ落ちそうになった愚かしい疑問は、しかし、声になる前に腹の底へと戻っていく。
俺の手を引いて歩いていたドクが、不意に立ち止まったからだった。
いつの間にか、校舎の端まで来ていたらしい。
右手を振り返ると上下へ向けて伸びる階段が、左手と正面にはドアがある。
ドア脇の壁にあるプレートは、本来なら何年何組だとか、そういうことが書いてあるものだろう。
けれども文字は、よく見えなかった。
雰囲気的に、図書室とか司書室とか、そういうものじゃないだろうか。
勝手に推測してみても、手を握られたままで行動範囲が狭められている今、確かめる術はない。
「あちらとこちらの狭間。もしくは……あの世とこの世の狭間」
そう発してから、ドクは再び歩き始めた。
右手へ大きくUターンして、下り階段へと足を向ける。
手を引かれている俺もまた、一緒に階下へと歩き出した。
いや、正確に言うなら、歩き出さざるを得なかっただけだ。
俺はただただ心を置き去りに、どうにか足だけを動かしたような状態なのだから。
文字通り、目を丸くしている自覚がある。
あの世とこの世の狭間だなんて、ファンタジーじゃあるまいし。
あまりにも馬鹿げているじゃないか――そう思うのに、心のどこかが忙しなく、受け入れるべきだと騒ぎ立てているような気がした。
一度そんな気がしてしまうと、冷静な思考はじわりじわりと奪われていく。
つまり、つまりは。
俺が、死にかけているとでも言いたいのだろうか。
いや、そもそも仕事をしていた最中だったというのに、急に俺はあの場所から、身体ごと消えたのか。
はざまなんて言うくらいなのだから、もしくは、いわゆる魂とかそういうものになって、この場にいるとでも言うのだろうか。
何故、どうして。
途端に足取りが重くなる。
引かれる腕はぴんと張り、俺が事態についていけていないのだと、ドクだって気付いたはずだ。
それでも彼女は、微塵も振り返る気配を見せずに、たん、たん、と軽い足音をさせて暗い階段を下っていく。
肩甲骨の下辺りまである、黒いゴムでまとめられた髪が、階段を下りるその動きに合わせて左右に揺れている。
俺に今出来ることはといえば、その髪を見ながら思考を放棄し、足を動かすことだけだった。
「私については、まぁ、いいとして。一体何がと言われると、ふむ、どう答えたものだろうね」
階段の踊り場で二回右へ折れて、また下っていく。
推測するに、南北へ向かって伸びているらしい階段は、照明が点いておらず、陽ほとんども入らない。
ドクの後ろ姿は、影が質量を得たかのように、ただただ黒く見えた。
「少なくとも、少なくともだよ、いっちゃん」
俺が階段を下りきると同時に、ドクがくるりと振り返る。
そこにはわずかに陽が射し、またドクの右半身だけを仄明るく染めていく。
膝下丈のプリーツスカートを翻し、俺より頭一個以上も低い所からにんまりと見上げてくるその目は、やはり、細められていた。
一体、何がそんなに楽しいというのだろうか。
きっと今、怒りまでは沸かないでいるのは、あくまで混乱し思考が追い付いていないからであって、冷静な状態であればこうしてついて来るどころか、手を取ることすらしなかっただろう。
――ああ、俺は、混乱しているのだ。
いやに赤く見える唇が、開かれる。
「直接的な原因は私ではないと、そう言っておくよ。なにせ、私はドクだからね」
プリーツスカートがまたも翻され、楽しげな表情はすぐに見えなくなった。
そうして繋がれたままの手を引き、ドクはまた階段を下って行く。
俺の疑問は何一つ解決されず、それなのに俺はどうしても、ドクの後ろを着いていくことしか出来ないでいた。
二階分の階段を下ってドクが左へと折れた先、辿り着いたのは教職員用の玄関だった。
そこもやはり設備としてのロッカーなどはあるけれども、他に、例えば傘だとか、そういう物はないらしい。
脇にある事務室も同じで、事務机だとかスチール棚だとか、設備としての物品はあっても、書類などは載っていないし、どうやら中身もないようだ。
もっとも、ここからでは良く見えないのだけれども。
「こっちだよ、いっちゃん」
軽く手を引かれて、一階の廊下を再び歩きだす。
左手側は壁で、右手側には教職員用の更衣室があるせいで、しばらくは窓がなく仄暗い。
あの赤く染まる教室と、仄暗い廊下と、どちらの方が気味が悪いだろう。
そんな実のないことを考えては、前の小さな背中を見つめた。
黒いセーラー服とお下げ髪。
それらは、誰もいないこの赤と薄暗さに染まった校舎では如何にもな組み合わせで、学校の七不思議でも始まりそうな雰囲気を思わせた。
あの女子生徒に肝試しなんかやめておけと注意したはずなのに、自分がやる羽目になるなんて。
自分自身を茶化すようにそんなことを思ってみても、どうにも笑い飛ばせるような気分ではなかった。
見つめていたドクの背中が不意に、ほんのりと赤みを帯びる。
微かに陽が射したのだ。
壁が途切れたそこは上階と同じように窓ガラスが並んでいて、その向こうはほんの小さな中庭になっている。
太陽があるのは中庭と廊下と教室とを超えた向こう側であって、今の時間帯では角度の問題もあるのか、わずかな光しか入って来ないらしい。
仄暗い廊下を、そこを歩いていく赤く染まる背中を見つめ続けているのは、なんとなく心がざわつく。
落ち着かない自分が嫌で、中庭へと視線を移した。
そこへ植えられていただろう芝は、生徒達が散々踏み付けたのか、ところどころが剥げている。
そのまだらに生える緑は、何かの地図のようにも見えた。
小さな子供であったらそこへ走り出しているかも知れない。
けれども幸か不幸か、さすがに三十手前になってそんな無邪気な心は持ち合わせていなかった。
向こう側の廊下には中庭へ面した引き戸があり、そこから出入りが出来るようになっているらしい。
戸からすぐの芝は当然というべきか、余計に踏み荒らされているようで損傷が激しく、完全に黒っぽい土が露出していた。
そこに、一点の白。
小さな紙切れだ、と思う。
何故か妙に興味がわいて、ついじっと見つめてみるけれども、手を引かれている状態ではその場に立ち止まり改めて確認することも出来ない。
短く、息を吐く。
落ち着け、紙切れがなんだ――意図して自らの興味を逸らすように、窓から視線を外してまた前を向いた。
黒い髪、黒いセーラー服。
揺れる三つ編みとプリーツスカート。
ドクの姿が不意に、霞がかって見えた。
目眩がする。
心臓の辺りがざわめいて、何かが込み上げ、ソて、抑えきれずに溢れ出す。
「意味が……意味が、分からない……どういうことなんだ、あの世とこの世の狭間っていうのは。どうして俺は……仕事をしていたはずなのに、どうしてあの教室で眠っていた? 君は……ドクは……一体何を知っているんだ」
矢継ぎ早に問い詰めたのは、何より不安だったからかもしれない。
今この時点で、ドクをまるきり信用するというのはあまりにも愚かだ。
その、愚かであることには目をつむり、語っていることのほぼ全てが真実であると仮定したとして。
では、この状態へ至るには、何が原因だったというのか。
ドクだから直接的な関係がないなんて先程の言葉では、ドクについては置いておくとしても、まるで、俺に原因があるとでも言っているかのようじゃないか。
被害妄想なのかもしれない。
しかし、そうではないとも言いきれない。
嘆き混じりの怒りのようなものが微かに、自分の心のどこかからふつふつと湧き出してくる。
それでも結局は何もかも、俺自身には全く身に覚えがないのだから、ドクに解を求めることしか出来ないのだ。
窓が途切れて、また陽が翳った。
ドクは前を向いたまま、振り返ることなくゆるりと首をかしげる。
「メカニズムなんてむつかしいモノは分からないけれど、そうという事象が起こるべくして起こっていることは承知しているよ。なにせ私はドクだからね」
「はっきり答えてくれ」
「ふふふ、せっかちだな、一路くん」
低く唸る俺にドクは、楽しげに笑って言葉を切った。
どうやら答える気がないらしい――恐らく、何を訊いても無意味なのだろう。
初っぱなから手詰まりだ。
かといって、これ以上強く問い詰めるのは、どこか気が引ける。
それはドクの背中が華奢でどうにも頼りなく、すぐに壊れてしまいそうだからなのだろうか。
それとも何より、不安にも似たざわめきが俺を占めているからなのだろうか。
例えば今、振り払おうとすれば、恐らくこの手は簡単に解ける。
しかし、ここでひとり残されることと、頼りない背中に着いて行くこととを天秤にかけると、後者の方がまだましに思えていた。
ひとりは恐ろしい。
ひとりになることを考えると、胃がぎゅうっと掴まれるような心地がする。
右手で腹の辺り、白衣を握り締めた。
皺が寄るだろうなと、関係のないどうでも良い言葉が脳みそに浮かび上がった。
細く、溜め息を吐く。
俯いて、視界からの情報をなるべくシャットアウトすれば、意図せず他の感覚が鋭敏になっていくのに気付いてしまった。
二人分の足音と衣擦れが、仄暗い廊下へひっそりと染み渡る。
それはまるで、この生物の気配を全く感じさせない校舎そのものを、生物に生まれ変わらせているかのようだった。
本当に、この先へ進んでも良いのだろうか。
肌寒い季節になったというのに、背筋を生温い汗が滑り落ちた。
静かだ。
ひたひたと宵闇が押し寄せる――そんな気がする。
胃の痛みが、心臓へ伝染していく。
咄嗟に思い切り目を閉じる。
その瞬間、繋いだままの手をドクに引かれて俺は、つんのめるようにして立ち止まった。
――目を開けたそこは、廊下よりも幾らか明るいらしかった。
どれだけ俯いていたのだろうか。
首の骨が軋むのを感じながら顔を上げれば、その先にいたのは、やはり楽しげに目を細めているドクだ。
彼女はずっと繋いでいた手を、不意に離す。
俺の前に躍り出たかと思えば、芝居じみた大仰な動きで両の腕を広げてみせた。
赤い唇がつり上がる。
「さぁ着いたよ、いっちゃん。ここからが本当の、物語の始まりだ」
ドクの声で、校舎が目を覚ましたような、そんな気がした。
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