4 提

 翌日、夜八時半頃家に帰りチャイムを押すが、すぐに妻が玄関を開けない。

 それで暫く待つが家の奥から妻が出て来る気配がない。

 急な用事で出かけたのだろうか。

 そう訝りながら玄関ドアを開け、家の中に入る。

 人の気配はないが、電気は点いている。

 だから、やはり急に出かけたのだろう、とおれが思う。

 珍しいこともあるものだ、と首を捻りながら……。

 ついでダイニングに向かうと異変を感じる。

 言葉にするのは難しいが雰囲気がいつもと違うのだ。

 そして、まさか、と思うが、目の前に死体がある。

 妻の死体だ。

 血は流れていない。

 剥き出しにされた腕に傷もない。

 代わりに上を向いた顔に苦悶の表情が浮き出ている。

 その顔を見、おれは妻が死んでいると確信する。

 いつもは白く静謐な妻の顔。

 それが見るも悍ましいモノに変わっている。

 信じられないような苦痛に歪められ、そのまま固まってしまったのか。

 目を見開き、誰かを怨むように宙の一点を見つめている。

 その目は動かないが、今にもギロリとおれを睨みそうだ。

 おれは覚悟を決め、すう、と息を吸い、妻に一歩近づく。

 が、おれの冷静さは、そこで終わる。

 次の瞬間、パニックに襲われたのだ。

 すると金属が床に落ちるカチャリという音が耳に響く。

 その音がおれを更なるパニックへと導いていく。

 まさか、妻を殺した犯人が、まだこの家にいるのだろうか。

 咄嗟におれはそう思い、ぎゃあ、と叫ぶと一目散に家の外へ……。

 無我夢中で走り、近くの公園まで……。

 途中、何かに打つけたらしく左脛に痛みが走るが気にかける余裕がない。

 公園で水を飲み、少し冷静になり、考えを纏める。

 家に死体があるから、おれが警察に通報すれば、警察は家を調べるだろう。

 すると佐知からもらった青酸ナトリウムが見つかってしまう。

 小説やテレビでしか知らないが、青酸カリを盛られた人間の顔は必ず苦悶に歪められる。

 ついさっき、家のキッチンで見た妻の顔と同じではないか……。

 理由はわからないが、仮に妻が青酸系の毒物で殺されたとすると、その毒を隠し持ったおれが真っ先に犯人だと疑われる。

 佐知は毒の出所がわからないから安全と言ったが、それはおれが青酸ナトリウムをキチンと始末した場合の話だ。

 おれの貴重品箱から出てくれば、疑われるのは、まずおれ、となるだろう。

 ……とすれば、すぐに行動するしかない。

 家から逃げるとき、自分が玄関ドアや門扉を閉めたのか、それとも開けたままにしてきたのか、記憶がない。

 普通に考えれば開けたままで逃げるだろう。

 が、そうだとすれば、ご近所の誰かが不審に思うはずだ。

 急げ……。

 今、お前にできることはそれしかない。

 一目散に家に戻り、毒物を隠すのだ。

 ハアハアハアと息を切らせつつ一目散に家へと走る。

 途中、佐知に連絡しようと思いつくが、後にしようと考え直す。

 警察から自分の疑いを晴らすことが先決だ。

 今の段階で佐知を事件に巻き込むのは危険過ぎる。

 いくら着信履歴を消したところで警察が電話会社に問い合わせれば、それまでなのだ。

 そう思い、半分取り出しかけたスマートフォンを尻のポケットに押し込む。

 道の途中で何人かの人間と擦れ違うが、幸いなことに知り合いはいない。

 それを幸運と信じ、駆け続ける。

 やがて家が見えてくる。

 門扉を確認すると閉ざされている。

 だから、おれは実は冷静な人間だったのか、と瞬時惑う。

 が、そのときの記憶がないので判断できない。

 とにかく門扉を開け、白い小路へ……。

 その先の玄関ドアも締まっていたが、鍵はかかっていない。

 さっきから五分以上経っているので、さすがに妻を殺した犯人は逃げたと思うが、用心のためガレージにまわり、金槌を手に玄関まで戻る。

 ドアを開け、中に入り、キッチンに向かう。

 もちろん恐る恐る、だ。

 人の気配はない。

 そして、まさか、と思うが、目の前に死体がない。

 妻の死体がないのだ。

 シンクの近くに一本のフォークが落ちている。

 ただ、それだけ……。

 あのときの金属音の元はこれだったのか。

 狐に抓まれたような想いで辺りを見まわす。

 これまでの出来事が悪い夢で、今にも妻がキッチンに現れるのだ、と信じながら……。

 が、暫く待つが、妻は現れない。

 代わりに……。

 ルルルーン。

 固定電話のベルが鳴る。

 日頃営業をしている条件反射で電話に出る。

 ……と魔訶不思議な声が聞こえてくる。

「奥さんの死体は始末しました」

 犯罪ドラマで良く聞くヘリウムで変えた声のようだ。

 あるいは音声変換装置を用いているのかもしれない。

 男か女かもわからない。

 そんな変わった声が、おれに言う。

「しかし吃驚しましたよ。山下さまの家に忍び込みましたら、キッチンに奥様のご遺体があるじゃありませんか。それで、こちらも専門家ですからハッと気づき。山下さまの部屋を探すとあるじゃありませんか、毒物が……」

「……」

「鍵を閉められた、と山下さまはお考えのようですね。けれども、あんな鍵は子供騙しなのですよ。専門家にとっては赤子の手を捻るより簡単なのです」

「……」

「どういう方法で山下さまが奥様に毒を盛られたのか、私どもには存じかねます。けれども、まあ、それは良し、と致しましょう。さて、ここからが、お取引となります。既に山下さまにはご理解いただけましたように、山下さまが殺害されました奥様のご遺体は、私どもの方で後始末をさせていただきました。素人の山下さまの手ではご無理だろうという、私ども自らの判断です。それに、あのままご

遺体を放置しておけば、いずれ私どもが疑われる可能性もありえましょう。警察の人間の頭がそこまで良ければの話ですが……。さて、この先、事件は誘拐事件となります。奥様の身代金は三億円と致しましょうか。山下さまにお支払いしていただくことができる最適料金だと私どもは考えております」

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