第2話 伊豆高原殺人事件
2016年2月。国道135号線を伊東で折れて静かな山あいの道を抜けると、一碧湖という美しい湖に至る。そして、その周辺には瀟洒な別荘地が広がっている。点在する別荘や保養所は比較的広い敷地が多く、そのどれもが優雅さと気品に満ちていた。
しかし…、華やぎのある別荘地も企業の持つ保養所の中にはその企業が倒産したものもあり、木枯らしが寂しく吹き、廃屋となっているものも幾つかある。今は2月、この別荘地もオフシーズンである。観光客も少ない…。
そんな中、一軒の企業の元保養所と思わしき廃屋から幾筋かの火柱が闇を照らし煙が上がっているのが見える。火事である。そこには数こそ少なかったが近くのホテルの従業員や宿泊客らの人だかりができ、消防車が数台駆けつけていた。幸い火はすぐに消し止められた。建物が鉄筋コンクリートでできているせいもあり、大きな火災には至らなかったからだ。日時は2月6日未明、深夜の1時を40分ばかり過ぎたあたりだった。その現場で一人の消防士が叫ぶ。
「人が倒れている!」
発見されたのは男女二人と思われる人の体。すでにこと切れているらしく動きはない。すすで黒ずんでいて顔は判別できなかった。体に火をかけられ、その損傷が激しいのだ。
しかし何故こんな廃屋に人がいたのだろう。心中だろうか…。そこに居合わせた多くの者がそう思った。建物の中は企業の保養所らしく広いエントランスと講堂に食堂、それと各寝室に分かれている。二人が倒れていたのはエントランスの部分でそこから煙が上がっていた。つまり自らかそれとも何者かがその横たわる二人の体に火をかけたのだ。
やがてパトカーも数台駆けつけ、捜査員らがその倒れている二人の遺体をとり囲む。そしてひとしきりそれを凝視した後全員がその遺体に向け合掌した。捜査が開始される。それに伴い静かな別荘地は急激に騒がしさを増していく。そんな中現場に居合わせた刑事の一人が叫んだ。
「あー!、こりゃ殺しだ!。刃物で首をグサッとだ」
よく見ると確かに両方の遺体の頸部にはよく目立つ傷があり、それが致命傷となったことは容易に想像できた。すぐに警察によって立入禁止のテープが引かれ鑑識による現場検証が行なわれる。駐車スペースに残された先程付いたばかりとみられるタイヤ痕から犯人は車で逃走していると見られ、即刻、非常線が張られ、国道135号線を始めとした伊豆半島全域で検問が行なわれた。また、警察は夜明けを待って現場周辺の山狩りも行なうという。事件現場では鑑識による血痕や指紋、それに足跡や遺留品の確認・採取などの現場検証が行なわれた。
管轄の伊豆東警察署の刑事である児玉修司(こだましゅうじ)警部補(55歳)は現場に立ち、「なぜこんな所で…?」と呟いた。吐く息が白く漂う。いかに温暖な伊豆半島でも2月のしかも山あいに位置する伊豆高原ではさすがに寒さが厳しい…。
「人目に付かず、殺しがしやすかったからじゃないですか」と傍らに控える相棒の刑事、丸山達夫(まるやまたつお)巡査部長(43歳)が思いつくままのことを言った。
児玉はそれにしてもと思う。このような所におびき寄せたということは犯人はこの伊豆高原に土地勘がある。そのことを知られるリスクを犯してまで、なぜここだったのだろうと…。犯人にここへの相当な思い入れがあったことが想像できる。過去にここで一体何があったのか?。児玉の疑問はとめどなく湧いてくる。
鑑識による現場検証が終わりに近づいていた。児玉と丸山は現場に立ち、ライトを照らしながら注意深く辺りを見つめた。エントランスに至る砂地の道に、寄り添うように3人分の足跡がくっきりと付けられているのが確認できる。その中には犯人の足跡も含まれているに違いない…児玉はそう見当をつける。そして、それらの足跡はほぼ平行に並んでいた。児玉はこのことから3人は話しながら進んでいったものと考えた。そうでなかったとしても少なくとも3人のうち犯人を含めた二人は顔見知りで会話を交わしたことはほぼ確実だと思った。鑑識結果で約26センチという犯人のものと見られる足跡の大きさからしてホシは男と見られる。そして入口近くの駐車場に停めてある被害者の車の脇に自動車とみられるタイヤの跡が児玉の目に入った。駐車場は舗装されているようだったが、長年放置されていたせいだろう、その上を砂や土が厚く覆いタイヤの跡がしっかりと刻まれていた。タイヤ痕は現場に残されていた被害者の車より出口に近い所にあった。鑑識の話だとまだ新しいということで犯人が乗ってきた車のタイヤ痕と見てまず間違いないということである。つまり犯人は車でこの現場にやってきて既に到着していた被害者らと合流した。そしてエントランスまで恐らく話しながら歩き、そこでナイフのような鋭利な刃物を使って一撃で首を刺して殺害を行なっている。一撃で行なっていることから強い殺意があったことが想像できる。会ってからわずか数分の間で凶行に至っているとみられることから計画的犯行の疑いが強い。
『顔見知りの計画的犯行か…。意外と早く片付くかもしれんな』児玉はそうとも思った。やがて、マスコミ関係の人間も集まりだし、山あいの別荘地は更に騒がしさを増していく…。
児玉はその日は非番だった。緊急連絡で呼び出され、取るものも取りあえず駆けつけていたのだった。児玉はその夜は一旦自宅に戻り、準備を整えてから改めて始業時刻の朝8時半までに署に出勤することになった。
悪夢のような夜が明けた。児玉は署に出勤する前に伊豆高原の別荘地を散策し事件現場周辺の把握に努めようとした。一通り現場周辺の散策を終えると次になんとはなしに事件現場から一碧湖を目指して歩き始める…。
ただ、別荘地の朝は陰惨な殺人事件とは裏腹に朝霧に陽光が煌めき、その美しさは格別であった。このような場所で殺人事件が起きたことなど信じられなくなってしまうほどだ。やがて一碧湖のほとりに着き児玉は思わず「ほー」と感嘆の声を上げた。朝霧に満ちていた湖に朝の陽光が豊かに降り注ぎ、さながら邪悪な霊が消え去るかのように瞬く間に霧が晴れていき、みるみるその明媚(めいび)な風景が姿を現わす。見ていてそれは神々しいものだった。『さすがは伊豆高原の一碧湖だ。〝伊豆の瞳〟と言われることだけのことはある』と児玉は素直に感動した。児玉も伊東市内に住んでいるが、これまで伊豆高原の別荘地帯にはほとんど来たことがなかった。児玉は初めて見る伊豆高原の美しさに思わず息を呑む。そして、多くの人々が伊豆高原に魅かれ、ここを訪れる気持ちがようやく理解できたような気がした。
そして…、児玉がふと霧が晴れた湖を見渡すと、一艘のボートが湖のほぼ真ん中にぽつんと浮かんでいるのが見えた。不思議な、それでいてどこか神秘的な光景だった。本来ならばそのボートは岸につながれていなければならないはずである。そう児玉が思っているところへ貸ボートを営む近くの宿屋の主人がやってきた。
児玉は主人に「あのボートは?」と湖に浮かぶそれを指さしながら尋ねた。すると主人は、「あれ、おかしいな昨日ちゃんとつないでおいたのにな…」と言って首を傾げる。
児玉は警察官という身分を打ち明け、さらに近くで殺人事件があったことを説明してその宿屋の主人と一緒に岸に泊めてある別のボートに乗り込み湖のほぼ中央に浮いているそのボートを取りに行った。ボートの中を覗くと、直径が10センチほどの取っ手の付いた丸い手鏡が一つ、腰掛けの部分に置いてあった。主人は「昨日ボートをつなぐ時には気付かなかった」と言う。児玉はとりあえずその手鏡を遺失物として預かり署に持っていくことにした。そして、その主人はさして気にするふうでもなく「今までこんなことはなかったけど、何かの拍子に外れてしまったんでしょう」と言って笑った。児玉も特に事件性は無いと判断してその場を去った。だが、事件があった日の出来事だっただけに何か引っかかるものを感じ、後ろ髪を引かれる思いではあった…。
事件発生の夜が明けた朝、静岡県警は『伊豆高原殺人・死体遺棄事件』として管轄の伊豆東警察署内に捜査本部を設置した。児玉は始業時刻の30分ほど前の午前8時少し前に署に到着し玄関でばったり会った相棒の丸山に「おう、マルさんおはよう。帳場(ちょうば)(捜査本部)が立ったみたいだな?」と声をかけた。
「あ、おはようございます。帳場の方、ええ、立ちました。3階の講堂です。一緒に行きましょう」
「ああ」と児玉が応え、二人は一緒に歩きだす。
「で、戒名(事件名)は何だ?」と児玉は3階に至る階段を登りながら丸山に尋ねた。
「『伊豆高原殺人・死体遺棄事件』です」
「またありふれた名前だな~」
「ええ、まあ捜査本部長である署長のセンスですから…」
「センスねえ~」
「ただ、署長も管内では近年希にみる凶悪事件ということですこぶる張り切ってるってことですよ」
「それは、それは…、じゃあ俺たちも頑張らなきゃってことですね」
「ええ。まあ、そういうことです」
と、そんな話をしているうちに二人は捜査本部のある3階講堂の入口に着く。二人はしばし立ち止まり、そこに掲げてある『伊豆高原殺人・死体遺棄事件捜査本部』の文字をまじまじと見つめた。そして講堂に入ると児玉は入口近くの机上に無造作に置かれていた今朝の新聞を手に取り、席に座って丸山と一緒に読み始めた。地元紙の静岡日報が、事件発覚が深夜の午前1時過ぎだったにも拘らず何とか掲載を間に合わせ、その社会面で『伊豆高原・元保養所内で男女2人の遺体』の見出しで報じていた。さらに紙面には『遺体焼かれ、殺人の疑い』の文言が続いている。また、講堂内にいち早く設置されたテレビからニュースが流れ、アナウンサーが機械的に
「今日未明、静岡県伊東市の伊豆高原別荘地内で男女二人の遺体が発見されました。遺体発見現場は倒産したアパレル会社が所有していた今は廃屋になっている元保養所内で、二人の遺体はいずれも頸部を鋭利な刃物と見られるもので切られ、その後灯油のようなもので燃やされて損傷が激しいということです。現在、警察で遺体の身元の確認を急いでいますが、いずれの遺体も損傷が激しいことから身元の特定には時間を要しそうだということです。
なお、この元保養所のオーナーであった元会社経営者と昨夜から連絡がとれなくなっており、警察では事件との関連を調べています。そして、静岡県警はこの事件を殺人事件と断定し、管轄の伊豆東警察署内に今朝から捜査本部を設置し、今後本格的な捜査に乗り出すものと見られます」と手短に伝えた。
始業時刻の午前8時半になった。捜査本部でこれまで分かっている事件の情報が捜査員らに説明される。
当初の予想に反し、被害者の身元は男性の方はすぐに分かった。遺体が焼かれ、その損傷は激しかったが犯人は遺体を焼く際に顔の部分を意識したのだろう。主に焼かれていたのは上半身であったことからズボンのポケットに入っていた財布の焼損を辛うじて免れることができた。その財布から社員証や運転免許証が発見され、さらに家族に連絡して身体や服装の特徴を確認して身元判明に至った。
被害男性の身元はこの廃屋と化している元保養所のかつての持ち主であった今は経営破綻して存在しない会社、『ダイヤスタイル』の元社長、水谷一郎氏64歳。現在は妻の実家に当たる京都が本店(本社)のお茶の老舗『小林園』に勤務し、そこの東京支店長を任されていた。住所は東京都世田谷区|砧(きぬた)××。しかし女性被害者の身元はそれを特定できるようなものが見つからず依然として身元不明のままであった。ただ年齢は35歳前後と推定された。二人の遺体は司法解剖に回されており、そこで頸部の創傷が致命傷とはすぐに断定されたが現在さらに詳しく遺体の状況を調べているところだ。また昨夜から行なわれている伊豆半島全域での検問では事件に結びつくような不審車両はまだ発見できないでいた。犯行に使われた可能性のある一昨日、伊東市内で盗まれた軽自動車についても同様であった。主要道路等に設置されているNシステム(自動車ナンバー自動読取システム)にも引っかかっていなかった…。
立ち上がったばかりの捜査本部で伊豆東署刑事課長の松平和幸(まつだいらかずゆき)警部は声を張り上げ、捜査員に活を入れるように熱っぽく話す。
「残された足跡からこの現場にいたのはガイシャ(被害者)を含め3人、いやもしかしたら犯人が乗ってきた車に共犯者がいたのかもしれん。しかし犯行は単独で行なっており、一人、一人順番に殺害している。ただ犯行時刻はほぼ同時刻だ。3人は寄り添って歩いていたものと思われる。背後から襲われているが、犯人が何かのきっかけで後ろに回り込み襲ったものとみられる。
少なくとも犯人とガイシャ二人のうち一人とは知り合いだったと見てまず間違いない。水谷の足跡と犯人のものと見られる足跡とが隣り合わせだったから、その二人が知り合いだった可能性が高い。検証の結果、犯人のものと見られる足跡の大きさは約26センチ。その足跡の大きさ、また大胆な犯行の手口から実行犯は男の可能性が高い。殺害後犯人は車まで灯油を取りに行き、二人の遺体を並べてその灯油をかけて燃やしている。凶器や灯油を用意した計画的犯行だ。一突きで致命傷を負わせていることから強い殺意があったとみていいだろう。また、現場に残されたタイヤ痕から犯人はガイシャとは別の車でやって来てそれを使って逃走したものと見られる。モノを盗られた形跡がないことから二人を恨む者の犯行である可能性が高い。不審車両はまだ発見・摘発されていない。それから、ここ一週間の盗難車の届出が静岡県内で2件、そのうち1件が管内の伊東市内で一昨日発生したと報告されている。伊東市内の盗難車の車種は軽自動車のスズキ・アルト。今回の犯行に使われた可能性もある。現在まだその車両は発見できていない。検問にもNシステムにも引っかかっていないということだ。うん…、今のところこちらで把握しているのは以上だ」
「あ、それと課長」と軽く手を挙げて児玉は発言を求めた。
「うん?なんだ児玉」と課長は発言を促す。
「現場近くの一碧湖で今朝、貸ボートが一艘、湖の真ん中あたりで漂っておりまして中からこちらの手鏡が発見されました。事件に関係があるかどうかはまだ分かりませんが『これまで無かったことだ』と貸ボートを営む宿屋の主人が言っておりました。昨日もしっかり岸に結びつけたと言っていましたので、何者かが故意にやったとも考えられます」
「それが、この事件の犯人かもしれんというんだな?」
「はい」
「分かった。みんなもそのことは承知しておいてくれ。あ、それと児玉、その手鏡は一応鑑識に回しておくように。指紋か何か見つかればめっけもんだからな」
「そうですね。あとで回しておきます」
その後、手鏡は鑑識に回されたが、指紋などの特にめぼしいものは検出されなかった。しかし、指紋がないという不自然さが逆に引っかかる児玉であった…。
再び松平が声を発する。
「えー、それでだ、我々刑事課は、まずは現場周辺の地取り捜査(特定地域の聞き込み捜査)を徹底的に行なうことから始める。いいな!」
「はい!」と、すかさず居合わせた刑事たちが声をそろえて応える。捜査が、本格的に始動した。
児玉と丸山はペアを組んで伊豆高原の事件現場周辺で地取り捜査を行なった。しかし、ただでさえシーズンオフの別荘地で人が少ない上に現場は廃屋となった元保養所内で、おまけに犯行時刻が深夜の1時頃という事件の特異性もあって目撃者探しは難航する…。
児玉は現場周辺を歩きながら「ダメだな。目撃者なんか見つからんな」と思わず嘆息交じりに吐いた。
「ええ。あの状況じゃまず目撃者はいないでしょうね」と丸山も渋い顔で応じる。
「だな。うん…、ところでマルさんはこのヤマをどう思う?」
「ええ…。月並みではありますが一番考えられるのは嫉妬ですかね。殺された女性の身元が割れないと何とも言えませんが…」
「水谷の妻が嫉妬したと?」
「ええ」
「しかし、嫉妬であれば男か女どちらか一方を狙うんじゃないか。両方殺してしまっては自分の想いは成就できない…」
「嫉妬のあまり両人を恨むということも考えられるのではないでしょうか?」
「う~ん。しかし犯人は男の可能性が高い…」
「そうか…、そうですね…。その点から言えば水谷の妻とは考えにくいところはありますね。ただ、まだはっきりとホシが男と断定されたわけではないですよね?」
「うん、まあな…。ま、とりあえずそれは置いといてだ。これだけは言えるだろう。このヤマはホシが初めて訪れた場所で犯行に及んだとは考えにくい。だからこのホシはこの周辺にある程度の土地勘がある。しかもこれは計画的犯行だ」
「ええ、それは間違いないと思います」
児玉の推理が駆け巡る。『犯人が二人を殺しがしやすいこの元保養所に実質的に連れ出していると考えられることから、普通にはこの伊豆高原の元保養所が水谷の保養所であったことを知っている人物だ。しかも犯人はかつてここを訪れたことがあるのだろう。つまり犯人は水谷がアパレル会社を経営している頃からの知り合いということになる。その水谷の会社が潰れたのが13年前。その時から恨みを持ち続けていたというのか?。それともその後水谷と何か軋轢が生じたのか…』
そして『犯人が男であるとすれば殺された女と犯人が知り合いで犯行に及んだということはないか?』と児玉にフッとそんな疑問がわいた。
『しかし、現場の足跡の状況から犯人と水谷が隣同士で歩いていた。普通に考えるなら、水谷と犯人が知り合いだったということになる。女の足跡は少し離れたところにあった…。
犯人は最低でも水谷とは知り合いだった。そして男だった?。女を知っていればもう少し近づくのではないか。足跡から女と犯人が近づいた形跡はなく、よって会話もほとんど無かった?。だとしたら犯人と女とは面識が無かった可能性が高い。たとえ面識があったとしてもそれほど親しい関係ではなかったことが想像できる…』
ただ丸山の意見も聞いておきたい児玉は、「水谷に愛人がいたとしてそれを恨むのは?」と丸山に尋ねた。
「それは当然水谷の妻だと思います。妻ならこの伊豆高原の保養所のことも知っているはずです。水谷に保険金がかかっていればそれを手にすることができる立場にいるかもしれません」
「しかし…、現場はひと気のない廃屋になっている元保養所内で、しかも犯行時刻は深夜の1時頃だ。普通には女が犯行に及ぶ状況ではないよな。しかも単独でとなればなおさらだ。そして犯人のものと見られる足跡の大きさは約26センチ。また短時間のうちに刃物で大人二人を殺害するという大胆な犯行の手口。それらから推測するに自然に考えれば実行犯は男だ。それに、男というのは普通、妻には愛人を隠すものだと思う。女の足跡が少し離れているとはいえ3人はしばらく一緒に歩いている。会話も交わしたかもしれない。そんな妻公認の愛人関係だったのだろうか。それから、そもそも自分の会社を潰した男に愛人がいる?。そんな余裕があったのか」と児玉は次々と疑問を口にした。
「そうですね…。女の単独犯というには少し無理があるかもしれませんね。ただ、先程も言いましたが、まだはっきりとホシが男と断定されたわけではありませんし…、それに今はインターネットとかで殺人の依頼もできます。殺された女性が水谷の愛人であった場合、妻が実行犯でなくても殺人を依頼した可能性はあるんじゃないでしょうか?」
「最低でも男のガイシャ、つまり水谷と実行犯は顔見知りの可能性が高い。それはまず無いんじゃないか」
「う~ん、そうか…。でも、そうと言い切れるでしょうか?。水谷の知り合いに殺人を依頼したとも考えられます」
「まあ、可能性として無いとは言い切れんが…な。しかし、殺された現場は水谷の会社が保有していた元保養所、それを知る人物となるとかなり絞られてくる…。しかも犯行時刻は深夜の1時頃。常人が会う時間じゃない。余程の事情が無い限りはそんな場所、そんな時間には会わないはずだ。その無理な時間に犯人は被害者との会合を設定した。いや、設定できたというべきだろう…。依頼を受けた者が果たしてそこまでの設定ができるかどうか…。とにかくだ、この犯行現場と犯行時刻という『設定』が圧倒的に犯人側に有利だということを考えれば犯人がこの特異な設定というか『ステージ』に被害者らを誘い出したと考えるのが自然だ。そして犯人が首尾よく被害者を呼び出せたのだとすれば犯人はその時刻にしかここに来れなかったからということにしたのではないか…。少なくとも表向きはそういうことになっていたのではないかと思う。その呼び出しに被害者らが付き合わされたのだとしたら犯人は被害者らにとって目上に当たる人間、もしくは被害者たちより立場上強い人物だったと推測される。それに殺害の痕からは一瞬のためらいもない強い殺意が感じられる。このことから実行犯は二人に強い恨みを抱いていたと考えられる。そうなると言わば依頼を受けただけの者がそう都合よくこういった条件に当てはまり、そしてそこまでの殺意を抱けるかどうか…」
「うん、まあ…、そ、そうですね。う〜ん…。あとは…、立場上どうかはともかく水谷に恨みを持つ者というふうに対象を広げれば…、前の会社の債権者とか、従業員とかも考えられますかね」
「うん…、まあ、確かにそういうのも考えられるだろうな」
「とにかくその辺のことも含めて水谷の妻なら、最近の水谷のことを一番よく知っていると思います」
「うん…、重要人物であることに変わりはないな」
「はい」
ようやく二人の意見が、一致した。
静岡県警伊豆東署捜査本部 記者会見
事件を受け、とりあえず署内の会議室を使って緊急の記者会見が行なわれることになった。捜査は現時点では何ら有力な手がかりを得られていない状況ではあったが、事件が『顔見知りによる計画的犯行』の可能性が高いことから県警では容疑者の早期検挙に自信を深めつつあり…、そういったことからこの会見はその自信の表れを示す一端と言えた。
記者会見は捜査本部長である大木毅(おおきつよし)伊豆東警察署長(警視)と事件を受け、急遽県警本部から駆けつけていた中島雄一(なかじまゆういち)静岡県警刑事部捜査一課長(警視)の同席のもとで行なわれた。まずは大木が事件の概要を説明する。
「本日未明、午前1時20分ごろ伊豆高原にある元保養所内で男女二人の遺体が発見されました。県警ではこれを殺人事件と断定し今朝から捜査本部を設置して現在容疑者の逮捕に向け全力を挙げ捜査に当たっているところであります。被害者は検証の結果、男性の方が水谷一郎さん64歳。住所は東京都世田谷区砧××。元アパレル会社社長で現在は水谷さんの妻の実家が経営する会社に勤めていました。そこでの肩書は東京支店長であります。水谷さんの妻の実家は、元々は京都の老舗の茶舗ですが、現在、売上高約3700億円、従業員数約3500人の飲料業界大手の小林園であります。ただ、この会社、株式は上場しておらず、また、株式の半数以上を親族で独占している典型的な同族企業でもあります。
もう一人の被害者である女性の身元は未だ不明で、推定年齢は35歳前後、現在、被害男性である水谷氏の同僚・友人・知人関係及び水谷氏の前の会社の関係者から調べを進めております。この被害者お二人のご遺体は現在司法解剖中でありまして詳しいことはまだ調査中でありますが、ただ死因についてはどちらの遺体にも頸部に刃物で刺されたような傷があり、これが致命傷になったものと法医では見ています。このことを受け捜査本部では凶器は鋭利な刃物であったと判断し現在捜査に当たっているところであります」と一通りの説明を言い終えた。すると、すかさず記者達から質問が相次ぐ。
「で、その凶器は発見されたのでしょうか?」
「未だ発見には至っておりません」
「事件の目撃者はいるのですか?」
「まだ見つかっていない状況です。現在全力で目撃者捜しを行なっておりますが…、事件発生が深夜でしかも事件現場がひと気のない廃屋内ということから目撃者の発見は極めて難しいと見ています」
「犯人は被害者と顔見知りだという見方を捜査本部はとっているのでしょうか?」
「少なくとも被害男性と顔見知りだった可能性が高いと思っております」
「なぜ被害男性だと?」
「犯人のものと思われる足跡と被害者の男性と思われる足跡とが隣り合っていたからです」
「では、大体の犯人の目星はついていると?」
「いや、まだそこまでは至っておりませんが、少なくとも犯人は水谷氏がかつて所有していた伊豆高原の保養所の存在を知っていて、そしてそこを訪れたことが過去にあった人物だと捜査本部は見ています」
「それは、まだ水谷氏の前の会社、ダイヤスタイルがあった頃ということですか?」
「そうです」
「では、犯人は前の会社の関係者だと?」
「まだそこまで断定はできませんが、その可能性はあると思っています」
「今回、モノを盗られていないということですが、恨みによる犯行でしょうか?」
「ええ、その可能性は高いと思っております」
「犯人の遺留品は?」
「今のところ、犯人の足跡とタイヤ痕、それと灯油の成分、あと犯人は手袋を使って犯行に及んだものと思われ、その繊維片が被害者の遺体から採取されております」
「犯人の指紋はどうなんですか?」
「それはまだ検出されておりません」
「犯人は車で逃走しているらしいということですが、検問やNシステムの結果はどうなのでしょうか?」
「残念ながら、まだ不審車両の発見・摘発には至っておりません」
「では、警察としては依然犯人は事件現場周辺に留まっていると…?」
「その可能性はあると思っています。現在、署員一丸となって事件現場周辺での山狩りと地取り捜査を行なっております」
記者会見は俄かに熱を帯びたものとなったが、結果として犯人に結びつく目ぼしい発表はこれといって無かった。だが、会見に臨んだマスコミ関係者たちは捜査本部の俄かに高まる自信のほどを敏感に察知したのだった。 ただ、現実には事件現場周辺での山狩りと地取り捜査という署員らの懸命の働きにも拘らず一向に成果を上げられずにいた…。
結局、数日間続けられた地取り捜査や山狩りも有力な成果が得られないまま捜査本部は捜査員をいくつかのグループに分け、次の段階の捜査を始めようとしていた。
まずは、親族関係、特に水谷の妻である。それと水谷がかつて経営していたダイヤスタイル関係、そして小林園の東京支店と京都本店に刑事が振り分けられた。伊豆東署刑事課長の松平は刑事らを前に捜査を熱ぽく指揮する。
「現段階で考えられる動機としては男女の痴情のもつれという可能性が一番高い。それと保険関係だ。つまり水谷の妻、香がカギということになる。実行犯でなくても事件に関与している可能性はあるかもしれない」と松平は指摘した。
「まずは水谷の愛人関係、そして妻の香と小林園、あと前の会社の取引先、友人・知人関係を徹底的に洗うんだ。磯崎(いそざき)と田中(たなか)、水谷の前の会社があった東京の青山周辺を当たってくれ。児玉と丸山は世田谷にいる水谷の妻を。村山(むらやま)と平坂(ひらさか)は銀座にある小林園東京支店を。それと田辺(たなべ)と谷口(たにぐち)は京都の小林園本店に飛んでくれ。残りは引き続き現場周辺での遺留品の捜索と目撃者捜し等の地取り捜査、それと犯行車両の発見だ」と松平は一通り言って指示を終えた。すると、
「課長、県警の捜査一課は出てこないんですか?」と児玉が質問した。
「うん、形の上では捜査一課との合同捜査なんだが、まずは所轄のうちらで捜査することになった。捜査一課のお出ましはしばらく経ってからだそうだ」
「では課長、この事件、県警本部では案外楽勝と見て所轄でお膳立てして、機が熟したら一課が美味しいところをもらおうってことですか?」と今度は丸山がズケズケと質問する。
「まあ、そうかもしれんな」と松平は言って苦笑した。
「まったく考えるよな」と誰かれなく言う。
「ま、でも考えようによっちゃ一課が出てくる前にホシを挙げれば金星が取れる。おまえらくれぐれも腐らず気張っていけよ」と松平は言って課員らに活を入れた。
「は~い、分かりました」とみんなは少し気のない返事を寄越す。
「あと課長、小林園の上層部は今回の事件で東京に集まっているそうなんですが…」とこれから京都に行く予定の田辺が言った。
「香の家にか?」
「ええ、おそらくは。もしくはその近くか…。葬儀の打ち合わせだと思いますが」
「うん、まあいい。そのほうがいろいろ動きやすいこともあるだろう。とにかく京都に行って情報を集めるんだ」
「分かりました」
刑事達はそれぞれに散った。
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