9 猶
「二億円のタンス預金ですか」
葉山が静かに問いかける。
「それは、どういう理由で……」
隠しても仕方がないので、おれが正直に理由を話す。
「店を買う予定があったんですよ。それで現金を銀行から下しまして……」
「この時期にですか」
「時期は関係ないでしょう」
「春先は値上がりすると聞いたことがあります」
「そうですか」
「まあ、聞き違いかもしれませんが……」
「とにかく店の代金として妻が銀行から金を下ろしました。それが、そのままになっているんです」
「……ということは、お店を買う話は流れたと」
「まだ、そこまで行っていませんが、しばらくは……」
「何のお店を始める気だったんです」
「紅茶の専門店です」
「山下さんのご趣味ですか」
「元々の素養は妻にありましたが、妻に教えられ、今ではわたしの方が詳しくなりました」
「贅沢な御身分ですな」
「広い店をやろうというのではありませんよ」
「しかし二億円でしょう」
「すぐに全額を使うわけではありません」
「つまり奥さまの采配……ということですかな」
「仰る意味がわかりませんが……」
「簡単なことですよ。旦那の道楽にはそれ以上出せない」
「……」
「まあ、私どもからすれば十分な大金ですが……」
「わたしにとっても、そうですよ」
「けれども良い店が見つからなかった」
「ええ……。場所が良ければ店の大きさが合わず、反対に店の大きさが良ければ場所が悪い。あるいは土地ごと買い取りたいのに賃貸でなくては厭だとか……」
「どちらにしても改装されるのでしょう」
「それはそうですが……」
「いっそのこと、このお邸でやればいい」
「ここは、そこまで大きな家ではありませんよ。一階が店で二階が住居では落ち着きません」
「ならば奥さまの実家を改装なされば……」
「妻の実家をご存知なのですが……」
「手ブラで現場に参上するほど焼きはまわっていません」
「……」
「どうですか」
「いや、それは思いつかなかったです」
そこで話が一旦途切れる。
「とにかく現金入りリュックサックの用意をしましょう」
少し間を置き、葉山が言う。
「二億円はどちらに……」
「寝室ですが、その確認もされるのですか」
「残念ながら全部の一万円札の番号を控える余裕はありませんな」
「確かに、そうでしょう」
「ところで山下さんは誘拐犯に指定されたリュックサックはお持ちですか」
「ないと思います」
「ではリュックサックは私どもが手配します」
「お願いします」
警察が用意したリュックサックが届いてからが慌しさのピークとなる。
葉山は一万円札全部の番号を控える余裕がないといったが、それでも相当数を控える気でいたらしい。
けれども寝室にある二億円がすでに二個の一億円パック(透明包装済)になっているのを確認すると諦めたようだ。
それでも外側の一万円札の番号だけは写真に撮らせたが……。
「用意が良過ぎますな」
「まだ、お金を使っていないんですよ」
「普通は話が決まってから金を下ろしませんか」
「葉山さんは、その場の現金の強さを知りませんか」
「闇金融じゃあるまいし……」
「どんな商売も一皮向けば同じなんです」
「さすがは営業畑の人ですな」
「わたしは逆玉になろうとして妻と結婚したわけではありません。妻が資産家の娘でなくとも結婚していたでしょう。その場合は当然、自分の稼ぎで妻を養う……」
「最初はそうだったかもしれませんが、贅沢すれば何とやらとも申します」
「葉山さんは、どうしてもわたしを誘拐犯にしたいようだ」
「いや、そんなことはありませんよ。疑うのが商売なだけで……」
そうこうするうち、猶予の五十五分までが過ぎてしまう。
「敵さん、どうやってコンタクトして来ますかな」
「さあ、わたしにはまるで見当もつきません」
二億円入りリュックサックが、おれの目の前に置いてある。
いつでも行動可能なのだ。
あと二分三十秒。
時間がゆっくりと流れていく。
ここまでの慌しさが嘘のようだ。
警察からリュックサックが届けば、二個の一億円パックを、おれはその中に詰めるだけ……。
何の手間もない。
けれどもリュックサックの方に仕掛けがあるらしく、なかなか一億円パックが入れられない。
おれは気ばかり焦り、何もしていないのに途中で気分が悪くなる。
それにしても納得がいかないのがDVDに映った妻の姿だ。
もしかして妻は生き返ったのか……・
それとも、あのときは気を失っていただけで実は生きていたということだろうか。
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