第4話 ―出立前夜



 深夜の執務室に、訪れる影があった。

 ほとほとという控えめなノックとともに、入室のむねを告げる声が聞こえた。

「入りなさい」

 皇帝は知らず詰めていた息を返事とともに吐き出し、山積みになっている戦後処理の決済書類を乱雑に机の脇によけ、訪問者を迎えた。

「…お父様。夜に、ごめんなさい。お仕事中でしたか…?」

「かまわないよ。一休みしようと思っていたところだ」

 久しぶりに見る愛娘の姿に、四十路を迎えたばかりの父親も相好そうごうを崩した。

 そうですか、と言ったきり黙ってしまったイリサの姿を、皇帝はとっくり眺めた。


 ――誕生日にプレゼントしたスミレ色のドレス。

 サテン生地の柔らかい舞踏靴。

 侍女によってだろう、しっかりと手入れのされた金緑色きんりょくしょくの髪。いつも『くせっ毛が直らないのーっ!』とふくれた顔をしてわえられた髪を見つめてはいじけていた。

 いっそう華やかに着飾り、普段はあまりしない化粧をうっすらとして『お父様、ありがとう』と少し恥ずかしそうに、でも満面の笑みで礼を言った十二歳の誕生日。……開戦の数ヶ月前のこと。

 今年の十六歳の誕生日には何をあげたら喜んでくれるだろうか。


 つらつらととりとめの無いことを考えていると、イリサが覚悟を決めたように顔を上げた。

「お父様。……いいえ」

 イリサは一瞬目を伏せたが、またすぐにあげた。

「皇帝陛下」

 その声では聞き慣れない呼称。

「私を、旅に出させて頂けませんか」

「旅?」

「はい。……この大陸は、いまだ戦が続いています。それを、止めにいきたいのです」

 皇帝の妻に似た紅玉こうぎょくのような瞳が彼を見つめる。

「……どうやって?」


「――この世界を、終わりにします」


 強い意志がはっきりと見える瞳だった。

 薄い涙の膜が張られ、睡眠不足からかさらにあかくみえる。

 ほつれた髪、やつれた顔、目の下のくま。……さきほど皇帝が思い返していた娘の姿とはまるで違った。開戦からの四年で否応なく鍛えられた身体は、今では戦士という言葉の方が似合う姿だった。

 ……引き留めるつもりだった。だが。

「行ってきなさい」

 皇帝の口からは、その言葉が自然と零れ落ちていた。




 温度のない声で謝辞を告げられ、執務室はまたひっそりとした静寂しじまもれた。

 蝋燭ろうそくが燃える音に混じり、皇帝の溜息が部屋の隅に落ちた。

 イリサは、もう以前のように笑いかけてはくれないだろう。

 開戦を決め、帝国民みなに剣を持たせた自分には。

 ……将として戦場へ出し、国民を殺させ、自身も死ぬことを強要した自分には。

 だが、皇帝とて自分の子どもが可愛く無いわけではないのだ。

「……愛しいからこそ、剣を持たせたのだからな…」

 たとえ帝国が無くなっても、子ども達は自分で生きられるようにと。

 結果として帝国は残り、敵であった王国は三月みつきほど前に支配下に落ちたわけだが。


 四年前に持ったきり、どこへゆくにも腰に帯び、眠るときさえ枕元から離さない剣。

 終戦を迎え、夜だというのに軽装とはいえ当てたままの防具。

 自分や、彼女の兄弟たちに似た、金緑色きんりょくしょくの長い髪。

 今では当たり前になってしまった娘の姿に、剣を持つ前の彼女の着飾った姿を重ねることは、もうできなくなって久しかった。

 微笑みすら、見ていない。


「あれだけ剣を持つのを嫌がっていたのにな……。まさか自ら兵を率いて、終戦を導くとは」

 初めて剣を持たせた日のことを、皇帝はまだ鮮明に覚えていた。

「旅………か」

 イリサの名は帝国内では“終戦に導いた天使”として、………大陸では“終戦を導いた悪魔”として、『終末のイリサ』と呼ばれている。

 その通り名は彼女の詳しい容姿とともに、戦時中から大陸のいたるところに広まっていた。

「イリサの幸福と、……身の安全を祈るくらいしか、私にはできないな………」

 皇帝はふたたびため息を落とし、そっと瞑目した。

 そしてふとある青年の言葉を思い出し、皇帝に付き合いまだ休んでいなかった侍従に、ある言いつけをした。

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