第3話 愚者
日曜日。昨日と同じく掻き入れ時。
――のはずだ。客が来ない。
「えー……昨日なんかやらかしたっけ?」
SNSは怖い。何かやらかせば一瞬で広がり、繁栄も破滅もする。
でも心当たりはない。強いて言うならピエロに会ったこと。
「そんなわけねえよなあ……」
あれは目撃者のいない事件だった。あんな奴がいればそれこそ話題になるはずだ。あれだけ派手な恰好で派手なことをしていたんだから、動画が残っていてもおかしくない。しかし、そんな話は広がっていないのだ。
だから、誰にも見られていなかったと断言できる。あれは、俺だけが見たのだ。
普通に考えれば、ピエロなんて存在しなかった、というのが一番有力な仮説だ。
だってピエロだぜ? サーカス小屋以外で、ピエロがあの恰好でうろうろしないだろ。しかも夜遅くに。夜の住宅街にピエロって何だよ。
怖いよ。
だから幻覚だったんだ。実際怖かったし、高熱のときに見る恐ろしい夢みたいなものだったんだろう。
でも、なんで急にそんなものを見たんだ? 立ったまま、何の前触れもなく幻覚って見るか? そりゃよく働いたけど、幻覚見るほど疲れてなかったぞ。
タロットの中に《道化師》のカードはある。
しかも《0》、つまり最初のカードで、《愚者》とも呼ばれている。デッキによってはいかにもピエロの絵で表現されているが、たいていの場合は、《愚者》の表現だ。崖に向かって足元を見ないで進む愚かな若い旅人。それが《愚者》の典型的なカードだ。俺の白猫だってそういうふうに描かれている。
だとすれば、カードからの連想が生み出した幻覚でもないわけか……。
「なんかよく分かんねえ……。ああ暇だぁ……」
何の材料もなく考え込んでも分からない。眠くなってきたし暇だし、いっそちょっと寝るか……。
昨日のピエロの野郎が、目の前で踊っている。やけに楽しそうだ。
「おいてめえ、何のつもりだ。俺をおちょくってやがんのか」
ピエロは答えない。相変わらずニコニコしながら踊っている。
――と。奴の足元に猫がものすごく集まっている。
20匹くらいいる。しかも、みんな豪華な服を着ている。王みたいな服、女王みたいな服、戦士みたいな服――なんか見たことあるなあ。
「って、お前らじゃねえか! 何やってんだ、飼い主は俺だろ!」
カードの猫たちだ。俺の猫たち! なんで知らねえピエロに懐いてんだよ。
ピエロは踊りながら、向こうへ去っていく。猫たちはあの野郎の足にまとわりつくようについていく。
「おい待て! ピエロ、てめえ人の猫を!」
顔を上げた。夢だったんだ。
「なんだ、よかった……みんな連れていかれて――る!?」
無ぇ! カードが無ぇ! きれいさっぱり消えてる!
「嘘だろ、おい……」
どこ行ったんだ、知らないうちに逃げたのか? 猫だけに、狭いところにでも隠れたか?
この部屋にはテーブルと椅子しかない。隠れる余地なんてない。でも探した。
「おーい! みんなー!」
いや、カードなんだから呼んで出てくるわけねえだろ。
まだ寝ぼけているらしい。寝ぼけて、カードをどこに置いたか忘れたとか?
でも、カードはいつも机に置きっぱなしだ。家にも持って帰らない。
「おいおいおいおい……」
猫たちを失ったのは辛いが、今は日曜の午前中。今日は異常に暇とはいえ、カードをなくしたとかいうアホな理由で臨時休業はできない。
かくなるうえは、新しい奴を迎えるしかねえか。
「このへんにでかい本屋……」
急いでネットで探す。あった。
とりあえず急場をしのぐ必要がある。ちょっと大きめの本屋なら置いてあるのだ。ウェイトやマルセイユがつまんねえとか言ってられねえ。
部屋を飛び出す。
「ミズキさん!」
ミズキさんは、勢いよく出てきた俺に驚いて皿を落としそうになった。
「さっき部屋に入ったか?」
「いいえ」
「じゃ、誰かが入るのを見たか?」
「まさか。今日は暇で、さっきから食器棚の整理をしてたわ。お客さんは来てないわよ」
「だよな。じゃあちょっと外行ってくる、すぐ戻るから!」
早口で言って、外に出ようとした。
「ちょっと、待ちなさい! いいわ、今日こんな感じなのはね……」
引き止められたが話は後だ。今は一刻を争う。
ドアを開けると目の前に人が立っていた。
「うわっ! すいません。いらっしゃいませ。ミズキさん、よろしく!」
スーツ姿の、無表情で小柄な女性だった。失礼ではあったが、その人を避けて店を出た。
「もう……仕方ないわね。アタシの落ち度だわ」
ミズキさんが何かよく分からないことを言ったのが聞こえた。
本屋に走る。日曜日の大通りも、今日は閑散としている。
「あれっ」
閑散どころじゃない。人っ子一人いない。
これはさすがにおかしい。まさか昨日から俺は長い夢を見てるんじゃねえだろうな。
夢なら夢で早く醒めてほしい。失くし物も帳消しだ。が、醒めるきっかけが訪れるまでは目的地に走ることにしよう。
――と。角を曲がって交差点に出たところで、無意識にUターンした。
交差点の真ん中に、ありえないものがあった気がしたからだ。俺の脳は、それをちゃんと見る前に逃げることを選択した。
「逃げるな、愚か者め」
喋った。
まあそりゃ喋るか。人間に見えるもんな。
西洋の甲冑を身にまとった騎士って、中身は人間か、人間っぽいモノだろうからな。
逃げるなと言われたので立ち止ってちゃんと見ると、黒い甲冑を着た、俺より背が高くて歳も上に見える日本人の男。面長で、あごひげを少しだけ生やしている。三十代半ばくらいかな。
「何だ、あんた。本屋に急ぎの用がある奴をつかまえて『愚か者』たぁどういう了見だ。愚かだってんなら、この暑いのにそんなもん着て突っ立ってるあんたのほうがよっぽどバカじゃねえかよ」
現実だったら全速力で逃げないと殺されるタイプの不審者だが、あいにく夢だと自覚している。暴言を吐こうが、どうせなかったことになるのだ。
「ふん。武装している相手に丸腰で軽口を叩くとは、さすが道化師よ」
「……ああ?」
道化師? こいつ、まさか昨日のピエロのことを言っているのか。
「いや、これは俺の夢なんだから、知ってて当然か」
ピエロの情報は俺の記憶がもとになっている。この甲冑バカだって、俺の脳が作り出した変なキャラクターだ。
「夢か。なるほど、確かに道化とは夢のようなあやふやな場にこそ存在するものだ。だがな、ここは現実だ。私は夢の登場人物ではない」
哲学的なこと言うキャラだなあ、こいつ。ファンタジックな恰好してるくせに。
「む? しかし妙だな。道化の割に、それらしい象徴が見えないが」
俺をあのピエロと同一視してるのか。面倒くせぇ設定だな。
「あのなあ、面白い恰好で面白いこと言ってくれてるのに悪いが、もういい。飽きた。どっか行けよ」
明晰夢ってやつだ。夢と自覚して自由に行動する夢。それなら、願えば相手を消すことだってできる。
そのはずだが、甲冑バカは一向に消えない。
「分かったぞ。その身はまだ、道化師と一体ではないのだな。それなら好都合だ」
「はあ? さっきからマジで何言ってんだよ」
鎧を着てれば剣も持ってる。奴は俺に剣を構えた。
うーん、さっきから違和感しかない。冷静に物を考えることができている。夢ならこうはいかないはずだ。起きたあと考えると不条理なことも、夢の中では納得できているものだが、今回はそうじゃない。明晰夢だからかと思ったが、それなら思い通りにならないのはおかしい。
じゃあ、夢じゃないってことになる。
現実で、甲冑を着たやべえ奴に剣を向けられている。
やばい。
「やっと現状を認識できたか、愚か者よ」
「俺を殺す気なのか。頭おかしいな、あんた」
会ったこともない俺を狙って、騎士の恰好で斬りかかってくるつもりだなんて、本格的に危ない人だ。病気なんだろうな。
とりあえず後ずさりしようとした瞬間、目の前に黒い鎧があった。
「カード遣いに恨みはないが、《道化師》に動かれては困る。許せ」
あ、これは死ぬシーンだな。
諦めたら、本当に腹に剣が刺さった。刺されたとき、最初に感じるのは熱らしいがあれは嘘だ。最初に感じたのは重さと異物感だった。
そして熱。そのときには足から力が抜けて、空を見ながら頭を打った。
「起動前に討ててよかった。別の器は我々で用意する。へそを曲げずに待っていろ、道化師よ」
いたたたたた痛い痛いなんだこれ。いや、状況ははっきりしてるんだが、死ぬならもうちょっとパッと素早く死にたい。なんでいつまでも痛みを感じてなきゃいけねえんだ。この甲冑野郎も勝手に話作って進めやがって、巻き込むならストーリーの概要くらい説明しろよ。
むかつくなあ。腹から剣が生えてるってのも間抜けだし、死に方としては劇的、だいぶ面白いじゃねえか。昔から普通に死ぬのは嫌だと思ってたけど、別にこんな死に方がしたかったわけじゃねえんだよ。
ああもう、まだ死なねえのか。なんか笑えてきちゃったぞ。
体の下――いや、体の中から風が吹いてるって感じもするし。死に際ってのはこんなに妙なもんなのか。
なんか、どうでもよくなってきたなあ。
うん、今までとは全然違う気分になってきた。死ぬ間際だってのに、テンションも高くなってきた。
面白い。ダメだ、何かが壊れちゃったんだ。さっきから笑えて笑えてしかたない。
「キヒッ……ヒヒヒヒヒ」
切り替わる。頭が、体が、心が。
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