第3話 鑑取り
児玉と丸山は捜査車両(覆面パトカー)を駆って東京の世田谷区砧にある水谷の自宅に向かった。伊東から国道135号線で小田原へ行き、そこから小田原厚木道路に乗って厚木を目指し、厚木で東名高速に入るルートをとった。砧は東名高速の東京料金所を過ぎて最初のインターである首都高・用賀インターチェンジのすぐ近くである。
児玉らの車が伊東を出て海沿いの国道135号線を北上する。右手に海を見ながら、景色は事件の陰惨さとは裏腹に心地よく流れていく。2月の海は鮮やかなマリンブルーの色彩を放ち、海沿いを走る二人の目を楽しませる。児玉はこの2月の抜けるような海の青さがたまらなく好きだった-。
東京都世田谷区砧××・水谷邸
児玉らの車は砧の水谷邸に到着した。水谷の妻、香は静岡県内にある総合病院で夫の遺体と対面した後、しばらく茫然自失の状態となっていたが親族が付き添いやっとのことで砧の自宅に戻っていた。
香は事件のことに触れるのはだいぶ痛々しい感じがするまでの憔悴ぶりだったが、自分の夫を殺した犯人を早く捕まえてほしいという思いからであろう事情聴取には協力的だった。そこで目にしたのは最愛の夫の突然の死という現実を突きつけられ翻弄され落胆しきった妻の姿だった-。
「この度はご愁傷様です」と児玉が声をかけ、「亡くられたご主人についていくつかお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?」と続けた。
それに対し香は「はい」と小声で答え、コクッと小さく首を動かしてうなずいた。
「最近ご主人に変わったご様子はありませんでしたか?」
「いえ、特には…」と香はか細い声で答える。
「その日、ご主人は何と言って家を出られたのでしょうか?」
「普通に『仕事に行く』と言って、『ただ、今日は遅くなる。もしかしたらどこかで泊まって次の日そのまま出勤するかもしれない。だからおまえもお友達の美鈴さんとどこかで羽を伸ばしてきたらいい』と言っていました」
「ほう、お友達がいらしてたんですか?」
「ええ、京都から」
「で、そのお友達とはその日ずっとご一緒で?」
「はい。その前日から来ていて当日も一緒でした」
「そうですか」と児玉は言い、少しだけ微笑んだ。
「それで、ご主人は何をするとか誰に会うとかとは言っていませんでしたか?」
「いいえ、何も…。主人の場合、こういった仕事のある時に泊まるということは珍しくありませんでしたし、普段も主人は仕事のことはあまり言わない人でしたからこちらからも特に尋ねることはしませんでした」
「そうですか、しかしとにかくその日はまっすぐ家に帰る日ではなかったのですね?」
「え、ええ、そ、そうですね」と香は少し戸惑いながら答えた。
「その日のことをもう少し詳しくお聞かせください。それは、どのような表情で、深刻そうだったとか、うれしそうだったとか…」
「まあ、主人は普段というか…、自分の会社を潰してからはあまり感情が表に現れなくなってしまっていたのでその日も普段と変わらずほとんど無表情、まあ普通にという感じでした」
「普段と変わらずですか…。それではその日ご主人が遅くなるかもしれないというのもビジネスでという認識を持たれていたんですね?」
「私がですか?」
「はい」
「ええ、そうですね」
「当日、出勤後は何かご主人から連絡はありましたか?」
「いいえ、ありません。私もその友人と外に出ていたものですし、主人もそのことは知っていましたので連絡は家にもなかったと思います。もっとも家にいるときでもたいていは私の携帯にかかってきますが」
「そうですか…。最近ご主人はどういったことをされていましたか?」
「仕事のほうですか?」
「ええ、まあ仕事に限らず何でも…」
「仕事は私の実家である小林園の仕事をしていました。以前は会社を経営してましたでしょ。ですから経理関係を振り出しにやらせてもらって今は東京支店長を任されていました。あ、あと、そういえば、最近は海外にも本格的に進出すればいいのになんてことも言ってましたっけ。日本も少子高齢化で市場が先細りだから、ここは海外に打って出るべきだということで」
「ほう、海外に、で、具体的には?」
「詳しくは存じませんが…、ヨーロッパ、アメリカ方面を考えていたようです。日本茶の市場としては比較的新規のところでしたから。ただ、本当に言っているだけで兄には話していなかったと思いますよ」
「お兄さん?」
「ええ、小林園社長の小林玄太郎です。私、仕事のことはよく分からないのですが、主人も仕事に慣れてきて、仕事の幅を広げたいと思っていたんじゃないでしょうか。まあ誰でも思うことなんでしょうけれど…」
「ええ…。あっ、いえ。あ、あと、他に何かご主人が会社や仕事のことで言っていたことはありませんでしたか?」
「特には何も…」と香は言いかけて、
「ただ、何と言うんでしょう、最近は東京支店そのものが何か大きな仕事をしたいというかそんな雰囲気があったように感じました。活気があったというか…。お蔭様で小林園のお茶もご好評を頂いているのでここ数年売り上げがいいものですから。会社を潰して気落ちしていた主人にはいい職場にめぐり逢えてよかったなって私も喜んでいたんです」と続けた。
「そうですか。でも活気づいていたのは東京支店だけではなく会社全体ではなかったのですか?」
「そうだとは思うのですが…、小林園もあとは実質的に京都だけなのですが、お恥ずかしい話、東京にずっといる私には京都のことはよく分からないのです。ただどうしても東京というか関東・首都圏の方が市場が大きいものですからこちらが活気づくのはやや当然という気もいたします」
「なるほど-」
「で、時々主人の部下がうちで食事をする時なんかは若い人達がもっとこういう仕事がしたいとか結構熱っぽく話していまして、私もそういう勢いのある話は嫌いじゃないものですから、ついつい話に参加してしまって、今度兄に言っておきますなんて冗談半分で言ったりして。ただ兄とはしばらく会っていないのでよく分からないのですが…、まああっちもいろいろ考えているとは思いますけどね…」と香の声は尻すぼみに小さくなっていく。
「販路の拡大とかをですか?」
「え、ええ…」と香は自信なさげに小さな声で答える。香は兄の実情を知らないのだ。暫しの間室内に沈黙が漂う。
「それと-、失礼ですが、ご主人に保険金はかけてありましたか?」と今度は丸山がその沈黙を破り若干唐突気味に少し硬い表情で質問した。事件の核心を突いたとも言える質問だが香の表情はみるみる険しくなっていき、
「いやだ、保険金殺人を疑っているんですか?。私は被害者の妻ですよ!!」と香はそれまでの表情を一変させ怒気を顕にして叫んだ。
「すみません。あくまで念のためです」と今度は児玉が慌てて言葉を繕う。
香は明らかに怒った表情で
「保険は掛けてありました。受取額は1億円。結婚した時に入りました。主人が経営していた会社は13年前に潰れましたけど、今は暮らし向きも安定していて少なくともお金に困るようなことはありません!。小林園もお蔭様で皆様がよくお茶を飲んでくださるので経営も安定しております!!」
「分かりました。失礼いたしました‼︎」と言ってとりあえず丸山は陳謝した。
「それから、これは関係者の方全員にお伺いしているのですが、2月5日の夜から6日にかけて、香さんはどちらにいらっしゃいましたか?」と気を取り直して丸山は尋ねた。
「私はその日主人が仕事で遅くなるというものですから、たまにはと思って歌舞伎座に歌舞伎を見に行きました」
「それは先程おっしゃっていた京都のお友達と?」
「ええ、そうです」
「それはどういった方でしょうか?」
「私の高校時代からの友人です。2月は京都もオフシーズンなものですから休みも取りやすいんです。毎年この時期に東京で羽を伸ばしたいという友達がたいてい一人か二人はやって来ます」
「そうですか。それでそのお友達のお名前は?」
「
「その方は、今は…?」
「この事件で昨日まで主人の遺体がある静岡の病院に一緒についてきてくれていたのですが、やはり家の仕事が心配だからということで京都に戻りました」
「安藤さんのお仕事は何を?」
「安藤さんのご主人と一緒に清水寺の前の通りでおみやげ屋さんを営んでおります」
「清水焼ですか?」
「ええ、主にはそうです」
「すみませんが…、一応、確認を取らせて頂きたいので安藤さんの連絡先をお教え願いないでしょうか」と丸山が香に願い出る。
「ええ、構いませんよ。ただ、あちらに失礼のないようにお願いしますね」と香は先程のこともあり少し険しい表情で言った。
安藤美鈴は香の高校時代のクラスメイトで、住所は京都市東山区××。丸山が手帳に名前と連絡先を書きとめ、その場で香に了承をもらって携帯から電話する。安藤美鈴は「確かにその日、香と一緒に歌舞伎座に行った」と証言した-。
「それと申し訳ありませんが何かその時のチケットとかパンフレットとかそこへ行ったという証拠の品を見せていただけるとありがたいのですが…」と丸山が今度はかなり低頭気味に願い出る。
「はい、はいございますよ」と言って香は面倒くさそうに立ち上がり、ハンドバックからチケットの半券と本棚からパンフレットを持ってきて丸山に手渡した。
丸山はその『ブツ』を確認し、パンフレットはその場で返し、半券は香の了承を得て預かった-。
「あと報道でご存知かとは思いますが、ご主人の遺体と寄り添うように女性の遺体があったのですが何か心当たりはありませんか?」と児玉が尋ねた。
「全く思い当たりませんわ」と香は素っ気なく答える。そこへ
「失礼ですが、ご主人に浮気とかは?」と丸山が割って入った。
次の瞬間、香はみるみる顔を紅潮させ「あるわけないでしょ!」と思わず大声で叫び、激しい怒りの表情を見せた。
「そうですか、すみません」と丸山は失礼な質問を素直に詫びる。
「あと、少し前のことになりますが、ご主人が経営なさっていたアパレル企業のダイヤスタイルについて、あの…率直にお訊きしますが、この会社で何かご主人が恨まれるようなことはありませんでしたか?」と今度は児玉が尋ねた。
「すみません…、情けない話、主人の仕事のことは今でもそうなんですがあまりよく知らなくて…、ただ、主人は若い頃から大変な人気者で人から恨みを買うようなキャラではないというか、とにかくそういう性格ではありませんでした。会社が潰れる前も多少のリストラはしたようですが社員のために最後まで奔走していましたし…、恨みを買うなんて…そんなことは絶対になかったと思います」
「そうですか、分かりました…。それでも、ダイヤスタイルの社員の方でなくても会社倒産によって被害を被った取引先などの利害関係者から恨みを買った可能性もあります。それで、当時の取引先一覧などの資料があればこちらにご提供頂きたいのですが」
「ええ…、はい、それは多分あると思います。ちょっと主人の書斎を見てまいります」と言って香は2階に上がっていった。数分後、2階から降りてきた香は手に何枚かの紙の束を持っていた。
「あの、原本はお渡しできないのですが、こちらのコピーでよろしければ」と香は言ってその紙の束を児玉に差し出す。
「ええ、結構です。ありがとうございます」と児玉は礼を言って受け取り、
「あと、お兄さんの玄太郎さんも東京に来ていると伺ったのですが」と話題を変えた。
「ええ、来ておりますが…、マスコミや野次馬を避けたいと言うので都内のホテルに泊っておりますが…。あの、兄からも何か事情を訊くんですか?」
「今回の事件は小林園の仕事絡みで発生した可能性もあります。ご主人がどのような仕事をなさっていたのか正確なところを把握いたしませんと捜査は進展しません」
「そうですか分かりました。兄の玄太郎は紀尾井町のホテルニューオータニにおります」
「分かりました。いろいろありがとうございました。失礼があった点はお詫びいたします。また何かお聞きすることがあるかと思いますのでその時はどうかよろしくお願いいたします」と言って児玉は頭を下げた。丸山もそれに続いて頭を下げる。
「はい、分かりました。こちらこそ失礼なところがあり申し訳ありませんでした。そ、それで、あ、あの…、主人の件、ど、どうか…、どうかくれぐれもよろしくお願いいたします」と香は最後には深々と頭を下げ、すがるような目をして前にいる児玉らに事件の捜査を託した。
「分かりました!。必ず犯人は我々警察が逮捕いたします!」と児玉は力強く言って丸山と伴にその場を後にした-。
次に二人は車で小林園社長の小林玄太郎がいるという千代田区紀尾井町のホテルニューオータニに向かった。車中で二人はしばらく無言だったが、丸山がふっと口を開き、「やはり…、妻の香は事件には関係ないかもしれませんね」と独り言のように言った。
それを聞いた児玉は、「うん…、あの落胆ぶりは芝居じゃないだろうしな。第一、香は旦那である水谷を信じ切っていて、愛人がいることなど考えられないといったふうだった…」
「ええ、現にそう言ってましたからね。当日のアリバイもあるようですから少なくとも香が実行犯ということはなさそうです。まだ完全には関与を否定しきれませんがタマさんが前に話してくれたことも説得力がありますから…、うん…、とにかく香の線は現時点では薄いですね」
「ああ、俺もそう思う-」
ホテルニューオータニ
小林園社長の小林玄太郎は、ホテルニューオータニの一室に身を潜めるように滞在していた。その玄太郎を訪ねた児玉らは、さっそく聞き取りを始める。
「ご存知のように義弟の水谷さんが殺害されたのですが、何か心当たりはありませんか?」と児玉は尋ねた。
「それが全くないんです。まあ以前からそうだったのでしょうが、最近の一郎君は仕事もきちんとやっていましたし、東京支店の部下からも慕われて家庭も大事にしていたようなのでほとんど非の打ちどころのない生活を送っていたんじゃないかと思いますよ。私たち小林家も一族、いや会社を挙げて一郎君を応援していたので誰かに恨まれるようなことは絶対になかったと思います」
「そうですか。最近の水谷さんはどのようなお仕事を?」
「東京支店長として主には営業管理と経理関係というか資金調達をやってもらっていました。資金調達は主には銀行との折衝ですね。元経営者としての手腕を発揮されていたんだと思います。うん…、彼についてはそろそろ役員にもと思っていましたから…、本当に残念なことです」
「ええ。それで…、その資金調達で何かトラブルのようなものはありませんでしたか?」
「いいえ全くありません。少なくとも私の耳には入ってきておりません。実際、小林園はお蔭様で売り上げもいいので資金調達で困るというようなことは恐らくなかったと思いますよ」
「そうですか。それと水谷さんは将来的に海外進出を考えておられたようなのですが、それについては何かお聞きしていますか?」
「海外進出?。一郎君が?。初めて聞きますな〜。小林園は創業約300年、元々は老舗の茶舗です。今でこそ総合飲料メーカーの体を成していますが、我が社は長い間伝統と格式を重んじ、堅実着実な経営を行なってまいりました。販路拡大を考えないわけではありませんが、海外市場となると何分ノウハウがない。また最近の世界の動きも速いですしね。今は時期尚早だと思っておりますよ」と玄太郎は言って笑った。
「そうですか…。では、水谷さんは何か新規事業に携わるようなことはなかったと?」
「ええ、ありませんでした。彼は入社して13年ですが、以前の彼の会社とはだいぶ環境が違いますからね。それに、彼もこの小林園に来た時はなんだかんだ言ってもう歳でしたから会社に慣れるのにも時間がかかります。思っていたところはあってもなかなか実行には至らなかった。そんなところじゃないでしょうか…。うん…、実際、私のところにもそういった提案は無かったですしね」
「そうですか、分かりました。いろいろお話ありがとうございました。今後またお話をお伺いすることになるかもしれませんがその時はどうかよろしくお願いいたします」
「ええ、それはもちろん。妹の旦那があんな亡くなり方をして私を含め親族は憤っておるんです。最大限捜査には協力させていただきますよ」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
ホテルを出た児玉と丸山は情報を整理し自らの考えをそれぞれ述べあう-。
「やはり、小林園は今回の事件には関係なさそうですね」と丸山が言う。
「う~ん、香にもアリバイがあるしな…」
「はい…、ただ、思い返せば香の友人の件は少しタイミングが良すぎる感があり、ちょっと引っかかるものもあるんですが…」
「うん…。まあ、でもとにかく香が実行犯でないことは確かだ-。今はまず殺意に満ちていた実行犯を逮捕することが先決だ。安藤美鈴は改めて京都に行っている捜査班に裏を取ってもらおう。うん…とにかく水谷は仕事ぶりも真面目で周囲から反感を買うようなこともなかったようだ。ただ、小林園の仕事が複雑に絡んでいた可能性もある。そっちの方もしっかり調べないとな。それでもまあ…、これでホシはダイヤスタイルの関係者である線が濃くなった。今度は主にそっちを当たってみよう」と児玉は自分に言い聞かせるように丸山に言った。
「ええ-」と丸山も力強く応えた。
そして、児玉はこれまでのことを捜査車両に備え付けられている無線機を使って捜査本部の松平課長に報告する。
「課長、妻の香にはアリバイがあります。夫婦仲も良かったようで、香には水谷に愛人がいるなどというのは考えられないといったふうでした。それと水谷は会社が潰れてからというもの実直なサラリーマンに徹していたようです。仕事も順調で周囲ともうまくやっています。結果、穏やかな生活を送っていたようです。被害女性は今のところ水谷の愛人とは考えられない感じです」
「そうか…、分かった。じゃ今日のところはもういいから、明日から引き続き目ぼしいところを当たってみてくれ」
「分かりました。では明日は先に捜査している磯崎たちとも連絡を取り合って前の会社であるダイヤスタイルがあった青山周辺を当たってみます」
「ああ、分かった。よろしく頼む」
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