29 惑

 青田刑事に見送られながら、おれが門扉を抜け、玄関のチャイムを押す。

 暫くし、妻モドキが玄関を開ける。

「おかえりなさい。早かったのね」

「青田刑事に家まで送って貰ったよ」

「葉山さんではなく」

「葉山の方は別の場所に向かったようだ」

「青田刑事、まだあなたのことを見てるわよ」

「おれが家の中に入れば諦めるだろう」

 そう言い、おれが三和土に上がり、玄関ドアを閉める。

 スリッパに履き替え、リビングルームに向かう。

「何だ、来てたのか」

 リビングルームに佐知の姿を見つけ、おれが戸惑いつつ言う。

「アパートに一人でいても落ち着かないから……」

「確かにな」

「仕事でもしてれば気が紛れるけど、こうしてみると休日も困りものね」

「明日になれば厭でも仕事だよ」

 佐知に言い、おれは服を着替えるために二階の自室に上がる。

 ドアを開け、机の上の貴重品箱を見、急に不安になる。

 鍵はまだ財布の中に入ったままだ。

 それで取り出し、貴重品箱を開ける。

 おれの不安を嘲笑うかのように青酸ナトリウム入りのガラス瓶が貴重品箱の中にある。

 最後に確認したときと何ら変わりなく。

 ガチャ。

 いきなりドアが開き、妻モドキが部屋に入ってくる。

「おい、ノックくらいしろよ」

 不機嫌におれが言うと、

「それは何かしら……」

 妻モドキが目敏くおれの手の中のガラス瓶を見つけ、問いかける。

「何でもないよ」

「それが毒なのね」

「そんなこと、どうでもいいだろ」

「機会を見て、こっそり佐知ちゃんに盛ろうかな」

「今そんなことをしたら、あっという間に葉山に逮捕されるぞ」

「あなたがね」

「どうして、おれなんだ」

「あたしがあなたの奥さんじゃないからよ」

「どういう意味だ」

「佐知ちゃんを殺す理由がないでしょ」

「おれにだって理由はないぞ」

「あたしと遣り直すことにしたから邪魔になったのよ」

「きみはおれの妻じゃないんだろう」

「でも世間の人は皆、あたしのことをあなたの妻だと思っているわ」

「あの葉山も、そう思っているよ。疑ったんだが、指紋が一致したので認めざる得なかったそうだ」

「あら、そう……」

「例の指紋付きの手袋を使ったんだろう。警察署内で……。大胆な女だ」

「世の中の殆どの女は大胆だわ」

「ところで、おれに何の用だ」

「これからのことを相談しようと思って……」

「佐知は除け者なのか」

「昨日のことがあるから家には入れたけど、もしかしたら彼女が真の誘拐犯かもしれないじゃない」

「おいおい、誘拐犯の手先であるきみが、そんなことを言うのか」

「だって、あたしが会って芝居を依頼されたのは、あたしの知り合いであり、真の誘拐犯じゃない……かもしれないでしょ」

「だからって、どうして佐知なんだよ」

「女の勘かな」

「冗談を言ってるのか」

「だって佐知ちゃんには、あたし……じゃない、山下さんの奥さんを殺す動機があるじゃない」

「しかしだな……」

「どうせ、その毒だって佐知ちゃんが手に入れたモノなんでしょ。山下さんは臆病だし、不器用だから、自分からは何もできない」

「臆病で不器用で悪かったな」

「ねえ、今からでもあたしに乗り換えない」

「きみの狙いは何なんだ」

「第一が山下さん」

「おい、止めてくれよ」

「第二がスリルかな」

「第三が金か」

「そんなところね」

「厭だよ。御免被ります」

「まあ、即答なんて……。山下さん、そんなに佐知ちゃんのことが好きなのね」

「今の異常な状況ではともかく、佐知といると落ち着くんだよ」

「奥さんといては落ち着かなかったの」

「気の休まる暇がなかったよ」

「好きで結婚したくせに……」

「一緒に暮らすのには向いていなかったのかもしれない」

「通い婚の方が良かった、ってこと……」

「そうかもな」

「……」

「いや、だけど、おれも悪いんだよ。妻を引き受けられなかったんだから……。良く考えれば結婚前にだって、やがて息が詰まる日が来ることが予想できたはずなのに……」

「我慢できなくなる前に奥さんに言えば良かったんじゃないの……」

「きみと一緒にいると息が詰まる、と一言でも妻の前で言えば、妻が毀れるよ。妻は繊細なんだ」

「毀れる……暴れるじゃなく」

「そりゃあ、暴れもするだろう。モノも毀す。でも妻は繊細なんだよ」

「買い被りじゃない」

「きみはおれの妻を愚弄するのか」

「だって繊細なのは多重人格の中の一人かもしれないでしょ」

「きみは何を言い出すんだ」

「急に思いついて口に出したけど、まったくありえない話じゃないわね」

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