38 続
更井歩(さらい・あゆみ)が演じる自分の奥さんの死体を見て驚き慌てる課長さん。
その後、課長さんがどう行動するかはあたしたちの賭けだが、課長さんは予想通り家を飛び出す。
あたしは課長さんの臆病な性格を良く知っている。
だから毒薬を気にして家に戻って来るのも予想通りだ。
言うまでもないが青酸ナトリウムは偽物だ。
あたしの恋愛エピソードも含めて全部。
ついで課長さんを家に戻らせるための予防線は、もちろん張ってある。
頃合いを見計らい、課長さんのスマホに泥棒集団のリーダーから連絡を入れるという方法だ。
けれども課長さんが考え直し、自分から家に戻ったので、その筋書きは消える。
ちなみに奥さんの死体を見て課長さんが家を飛び出さなかった場合、課長さんに家を飛び出させる方法は、家の中で人の気配がするというモノ。
課長さんの家にこっそり潜んでいたあたしが本でも落とせば十分なのだ。
実際、課長さんは偶然キッチンから落ちたフォークの音に怯えたわけだし……。
さて、奥さんの死体に驚き課長さんが慌てて家を飛び出すと更井歩演じる死体がむくりと起き上がる。
死体の後始末はそれで終わりだが、次亜塩素酸ナトリウム溶液による工作を素早く行わなければならない。
家から飛び出した課長さんに軽い怪我をさせるという行為と一対となっているからだ。
いずれ課長さんの家に現れる刑事に『次亜塩素酸ナトリウム/キッチンの一点だけを拭き掃除』という点に不信を抱かせるために……。
その意味は、もちろん課長さんを奥さん殺人の容疑者として疑わせるため……。
課長さんの脚の怪我はパチンコによるものだ。
あたしのヤンキー時代の友人はみな運動能力が高いが、それでも七人を闇に潜ませる。
五人目で当たったのは幸いだろう。
さて、課長さんが家に戻るとやがて固定電話が鳴る。
あれが計画最大の賭かもしれない。
実は固定電話は偽物だ。
実際に電話を使えば通話記録が残ってしまう。
それを避ける必要があるので無線機を仕掛けたフェイクの電話機を使ったのだ。
子機も、そうだ。
だから課長さんの家に警察が現れるまでに偽の電話機を回収しなければならない。
子機の方は簡単だが、固定電話の方はタイミングが合わなければ難しい。
幸い課長さんがトイレに立った隙に、あたしが本物の固定電話器と摩り替える。
偽物の固定電話をあたしが持ち去る姿を一瞬課長さんに見られたか、と思ったが、気が動転していた課長さんは、それどころではなかったようだ。
リダイアルできない電話の謎は、そんなところか。
そこから先は課長さんが経験した通りに計画が進む。
最初の脅迫状を橘夫人の家のポストに入れたのは、老人である橘夫人の気が良さそうに思えたからだ。
まさか、お金持ちだという理由で課長さんを妬んでいたとは思いもしない。
しかも盗撮の趣味まであるとは……。
橘夫人の介入は誤算だが、金持ちを妬む人だけのことはあり、課長さんと奥さんを変態趣味の夫婦と信じてくれたことだけは幸いだ。
もちろん本人から直接話を聞いたわけではないから橘夫人の本心まではわからない。
が、警察に目撃情報を漏らされていたら即座に計画が頓挫したことだろう。
ところで課長さんの奥さん役の更井歩はともかく、殺人現場写真の課長さん役はあたしのヤンキー時代の友人の中から一番背格好の近い男を選ぶ。
アップでの撮影は無理だが、それなりの化粧を施せば遠目で似させることは、それほど難しくない。
ついでに言えば橘夫人が撮った課長さんの妻殺害シーンはリハーサルのときのモノだと思う。
そうでなければ写真を撮影する予定だったあたしの友人(リハーサル時には課長さんの家にいない)とキッチンの窓の外で遭遇したはずだから……。
もっとも今となってはそれが良かったのか、あるいは悪かったのか、あたしには判断がつかない。
どの道、あの写真が撮られた土曜日、あたしは課長さんと熱海にいたから、どんな関与もできなかったわけだが……。
そう、あたしと更井歩は課長さんがあたしを小旅行に誘うのを待っていたのだ。
勘が悪い課長さんは気づかなかったかもしれないが、あたしは事前に何度もお願いをしている。
その甲斐があり、小旅行は実現するが、自分の出張とダブらせるところが課長さんといえば課長さんらしい。
結婚による偶然とはいえ、今では金持ちの課長さんだが、金持ちらしさが微塵も感じられないからだ。
さて、脅迫状の差出人を『山下小百合』としたのは、あたしと更井歩の遊びだ。
課長さんの奥さんの名前を出すことで課長さんに犯人の目星をつけさせようと企んだ、というわけ。
DVDの映像は予め撮影しておいたモノ。
撮影場所はあたしのアパート。
まさか、そうは見えないと思うが……。
生活音が混じるとバレるので元の映像を加工し、音声は別取り。
昔の友人の一人が映像加工の分野に進んでいなければ、あのDVD及びヘリウム声(実は電子加工の声)はなかったのだ。
その後、派手な身代金受け渡しが、あたしのヤンキー仲間の協力で実現し、あたしのアパートに二億円が運ばれる。
身長百六十五センチメートルくらいの太った男も、あたしの友人の変装だ。
けれどもまさか最後に身代金を狙う奴が現れるとは、あたしの想像の埒外だ。
時折課長さんが呟いていたように、世の中、何処に目や耳があるか知れたものではない。
さて、あたしは二億円を手に入れた時点で、さっそく横領分のお金を経理……というか銀行に戻す。
細かなお金の動きもできるだけバレないように工作したが、警察が調べれば一目瞭然かもしれない。
あたしにとって計画が可笑しくなってきたのは更井歩が、
『実はさ、あたしも、この人を好きになっちゃんたんだよね』
などと発言してからだ。
そもそも、そんな言動は計画にはない。
高橋という課長さんの奥さんが高校生の頃に好きだったという数学教師の存在も、あたしは知らない。
もちろん、その奥さんのことも……。
さらに言えば、高橋夫妻が離婚して云々など、あたしにはまったく無関係な話だ。
いったいどういうことなのか、あたしにはまるで見当がつかない。
さて、事件がここまで進めば、いくら飲み込みが悪いあたしにも事件の構造が見えてくる。
この事件の真犯人は、あたしではない。
真犯人は更井歩だ。
なお、より正確に言えば更井歩を装った山下小百合なのだ。
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