第4話

 アルはゆっくりと扉を開けた。

 魔王城で唯一バルコニーを持つ、最上階の部屋。ローラが言ったように、ルナはバルコニーに立っていた。

 沈んでいく太陽に照らされながら、赤く染まった空を、ルナは黙って眺めている。

「見つけたぞ、ルナ……やっぱりここにいたのか」

 アルはルナに声をかける。ルナは振り返ることなく、言葉を返す。

「やっぱり? どうしてここだとわかった?」

「ローラが教えてくれた。お前は、ここが――お気に入りだって」

 アルの答えを聞き、ルナはようやくアルのほうを向く。

「ここは、魔王様の――ゼクス様のお気に入りだった部屋だ。だから、私もここが好きだ。あの方は……私の憧れだったから」

 ルナは手すりに寄りかかりながら、少し俯いて呟く。その顔は微笑みを浮かべているが、どこか寂しそうにも見える。

 アルが声をかけようと口を開く……が、ルナはそれよりも一瞬だけ早く言葉を続けた。

「なぁ、正直に答えてくれないか……お前は私をまだ――信じているか?」

 ルナからの唐突な質問に、アルは一瞬言葉に詰まる。しかし、一度だけ息を飲んだ後、ハッキリと言った。

「ああ、俺はルナを信じる。この体になってから、お前を頼りにしてきたんだ。むしろ、お前のほうこそ……」

 そこで、アルの言葉は遮られた。近づいてきたルナが、彼の唇に人差し指を当てる。

 ルナは静かに微笑みながら、アルに対して一つの願いを告げる。

「それなら――私の手を取って、お願い」

 ルナは、ただ穏やかに言う。

 アルがルナの手を握ると、二人はバルコニーへと踏み出した。


「なんか、恥ずかしいな……コレ」

 ルナはアルの体を抱きしめている。

 魔王城のバルコニーから、数メートルほど上空。アルはその体勢に対する苦情を口にした。

「なんだ――嫌なら戻るぞ?」

「そういうわけじゃなくて」

 ――体が密着して、む、胸が……。

 アルはルナの体が自分に引っ付く感覚に、照れてしまう。

 シルフィほどではないが、彼女の胸もなかなかに発育が良く……その弾力はアルに、男性としての欲求を湧き立たせる。

「まあ、いいや――もう」

 頭に浮かんだ様々な欲が浮かぶが、投げ捨てるような一言で掻き消すアル。その様子に、ルナは少し不思議そうな表情を浮かべた。

 アルがルナの手を取った後、彼女は自分の翼を大きく広げた。アルを抱え、バルコニーからゆっくりと空へと上がっていく。最初は驚いたアルだが、ルナから付き合うように頼まれ、少しずつ空へと昇っていく。

「なあ、ルナ。これって一体」

「私はお前に、魔王様の話をしたことがあったかな?」

 ルナからの唐突な質問。アルは率直に答える。

「ほとんどないな……でも、何となくわかったこともある。魔族は皆、魔王って男を頼りにしてたって。ローラもシルフィもガッデスも……それにルナ、お前もな。大勢から尊敬を集めるのは、簡単なことじゃない……立派な奴だったんだな」

 初めは明るく話していたアルだが、次第に声が小さくなった。それでも、静かに言葉を続ける。

「そんな奴を、俺はみんなから奪った……お前が、俺のことを恨むのも当然だ。むしろ、ここまでずっと、力を貸してくれたってのがおかしなくらいだ。だから……ルナに殺されるなら文句ないよ」

 アルはずっと胸に秘めていた言葉を口にした。

 だが、ルナはその言葉に反応せず、黙ったままである。その間も、二人の体はゆっくりと上昇を続ける。

 城が小さな豆粒ほどに見えるようなった。

 そこでようやく、ルナは口を開く。

「お前は勘違いをしているよ――魔王様がいなくなったのはお前のせいじゃない。全部……私の責任なのだ」

 アルは思い出す。自分を城へとおびき寄せるため、他の魔族が退避していたこと。それが、ルナの発案だったということを。

「俺を城に引き入れたことを言ってるのか? あれは俺を倒す作戦だって……」

「違う!!」

 ルナが叫ぶ。その声に驚くアルだが、ルナはさらに続けた。

「私はお前を倒すために作戦を立てたわけじゃない。私は……お前に――勇者に魔王様を殺してほしかったのだ!」

 その言葉に、アルは目を丸くした。

 ルナが魔王の死を望んだ――その理由がまったく思い浮かばないからだ。彼女が魔王を敬愛していたことは、傍にいる間、ひしひしと伝わっていた。だから、ルナの告白にアルは戸惑いの色を隠せない。

 すると今度は、ルナは空から見える景色を指差した。

「見てみろ。世界はこんなに広い。大地は巨大で、海は果てしなく続く――でも、魔王様はあの小さな城から出なかった……いや、出られなかった。自分の背負う立場、皆から寄せられる期待――魔王様はとても賢い方だったから……そんな日々がこれからも続くとわかってたのだ。わかってて、でも逃げ出すことなんてできなくて……」

 ルナはそう言いながら、アルの体を力強く抱きしめる。

 アルは、自分の胸に顔をうずめる彼女が、小さく震えていることに気づいた。

「ルナ……お前、泣いて……」

「でも、私にはあの方を救う方法がわからなかった。誰も本当のあの方を知らない――逃げましょうと言った時も、きっと罪の意識が追いかけてくるだろうって……だから、もう終わらせてあげることしかできないって……」

 ルナが急に取り乱した様子を見て、アルは驚きを隠せない。

「落ち着け……ルナ、落ち着けって!」

「憧れていたのに……力になりたかったのに! 私がしたのは、あの方を消してしまっただけだった。散々お前に偉そうなことを言っておいて、何もできない無力な女でしかなかったのだ、私は!!」

 ルナの言葉が終わると同時に、アルは彼女の体を抱きしめる。

「バカ言うなよ。お前のおかげで、俺はまだこうして生きてるんだ。お前がいなきゃ、俺はとっくに死んでるんだぞ! それに、お前はずっと、俺を支えてくれたじゃないか」

 アルは言葉を続ける間も、ルナのことをずっと抱きしめていた。

 だが、ルナはそっと、アルの胸から頭を離す。二人はすでに、雲のよりも高いところまで来ていた。

「違うな、それも。あのとき――お前が魔王様と入れ替わったと知った時、私はホッとしたんだ。あの方の悲しみに、もう触れずに済むって……お前を助けたのはきっと、自分の罪から逃げたかったからだ」

 ルナは俯きながら、呟いた。

 そして、今度はアルの顔を見つめる。その表情は、彼女の背後から指す夕日で、アルには確認できない。

「お前に頼られることで、まるで魔王様に求められているように感じて……きっと慰められていたんだろうな、私は」

 日は沈みきり、反対側から昇った月の明かりが二人を照らす中、ルナの表情がアルにもハッキリと見えるようになる。彼女の顔には微笑みが浮かんでいた――が、目元からは一筋の滴がつたう。

「でもな、魔王様がいなくなった日に、私はもう……きっと、死んでいたんだ」

 ルナの言葉を聞いた瞬間、アルは自分の体に違和感を覚える。内臓が上に持ち上げられるような……奇妙な感覚。

 ルナの翼はいつの間にか消えていた。魔力を使い尽くし、二人はそのまま下に落ちていく。想定外の状況に、アルはルナから手を放してしまった。

「ルナ……ルナァァ!」

 アルは落ちながらも、もがくようにルナに手を伸ばそうとする。ルナは力なく、そのまま重力に身を任せて落下し続けた。

「済まないな、お前を巻き込んで……だが、大丈夫だ。父上の魔甲を使え。あれならきっと耐えられるから」

 ルナの言葉は、落下の勢いでけたたましく耳を突く轟音の中でも、なぜかアルにはハッキリと聞こえていた。

「お前……お前は、ここまで来て何言ってんだ! 自分が死ぬって時まで、他人の――俺の命を心配してる場合じゃないだろうが!」

 アルは何とかして、ルナの腕を掴む。だが、彼女は変わらず、重力に身を任せたままだ。

 ルナは目を瞑りながら、アルに言った。

「お前だって、私のバカな考えに巻き込まれた人間だからな。そうだ、ローラとシルフィにも、すまなかったと伝えて……」

「ふざけんな!!!」

 アルはルナの手を引き、体を引き寄せた。両肩を持たれ、ルナはようやくアルの顔を見る。しっかりと視線を合わせて、アルは声を上げる。

「何でお前は……いつも――いつも!魔族のためだとか、魔王のためだとか……何で自分のことを言わないんだ? お前はどうしたいんだよ……お前は何が欲しいんだよ!」

 アルの言葉に、ルナは困惑した様子を見せる。彼女は何とか口を開くが、何も言えない。

 アルはさらに強い口調で言う。

「魔王になれって言ったのはお前だ! 俺が、魔王になるって約束したのはお前なんだよ。必要なんじゃないのか? 魔王って存在が……お前に俺は、必要じゃないのか?」

 アルの問いかけに、ルナの目に再び涙が浮かんでいく。それでも、ルナは首を横に振りながら言う。

「ダメだ。魔王様を死なせた……みんなから魔王様を奪った私が、そんな風に考えちゃ……」

「違う! 他の奴は関係ない! お前が必要だっていうなら、俺は魔王にだってなってやる! だから答えろ! お前に――必要なのか、俺は!!」

 アルの言葉に、ルナは我慢していた涙を思いきり流し始める。

 まるで子どもが泣きじゃくるように、ルナは叫ぶ。

「苦しいの――ずっと胸に穴が開いたみたいで……お願い、助けて! 私のそばにいてよ! もう、私を一人にしないでよ!!」

「ああ、ずっとそばにいる。俺が、お前の望む魔王になってみせる。だから……」

 アルが言葉を終える前に、ルナは彼の唇に、自分の唇を重ねた。

 すると、消えていたはずのルナの翼が元に戻る……いや、正確には普段の数倍大きな形に広がった。

 二人の体は急速に速度を落とす。そして、ゆっくりと、城のバルコニーへと着地した。

 アルは、何が起きたのかわからず、驚いてしまう。

「これは……お前、魔力を使いきったんじゃ」

「魔族にとって、口づけは特別な意味を持つ。それはお互いの魔力を共有すること。お前の……魔王様の魔力で、私の翼を作り直した」

 ガクンッ

 ルナは膝から崩れ落ちた。アルはすぐに腰へと手をかけ、彼女の体を支える。

 ちょうどそこに、シルフィとローラが部屋に入ってきた。ぐったりとするルナを見て、ローラが駆け寄ってくる。

「ルナ様! ルナ様、大丈夫でござりまするか?」

 ルナはローラのほうを向き、わずかに微笑んで見せる。ローラは彼女の表情を見て、ほっと息を吐いた。

 ルナはもう一度アルのほうへ向き、言葉を続ける。

「ただ、魔王様の魔力は桁違いに大きい、から……急に取り入れたせいで、疲れ、が……」

 ルナはそのまま眠りに落ちてしまう。すやすやと眠るルナの顔を見て、アルは胸を撫で下ろす。

 ルナの寝顔を確認して、シルフィが尋ねる。

「もう、大丈夫でございますか?」

「ああ、もう大丈夫だ。ルナは、戻ってきたよ」

 その言葉に、ローラは笑みを浮かべた。シルフィはルナの鼻をつまんで言う。

「起きたら、三人でお説教ですわね」

 空に浮かぶ月は、四人の姿をハッキリと照らし、柔らかな光を称えていた。


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