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 警察も馬鹿ではないので、数分後、おれが独り佇む公園に到着する。

「リュックサックはどうされました」

 顔を知らない若い刑事が問うので、

「指示通り、ライダーに渡しましたよ」

 と、おれが答える。

「そうですか」

「他に手はないでしょう」

「わかりました。では署までご足労願います」

「誘拐犯は捕まるんですか」

「その点は全力を尽くします」

「任せましたよ」

 後に、おれのその発言が葉山刑事の疑念を深めることになる。

「まず奥さまのご心配をなされませんかね」

 おれが葉山のいるD警察署に到着すると開口一番葉山が問う。

「何のことですか」

「山下さんは、お金を取られてすぐ、誘拐犯が捕まるかどうかを心配されました」

 葉山に言われ、おれはハッとするが、政治家でもあるまいし、前言を撤回できない。

「警察が中途半端に犯人を追い、妻が帰ってこない心配をしたのですよ」

 咄嗟にしては、我ながら上手い言訳だ、と自分で感心。

「それで誘拐犯が警察に捕まって欲しくないから誘拐犯の心配を……」

「日本の警察は優秀なんでしょう」

「なるほど……」

「ところで肝心の妻の方はどうなっていますか」

「今のところ、何処かに現れたという情報はありません」

「妻は無事なのでしょうか」

「無事を祈るしかありませんな」

「誘拐犯は捕まりそうなのですか」

「現時点では、まだ……ですが、いずれ時間の問題です」

「妻が家に帰ってくるまで派手な動きを謹んでくださいよ」

「それは心得ております」

「警察が動いていることを、すでに犯人は知っています。もしも妻が殺されたら、それは警察の責任ですからね」

 強い口調でおれが言うと、葉山は一時言葉を失ったようだ。

 が、すぐに、

「人命第一で捜査を進めておりますから……」

 と言葉を継ぎ、一旦部屋から出て行く。

 そのときになって初めて、おれは自分が警察署内で案内された場所が取調室らしいと気づき当惑する。

 やれやれ……。

 妻を殺した真犯人がおれではないとはいえ、刑事の勘は凄まじいと逆に感心する。

 すると途端に喉が渇く。

 だから取調室のドアの所に立っていた、おれの監視役らしい年配の刑事にお茶を頼む。

 年配の刑事は最初渋い顔をしたが、その後考えを変え、おれにお茶を出すために部屋を出る。

 すぐに戻ってくると不愛想におれに茶を与える。

 その後、おれは暫く放っておかれる。

 胸に去来する想いがないわけではないが、昨夜からの慌しさが考えを纏めさせない。

 思わず妻との出会いなどを思い出してしまう。

 おれと妻は同じ大学出身だ。

 ……といっても、おれは経営学科で、妻は数学科。

 おれにはチンプンカンプンな学問だが、妻は高校の頃、当時の数学教師に心酔し、それで数学科に進んだと恋愛初期に話す。

 卒論ではジーゲル・モジュラー形式の研究をしたようだ。

 おれの聞き覚えだが、ジーゲル・モジュラー形式とは一般のモジュラー形式がSL2(R)に対応付けられるものらしい。

 おれにとっては魔法の呪文か。

 もちろん、おれは数学に興味を持った妻が好きになったのではなく、どこか浮世離れした妻の雰囲気に惹かれたのだ。

 が、今から思えば、数学に興味を抱いた時点で、すでに妻は浮世離れしていたのかもしれない。

 とにかく、おれは自分の周りに、これまでいたことがない妻の為人(ひととなり)に一目惚れしてしまう。

 驚いたことに妻もおれに一目惚れしたようで、妻と出会った合コン(何故かメンバーがどんどん入れ代わり、最後には最初の参加者全員がいなくなる)から数日後、デコボコ・カップルが誕生する。

 当時、おれには付き合っていた女が数人いたので、暫くの間、彼女たちから妨害工作を受ける。

 が、結果的に、そんな妨害工作がおれと妻との絆を深めたようだ。

 やがて互いの両親に認めてもらい、大学の卒業及び、おれの企業への就職を待ち、結婚へ……。

 初々しい妻との蜜月が、おれの脳裡に広がっていく。

 とにかく新鮮で可愛らしかった妻……。

 それが僅か数年で、どうしてこうギクシャクするようになったのか。

 一番の原因は妻のお嬢様育ち……だろうか。

 お嬢様育ちの妻は自分が大切にされることに何の疑念も抱かない。

 一つも不思議に思わない。

 だから、たとえ一時でも自分の存在が蔑ろにされると自分でもどうして良いかわからなくなるらしい。

 忽ち不機嫌になり、暴れるのだ。

 妻と結婚し、数か月経ち、それがおれの身に染みる。

 恋人同士のときには気づかなかったことが、同居することにより明らかになったのだ。

 こんなことなら婚前に妻との同棲を体験すれば良かったかもしれない。

 当時、妻の方が、それを望んだのだ。

 けれども同時に妻は頑として婚前交渉は認めないと主張する。

 あのときのおれは、それでは何の意味もないではないか、とお試し同棲を拒んだが、今にして思えば、お互いその方が幸せ……いや、受けた傷が少なかったかもしれない。

 性格の不一致で別れた後、互いにとって最適な配偶者を見つけられたかもしれないのだ。

 もちろん、お試し同棲を経て、あの後妻と別れていれば、おれには妻の金は手に入らない。

 けれども、あの頃のおれならば、自分には不釣り合いな家柄だった、と、あっさり妻と別れていたはずだ。

 やれやれ……。

 おれがそんな感慨に耽っていたときのことだ。

 バタンと大きな音を立て、いきなり取調室のドアが開く。

 息急き切って中に飛び込んで来た葉山が、おれに叫ぶ。

「山下さん、奥さまが発見されました。外傷は見受けられませんが、現在K病院におられます。山下さんも、これからすぐK病院へ移動してください」

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