ここからの別れ
双樹
第1話
浩二は重い瞼を開いた。何か柔らかな優しい音が浩二を夢から引き戻したのだ。
例のごとく授業を抜け出して忍び込んだ図書館は教室のある棟からはかなり離れている。
それゆえに生徒の利用も少なくまばらで、授業中ということもあってか簡単に入ることができている。浩二にとってここは家も同然だ。むしろ、自分の本当の家よりよっぽど家らしい機能を持っていた。
冷暖房もあるし、無料のドリンクサーバーまである。ごくまれに入ってくる利用者をやりすごせば、全体が浩二の部屋といってもよかった。特にお気に入りは2階の閉架で、年季の入った特有のにおいを放つ古書とともに今日も早くから昼寝を決め込んでいた。
音の出所を探して耳をそばだてると、微かにピアノの音が聞こえた。すっと心にしみるはかなげな音色。まるで鳥の囁きのようだと浩二は思った。素人の浩二が聴いても分かるほどに、饒舌にさえずっている。
浩二は無意識のうちに首を傾げた。この学校は図書館だけが教室のある本棟から大陸変動で別れた小島のようになっていて、スピーカでもなければ到底音楽室の音が聞こえる場所ではない。
ーーあれはいったいどこから聞こえるのだろう。
何故だか自分が呼ばれているような気がして、誘われるがままに浩二が立ち上がると音はふっつりと途絶えた。
しばらく立ったまま耳を皿のようにして必死に出所を探すが、閉架ゆえの静寂さが邪魔をする。諦めて、横倒しになって置いてあるベッド代わりの本棚に座れば、またあの囁きが始まった。
奥だ。奥の誰もいかない古い棚がある場所。あそこは確か学校史や郷土史など分厚く、この閉架の中でもさらに古いものが置いてあったはずだ。
一棚ずつゆっくりと確かめながら、浩二は奥へ向かって歩いていく。
一つ目、新版が出て不要になった文豪たちの全集。違う。
二つ目、縮刷版の地方新聞。やはりここでもない。
三つ目、ばらばらのジャンルのハウツー本の山。やっぱり、違う。
四つ目より先にはほとんど空になった棚が並んでいる。ほとんど小走りに奥へ、奥へ。
そして八つ目、行き止まり。学校史・郷土史。ここだ。
ピアノの演奏は次第に勢いを増していく。聴く者を誘う調べはまるで、ハーメルンの笛吹きだ。いや、ピアノ弾きか。
笛の音に誘われて連れ去られる子供達は熱に浮かされてきっと、二度と帰って来ない。
ーー僕も、連れ去ってくれないだろうか。
浩二は夢想する。
ーー『家』は窮屈で、退屈だ。僕も連れて行ってくれ。
きょろきょろと見回せば、浩二が生まれるずっと前の年代の古めかしい表紙の本が、誰に開かれることなく窮屈に並んでいた。
音の出所はここで間違いない。やはりこの近くにピアノがあるのだ。もっとよく聞こうと浩二が身体を押し当てると、ギシギシと音を立て棚がゆっくりと動き出した。
慌ててぱっと離れる。流れるようにすっと、部屋の端まで移動した棚はそこが定位置であるかのようにすっぽりと収まり動かなくなった。
後に残ったのは、古めかしい造りの大きな扉。歴史の授業で見たことがあるようなアンティーク調の透かしガラスが入った翠のそれは、陰に隠れていたはずなのに色彩を失った閉架の中でまぶしいほど輝いて見えた。
透かしガラスの向こうはよく見えないが、どうやら屋外へ続いているらしく、温かな光が漏れ出でて閉架を照らしている。あまりの眩さに目がしぱしぱとした。
ーーまるで物語に出てくる天国への扉みたいだ。ここではないどこかへと続いているけれど、もう二度と来た道は戻れない、選択を迫る扉。
思わず、浩二は振り向いて見慣れた閉架を見回した。
学校生活において浩二がその一日の大半を過ごす部屋。浩二にとってここの書籍群は、教師であり、親であり、かけがえの無い友であり、恋人も同然だった。
彼らと会えなくなるのは、辛い。
『家』に行ったところで母親面をした他人がいるだけで、あそこはただ生活するための場所だ。浩二にしてみれば帰る場所はここだ。
深呼吸を一つ。目を閉じて、彼ら一人一人に無言の別れを告げていく。
ーー今までありがとう、みんな。行ってくるよ。
ゆっくりと扉に向き合い、扉に手をかけた。
「いらっしゃい、あなたのことを待っていたわ」
見渡す限りの草原が広がっていた。その中心にピアノが一つ。
座っていた彼女がにっこりとほほ笑んだ。
ここからの別れ 双樹 @strike_realworld
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