第5話
夕食を済ませた後、アルは城のバルコニーから城下を眺めていた。人間の街と変わらない、小さな灯りがポツポツと浮かぶ景色。それが自分の壊そうとしていたものだと思うと、少し胸にチクチクとした痛みが走る。
「魔王ってのは、わざわざ自分が戦うのを選んだのか?」
「少なくとも、私たちの提案を断りはしなかった」
後ろから近づくルナに気づき、アルは問いかけ、彼女はそれに静かに応えた。
「俺の知ってる王様っていうのは、どいつも自分じゃ何もしない奴だった。そのクセ、偉そうに勇者の役目が、責任がってうるさいんだよ……それに比べりゃ、魔王ってのはスゲェ奴だったのかもな」
そういう存在を自分は奪ってしまった……それがアルの役目だったとはいえ、彼は心の中に重たいものを感じてしまう。
「魔王様が一騎打ちに臨んだのは……そういうことではないと思う。あの方はきっと、ただ寂しくて、退屈だっただけ」
「お前、もしかして魔王のことが好きだったのか?」
「な、ななな……何を言うんだ急に!」
慌てた様子を見せるルナ。アルはそれを見て、ニヤリと笑う。
「主君に恋するなんてのは、おとぎ話にだっていくらでもある。まして、右腕としてずっと一緒にいたんだろ? 恋愛感情の一つや二つ……」
ヒュゥゥゥ! バキキィィーーーン!!!
ルナの翼剣が、アルの寄りかかっていた手すりに突き刺さる。顔を真っ赤にして、アルに詰め寄るルナの目は、恥ずかしさと怒りに満ちていた。
「貴様! 言っていいことと悪いことがあるぞ……いい加減にしろ!」
「いやいや、そこまで怒ることじゃないだろ! たかだか色恋沙汰……」
「うるさい、ウルサイうるさーーい!!」
バルコニーで騒ぐ二人の姿を、遠目から見つめる影があった。
『待ってくださいませ、魔王様ぁ。私、一人でいるのは寂しいんですぅ』
『ははは! なら、俺を捕まえてみろ。そしたら、力いっぱい抱きしめてやるぞ』
アルとルナは楽しそうに追いかけっこをしている。まるで愛し合う男女のように……というのは、全てシルフィの妄想だ。遠くからバルコニーの様子を眺めるシルフィには、二人のやりとりが恋人同士の語らいに映っていた。
「なんですの……何なんですの、あれは……!」
「どうしたのでござりまするか? シルファルファ様」
そこにちょうどローラが通りかかった。魔王の寝室を整えにいくところだ。ローラの声で我に変えるシルフィだが、同時に一つのアイデアが浮かんだ。
「侍女の娘。ワタクシに力を貸しなさい」
「え? あの……え?」
シルフィの目の色が完全に変わっているのに気づき、ローラはただ頼みを聞き入れることしかできなかった。
「はぁ~……なぁ、そいつも同じものなのか?」
「はぁはぁ……何のことだ?」
追いかけっこで疲れてしまった二人。息を整えながら、アルはルナの翼を指差してもう一度質問する。
「だから、お前の腰から生えてるヤツも、魔力でできてるのか?」
「ああ、これか」
ルナは自分の翼をもう一度開き、そして鋭く伸ばして見せる。その輝きは深紅――血のような赤を湛え、恐ろしいほどに美しい。そして鋭利でもある。
「もちろんこれも、魔力で作った〈魔甲〉の一種だ。普段から常に生成を続けている。おかげで、どんな状況にも一瞬で対応できる」
ルナは伸ばした翼剣を、アルのほうに瞬間的に伸ばす。剣先は、アルの鼻先数センチで止まる。
「なかなか便利そうだな。どうしてローラは同じように、魔甲を出したままにしないんだ?」
「魔甲の生成は、それだけで魔力を消費し続ける。だから、効率が悪い上に威力が落ちる。私の場合は、暗殺を警戒してこの形にしているだけだからな」
ルナは、突き出していた翼を、再び元の形に戻す。すると彼女は、アルに背を向け立ち去ろうとした。
「他人のことに関心を持つくらいなら、自分に必要なことをしろ。魔力の扱いもままならないお前には、人に意見を言う権利なんてない」
そのまま、ルナは扉も閉めずに部屋を出ていってしまった。
「全く、アイツはいっつも一言多いんだよ……」
ルナの背中を見ながら呟いたアルは、バルコニーからの夜景に目を戻した。
虫も寝静まる真夜中。ベッドで眠るアルは奇妙な音を聞く。「カサッカサッ」と、何かが這いずる音。
――?? 一体なんだ? もしかして、ゆ、ゆゆ幽霊か??
目を覚ましたアルは、シーツを吹き飛ばしながら状態を起こす。その目に映るのはベッドの下から出てくる黒い影。立ち上がった影は、そのままアルに覆いかぶさり……。
「うわぁぁぁぁぁあ!」
悲鳴を上げるアル。慌ててベッドから飛び降りた。
だが、よく確認すれば、それは見知った女性――シルフィであった。
「このような方法で参上したこと、陳謝いたします。けれど、ワタクシはもう、まおう様と離れているのは耐えられないのでございます」
謝るシルフィだったが、アルはひたすら目のやり場を探すばかりだった。真っ白なシルクのネグリジェは、肌が透けて見えてしまうほどに、薄い。
「な、なんでベッドの下なんかに……ていうか、なんでここにいる!」
実はアル、最初の夜以来、傷を理由にシルフィを寝室に入れなかったのだ。
「決まっていますわ! まおう様の、ゼクス様の隣に侍ることこそ、ワタクシのお役目でございます。さあ、今晩こそ久方ぶりの熱い夜といたしましょう」
ベッドの上に乗り、ゆっくりとアルに近づくシルフィ。アルは後ずさるが、それよりも早く彼女が距離を詰める。
「恥ずかしがらないでくださいませ。ワタクシたちは、すでに何度も結ばれているではありませんか。あなた様が覚えていなくとも、ワタクシの体は全てを記憶しております。安心して身を任せてくださいませ」
体をグッと押しつけてくるシルフィ。その豊満な胸がアルの体に密着する。張りと弾力を備えた完璧な感触は、たとえ布越しであってもハッキリとわかる。アルは顔を真っ赤に染め、ただ慌てることしかできない。
「以前はワタクシをひたすらに求めてくださいました。何もかも、めちゃくちゃになってしまうほど。あなたに愛されてこそ、この身に価値が生まれる……さあ、どうかワタクシを心ゆくまで愛してくださいませ」
両腕に体重をかけられ、アルはもう抵抗できない。以前の体ならいざ知らず、魔王の肉体では、シルフィの細い腕さえ振りほどけないのだ。その時、アルは自分の中にある妄想が一気に頭を駆け巡るのを感じた。
シルフィは間違いなく、女性として一級の魅力を持っている。白く透き通るような肌。痩せすぎず、太りすぎない、肉付きのいい体。そして何より、今アルの身体に押しつけられている、柔らかな胸の感触だ。こんなに素敵な女性と、熱い夜を過ごせたなら……アルは何とか理性を保とうとする。
「いや、ちょ……ちょっと待って」
「待ちません。いいえ、ワタクシはもう、十分すぎるほど待ちましたわ。もう言葉なんて必要ない……お互いのぬくもりを感じ合いましょう!」
アルの話など、シルフィは全く聞く気がない。今度は胸だけでなく、彼女は自分の足を、アルの足に絡めてくる。
どこをとっても柔らかく、温かい体。アルはもう、冷静に何かを考えることなどできなくなった。そしてついに、シルフィの唇がゆっくりと迫ってくる。目を瞑り、覚悟を決めるアル。しかし……。
「ダメだ!」
アルは叫んだ。顔を右へと向け、彼女の口づけを拒んだのだ。その言葉と態度に、シルフィは目を丸くする。次の瞬間には、眉をひそめ、最後には涙を浮かべてしまう。
「ワタクシ……何か悪いことをいたしましたか? まおう様に……ヒック……嫌われるようなこと……したので、しょうか。うわああああぁぁぁぁぁん!!」
シルフィはついに、自分の中に溜め込んでいた感情を全て外に出す。大怪我をした魔王を心配し、やっと回復したと思えば記憶がない。その上ずっと避けられていた。強硬手段を使ってまで結ばれようとしたのに、それを目の前で断られてしまったのだ。あとは泣くしかない。
「嫌いなら、そう……グシュッ、そう仰ってくださいませ。ヒック……ワタクシ、まおう様の前から、ウグッ、消えて、じまいまずから……」
「そういうわけじゃないけど……」
頭を掻きながら、困った顔を浮かべるアル。
「では、どうして抱いてくださらないのですか! ワタクシに至らぬ点があるから、避けているのではないのですか!!」
シルフィは、アルに近づき、力なく何度も彼の身体をポコポコと叩く。
――この人は、本当に魔王が好きだったんだな……。
アルはシルフィの態度を見て、今の体の――本来の持ち主が少しだけ羨ましく感じた。だからこそ、彼はより鮮明に状況に流されるべきではないと思う。
「何度も言うけど、俺は君のことを憶えてないんだよ」
アルの言葉に対し、シルフィは全く納得のいかない様子だ。頬を膨らませ、まるで駄々をこねる子どものような表情を浮かべる。
「ワタクシ、それでも一向に構いません。まおう様がワタクシをどう思っていらっしゃったとしても、二人が結ばれるなら、それで……」
顔を近づけようとするシルフィを、アルは両手で引き離す。彼女は目に涙を浮かべるが、今度は泣き出すより先に、アルが口を開く。
「愛して、愛されて……だから男と女っていうのは結ばれるんだ。気持ちがなくていいなんて――嘘だ。それじゃあ、君は幸せになれないじゃないか!」
「そんなことはございません。ワタクシはあなた様のものにしていただけるだけで、幸せなのでございます」
それからしばらく、二人はお互いの主張を続けた。しかし、それぞれの気持ちは平行線を辿り、結局どちらも納得できない。
「ワタクシにとって、あなた様のものであること。それが幸せなのでございます。ですから、まおう様は何も心配なさらないで」
そう言って、シルフィはアルの頬に両手を添えた。そして、もう一度、唇を重ねるために顔を近づけていく。
「だから、ダメ……」
ゴチンッ!
アルが制止の言葉を発しようと頭を上げたところ、顔を近づけていたシルフィの頭に、思いきりぶつかってしまう。
「「痛ったたた……」」
二人は自分の頭を押さえて、痛みをこらえる。
「だ、大丈夫だったか? ごめん!」
アルはシルフィに謝ると、すぐに相手の額を見た。右手で彼女の前髪を上げ、月明かりしかない薄暗さから、目を凝らして確認する。
「と、とりあえず、傷にはなってないな。よかった……」
アルがほっとした表情を浮かべるのを見て、シルフィはキョトンとする。
「どうして……? ワタクシは、あなた様のものなのに……」
シルフィは、何かを呟こうとするが、すぐに言葉を飲み込んだ。その呟きは、アルの耳にも微かに届くが、シルフィは黙り込む。それから少しして、シルフィは何かを決心したような真っ直ぐな目でアルを見る。
「ではせめて、あなた様の隣で眠らせてくださいませ。離れて夜を過ごすのは、あまりにも寂しゅうございます」
「まあ……それくらいなら」
この夜はシルフィが折れる形で、二人は同じベッドでただ眠るだけになった。
「もう一度だけお聞きしますが、別にワタクシを嫌っていないのですね?」
「嫌いじゃあないよ。嫌っては……いない」
むしろ、魔王の体になっていなければ、アルはシルフィの誘いを断れなっただろう。童貞男子に、美女からのお誘いを断る力など――あるわけがない。
「ゼクス様。よろしければ、ギュッと、抱きしめていただけないでしょうか?」
「え? ああ、はい……」
アルの腕の中、シルフィは感じていた。ただこうして、愛する男性の隣にいるのが、驚くほど心地よいという事実を
――あ、これはなんか……すごくイイかも。
そして、アルもまた実感していた。女性の体が、とても甘い香りがするものだということを。
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