狼の生贄 ー伊豆高原殺人事件ー
青木 地平
第1話 プロローグ (伊豆高原)
1992年5月、日本では昨年にバブルが弾け、経済全体に暗雲が立ち込め始めていた。しかし、街行く人の多くには、まだ一時的なリセッション(景気後退)だという認識があるように感じられる。ディスコ店であるジュリアナ東京の盛況など巷にはまだバブルの余韻が色濃く漂っていた…。
そんな世相の中、都心のアパレル企業に勤める一条幸恵(いちじょうゆきえ)は青山のカフェで気の置けない女友達に、自身が一番華やかだったあの頃の思い出を自慢げに話していた。
「私が短大を出て会社に入りたての頃ね、社長に言ったのよ。『子どもの頃、家族で伊豆高原の池田20世紀美術館に行ったことがあって、その時に伊豆高原の別荘地を見たの。綺麗な湖の近くですごく素敵だなって思って、いつかこんな所に別荘を持つのが夢だってずっと思ってた』てね。そしたらその私の夢を社長が叶えてくれて、『じゃあ、会社の保養所を伊豆高原に建てよう』って言ってくれたの。私、それを聞いた時はうれしかったな〜。うん…、あそこには仕事でもプライベートでもよく行ったわ…」とそこまで言いかけて幸恵の記憶が絶頂だったあの頃へと飛んでいった…。
あの頃…1989年7月、幸恵は代官山のマンションで自身が勤めるアパレル企業『ダイヤスタイル』の社長、水谷一郎(みずたにいちろう)を待っていた。幸恵の部屋の電話が鳴る。『水谷からだ』幸恵は直感的にそう思い受話器を取った。予感通り水谷からだった。彼は自身の車に付けている自動車電話からかけていた。
「車で下まで来ている。すぐに降りてきてくれ」と快活な声で水谷は言う。
幸恵は受話器を置くと反射的に部屋から飛び出し素早くドアの鍵を閉め、エレベータに飛び乗って階下に降りた。水谷は愛車のジャガーで乗り付けていた。
「一郎、遅かったじゃない」幸恵はプライベートでは社長である水谷のことを下の名前で呼ぶ。
「まあ、そう怒るなよ。道が混んでたんだ。さあ、乗れよ」
「うん」と幸恵は弾ける笑顔で応えた。
幸恵は会社では社長秘書を務め、そして、プライベートではその社長である水谷一郎と愛人関係にあった…。
水谷と幸恵を乗せたジャガーは力強いエンジン音を鳴らして発進し、すぐに首都高に入った。車は東京を抜け、『海沿いを走りたい』という幸恵のリクエストに応え、横浜・横須賀道路を南進し、逗子に至るルートを走る。その後、湘南道路を西に進み大磯で西湘バイパスに入った。バイパスの高架を上がると道路が弧を描き海が大きく見えてくる。水平線が遥かに見える。海上には巨大な積乱雲が屹立していた。水谷はハイウェイに入った開放感から、その勢いのままにアクセルを踏み込んだ。タコメーターの回転数が一気に上がり、前を走る車を一台また一台と抜き去っていく。幸恵は車内に無造作に置いてあったカセットテープをカーステに押し込んだ。すると、爽快なシャワーを浴びるように心地よいリズムがみるみる車中を満たしていき、二人の気分を一気に高ぶるものに変えさせていく。
目指すは新築なった伊豆高原の保養所である。だが、保養所とは名ばかりで、ほとんどが幸恵の好みに合わせて造られていた。それは幸恵の別荘と言ってよかった。
二人が伊豆高原の一碧湖(いっぺきこ)近くに建てられた保養所に着き、その敷地に入ると幸恵は思わず「わー」と感嘆の声を上げた。幸恵はその建物の壮麗さ、豪華さに一瞬にして心を奪われた。二階建ての瀟洒な保養所は、もはや一企業の保養所という域を超え、完全に『富豪の邸宅』そのものと言ってよかった。そして、二人は建物の中に入ると自然と頬を寄せ唇を重ねて暫く抱き合った…。
その夜の食事は幸恵が腕を振るい、贅を尽くした料理がテーブルを埋める。水谷も食事の支度を手伝い、不倫とは思えない健康的な『恋人』を演じた。しかし、それは二人にとってごく自然な姿でもあった。その時の二人は紛れもなく惹かれあい、愛し合っていた…。
食事が終わり二人はワインを口にしながら寝室のベッドで頬を寄せて語らいあう。
「このダイヤスタイルを世界に通用するブランドに押し上げたい」と水谷は吐いた。そして「二人でその夢を追いかけてゆこう。君は優秀で…しかも美しい。俺たちが組めばできないことはないさ。少なくても俺はそう信じている」と幸恵の耳元で囁く。
「私もそう思うわ。あなたとだったら何でもできそう」と幸恵もすかさず応じた。
そう言い終わるやほぼ同時に二人の唇が重なる。そして二人は抱き合い、愛撫し、やがて深い愛欲の渦へと落ちていく…。
暫らく時が経った。一息つこうと水谷はおもむろに煙草の箱に手をやり、その中の一本を咥えて火を点けた。横たわる二人の頭上に一筋の煙がゆっくりとたなびく。
「ここでファッションショーをやるぞ。政財界の要人も集めてな。思いっきり華やかにして、主役は君と俺だ」と煙草をくゆらせながら、水谷は静かに、だが力強く言った。
「素敵ね」と幸恵は目を閉じながら一言呟き、水谷の首に腕を絡める。
その時の幸恵は、紛れもなく自分が世界の中心にいると確信できた。そして同時に凄まじいまでの優越感とそれに伴う圧倒的な陶酔感が自分の心中を支配していくのを幸恵ははっきりと感じることができたのだった。
伊豆高原ファッションショー
1990年5月、伊豆高原の保養所で『ダイヤコレクション90』と銘打ったファッションショーが開かれた。会場は百貨店や専門店のバイヤーなどのファッション業界の関係者、また、ファッション雑誌の記者などのメディア関係者で溢れかえっている。そして、会場内には水谷の肝いりで政財界の要人も散見した。ファッションショーは通常のそれとは違いパーティ形式で行なわれた。
幸恵はそのショーの司会を務めることになった。彼女はファッションショーの司会という初めての仕事でも動じることなく華麗にその役をこなしてみせた。幸恵は容姿も端麗で、また華やかな装いでもあり伊豆高原の美しい景観とゴージャスなショーの会場によく映えた。モデルと見まがうようなその容姿を駆使して居並ぶ観客を魅了する。高原の会場に幸恵の声が高らかにそして美しく響く。
「皆様ご歓談いただいておりますでしょうか。では、ダイヤコレクション90を執り行なう前に、弊社代表取締役社長・水谷一郎よりご挨拶させていただきます」と幸恵はアナウンスし、続いて水谷が壇上に上がった。
「皆様おはようございます。ダイヤスタイルの水谷でございます。本日は弊社主催のファッションショー『ダイヤコレクション90』にお越し頂きまして誠にありがとうございます。本日は選りすぐりのモデルに、洗練されたファッションをご用意させていただいていると自負しております。ご観客の皆様には、このファッションショーを必ずご満足いただけるものと私どもスタッフ一同確信しておりますのでどうか最後までご観覧していただきますようよろしくお願い申し上げます」
「はい、では続きまして御来賓の方々からも何人か御言葉を賜りたいと思います。まずは、弊社代表取締役社長・水谷一郎の大学時代の御先輩で弊社創業の際にもご尽力いただいた、現在、財務省で主計局次長を務めていらっしゃいます村田孝一(むらたこういち)様より御言葉を賜りたいと思います。またご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、村田様は現在、与党・民友党の衆議院議員で過去には建設大臣もされていた村田孝蔵(むらたこうぞう)さんの御長男でもいらっしゃいます。それでは村田様どうかよろしくお願いいたします」と幸恵はアナウンサーにも劣らぬ流麗な声で村田を紹介した。そして村田が壇上に上がる。
「高いところから失礼いたします。財務省主計局次長の村田孝一でございます。ただ、今日は堅苦しい政治や役所の話は抜きにいたしまして、水谷君との思い出についてお話したいと思います。
水谷君は大学で私の一年後輩にあたり、その大学のボート部で知り合いました。彼は部の練習を大変熱心にしておりまして彼の同期の中でも頭一つ抜きんでた存在でありました。ただ、遊びの方も熱心でありまして…、まあ、いろいろなところに遊びに行きました。特に夜の方ですね」
そう言った瞬間、周囲から笑いが漏れる。
「これは私も勉強させられたことが大いにありました。こういったことは彼の奥さんの手前、あまり話してはいけないのかもしれませんが、まあ、10年以上前の若かりし頃の話でありますのでどうか時効ということでお許し願いたいと思います。
それで、夜遊びの延長でと言ってはなんですが水谷君は女性に非常に積極的なところがありまして、その甲斐あってか彼は大学4年間を通じて彼女がいなかった時期はなかったのではないかと思うほど女性に人気がありました。彼はまた非常にお洒落でファッションセンスも抜群でありましたから男所帯のボート部員達からは当時羨望の眼差しで見られたものです。それで、その水谷君が卒業間際に大学卒業後はファッション企業・アパレル企業を立ち上げたいという話を私にしてくれました。
私は、今時めったにいないチャレンジ精神溢れる若者だと感心し彼の志にいたく感動いたしました。私自身は、国会議員だった父の影響もあり、大学卒業後はぜひとも国家・国民のために仕事をしたいと思っておりました。それで父の勧めもあり今勤めている財務省に入ったのですが…、まあ勿論それはそれで私自身満足した思いはあります。ただその一方で実体の経済・社会を経験せずに宮仕えする自分に何か忸怩(じくじ)たる思いがあったのも事実です。そんな私でしたから当時一から事業を興そうというこの青年に大きな尊敬と憧憬の念を抱いたものです。そこで私はできる限りのことをして彼を支援しようと心に決め、私の小さな人脈でも役に立てればと思い、いろいろな所に行って一緒に頭を下げました。私の父も彼の志に大変感心いたしまして父の友人などいろいろな方を紹介してくれました。彼の会社は初めこそ部屋一つ、机一つ、電話一つの出発でしたが、今ではこのように立派なファッションショーができる、また売上高・利益高におきましても業界に冠たる企業に成長してくれました。私も微力ながら創業のお手伝いができたことを今でも誇りに思っております。ですから、どうか皆様、このダイヤスタイルが文字通りダイヤモンドのごとく光り輝き、そして今後ますます発展し続けられるよう、より一層皆様方のご支援とご鞭撻を賜りますことを切に、切にお願い申し上げまして今回の私の挨拶とさせていただきます。以上、長らくのご静聴ありがとうございました」
村田が言い終わると会場に大きな拍手の音が鳴り響いた。
「村田様ありがとうございました。続きまして日東(にっとう)繊維株式会社代表取締役…」と挨拶は何人か続いた。
一碧湖近くに建てられた保養所の庭園にショーの舞台が設えられ、華やかな出で立ちのモデルが行き交っている。それを一人冷めた目で見ていた男がいた。小林園(こばやしえん)専務(次期社長)の小林玄太郎(こばやしげんたろう)である。
小林園は京都を本拠として創業約300年の歴史をもつ老舗の茶舗であった。今でこそお茶以外も扱う総合飲料メーカーとなっているが元はあくまで茶舗である。
そして、その華やかなファッションショーの中にあって一人和服姿の彼は随分と浮き出た存在に見えた。しかし何故、そんな彼がこんな場違いとも言えるような所にいるのかといえば、彼はこのファッションショーを主催したダイヤスタイル社長・水谷一郎の義兄であったからである。つまり水谷一郎の妻である香(かおり)の実兄だったからだ。今日は妹の香に頼まれて日頃精進している茶道の腕前を披露し来賓に茶を点てることになっていた。表向きはそうであったが玄太郎にはまた別の目的があった。
玄太郎は、アパレル企業などに興味はなかったが、妹の夫の会社ということで関心があった。その会社がどういうものか、経営状態は健全か、もっと言えばこのダイヤスタイルが小林園の経営に悪影響をもたらすことはないかそのことを気にしていた。実のところ玄太郎は秘かにダイヤスタイルの内情を探っていたのだった。といってこのようなファッションショー一つで会社の内情の全てが分かるはずもない。用心深い彼は何人かのスパイをダイヤスタイルに社員として潜り込ませそれを探らせていた…。
玄太郎は、家業であるお茶を愛していた。この家業・天職を守るためだったらどんな苦労も試練も厭わない…。そんな覚悟が玄太郎にはあった。
しばらく経ち、また幸恵のアナウンスが入る。
「ここで少し、ティータイムを取りたいと思います。本日は皆様に本格的な抹茶をご提供したいと思います。その前に今日そのお茶を点てていただきます弊社社長・水谷一郎の義兄にあたります株式会社小林園・専務取締役、小林玄太郎様より御言葉を賜わりたいと思います。小林さんはお茶について非常にお詳しく、そちらの方では大変有名なお方です。それでは小林様よろしくお願いいたします!」と幸恵は明るく弾ける声で小林を紹介した。
「皆様、はじめまして。ご紹介に預かりました小林園の小林玄太郎でございます。今日はお茶と茶道について少しお話させて頂きます…」と朴訥な性格そのままに生真面目で簡素な挨拶を済ませた玄太郎は、その後、手際よく、それでいてゆったりとそして上品に茶を点てて居合わせた客たちにそのこしらえた茶を振舞った。
それを近くで見ていた幸恵は…、思わず惚れ惚れと見とれてしまうのだった。幸恵は、玄太郎の所作を間近で見て、その凛とした姿に心を打たれた。玄太郎は幸恵にとって今まで見たことのない和のたしなみを備えた男だった。
茶が振舞われた後、またファッションショーが再開されたが、それもほどなく終わり、最後に水谷がモデル達全員と一緒にステージを歩き、簡単な挨拶を済ませてファッションショーのすべてが終わった。ショーは大成功だった。
それでも…、幸恵は今回のショーには一定の優越感に浸りながらもそれを上回る大きな不満があった。仕事上ではショーの司会という申し分ないポジションを与えられていたが、肝心の『恋人』である水谷がほとんどかまってくれないでいたのだ。来賓の接待で忙しいのと、それからなんと言っても水谷の妻である香が来ていたことが大きい。幸恵には、水谷は香が怖くて自分には手が出せない。そんな風に見えた…。
そんな心の隙間を埋めるように小林玄太郎がスーッと入ってきた。もういいおじさんだったが、そのおじさんが和のたしなみをしっかり備え、しかも華麗なところに幸恵は魅かれるのだった。それはいわば、いつも洋食ばかり食べていた人間がたまには和食も食べてみたいと思う心理と似たものである。そして…、小林玄太郎が水谷の妻である香の実兄であるということも幸恵の心に火を点けた 。
幸恵は玄太郎に近づくべく会場で茶道具を片付けているその男に声をかける。
「小林さん、私もお茶に興味があるんですけど、ぜひお話をお聞きかせ願えたらと思いまして、あの…もしよろしければでいいんですが、今日とか少しお時間ありますか?」と幸恵はいつになく丁寧な言葉遣いで玄太郎に言い寄った。
「そうですか、それはぜひお聞きいただきたい。今日はこれからずっと暇ですので。まあ大した話はできないと思いますが私の話でよければ喜んで。私の部屋はご存知ですかな?」
「はい知っています」
「では、夕食が済んだ後にでもいらっしゃっていただければ」
「ありがとうございます!。先生のお話を聞かせていただけるなんて光栄です」
「いや、先生だなんて、まいったな」と若くて美しい女性に言われたこともあり、玄太郎は大いに照れた。
幸恵はさっさと保養所内で夕食を済ませると、そのまま玄太郎の部屋に向かった。玄太郎はきちんと身なりを整えて正座をして待っていた。
「それにしても今どき珍しいですな。このような地味なものに興味を持たれるとは」
「そんな地味だなんて、これは立派な日本文化ですわ」
「アハハ、よく分かっていらっしゃる。では、せっかくお越し頂いたので、まずは茶を一服献じましょう」
「まあ、うれしい!。ありがとうございます!」と幸恵は弾ける笑顔で礼を言う。
相手の胸襟にグッと迫るのは幸恵のお家芸である。幸恵には望めば何でも手に入る…。そんな不遜な自信があった。
「今日は奥様はいらっしゃっていないのですか?」とさりげなく幸恵は尋ねた。
「ええ、家内はちょっとふせっておりまして、今は京都の家におります」
「そうですか…」幸恵の眼の奥が微かに光る。
「いや、大したことはないのです。もう良くなったと先程電話で言っておりましたから」
「まあ、そうですか、それは良かったですね。ところで…小林さんは今回のファッションショー、どう思われました?」
「う~ん、さあ、私にはよく分かりませんが、良かったんと違いますか?」
「そうですか~?。私にはずいぶんと派手で、けばけばしかったように思うんですけど。もっと奥ゆかしさというか落ち着いた雰囲気が欲しかったな~なんて思うんですよね」と幸恵は言って玄太郎が思っていることを言い当ててみせる。
「おお、これは手厳しい。そうですか、自分にはファッションショーやなんて元々あまり縁のない人間ですから、批評のしようがありませんわ。でしたらここでお目々直しというわけにはいかんかもしれませんが、少しでもこのお茶で癒されてもらえれば幸いです」と玄太郎はにこやかに点てた茶を差し出しながら言った。
しかしながら、玄太郎は一方で、幸恵の少し自分に媚びた物言いに多少戸惑いを覚えていた。玄太郎は幸恵が水谷一郎の愛人であるということをダイヤスタイル社内に張ってある情報網から既に掴んでいる。香の兄として幸恵の存在は苦々しい存在ではあった。だが…、勿論浮気されている妹にとっては重大な問題だとは思うが、水谷と同じ会社経営者として厳しいビジネスの場に立たされている者の立場から言わせてもらえば、そんな浮気などというものは人生の些事の一つだと思えなくもない。また、香当人にはまだ知られていないのであればなおさら敢えて火中の栗を拾い騒ぎを大きくすることもあるまいとつい大人の判断もしてしまう…。
それから…、良くも悪くも幸恵は紛れもなく美人だった。玄太郎は男として若く美しい女に言い寄られたことで俄かに気持ちが高揚し、若干感覚が麻痺してしまっていた。そして、なんといっても自らが愛するこのお茶というものに理解を示してくれているのである。玄太郎はそんな幸恵に対して決して悪い感情を抱くことはできなかった。
点てた茶を差し出しながら玄太郎は、
「京都に来られた際にはぜひ小林園にもお立ち寄りください。我が家に伝わる珍しい物もお見せできると思いますので」と愛想よく幸恵に言った。
幸恵も「まあ、うれしい!。ええ、今度ぜひ」と言って明るく笑う。
このように茶を挟んで二人はしばらく歓談し、場はだいぶ打ち解けたものになった。そして…
「ねえ、玄太郎さん。慣れない場所でお疲れじゃありませんか?」と幸恵は少し甘い声を出して玄太郎ににじり寄り、続けて
「私、我流なんですけどマッサージ得意なんです。ちょっと試してみませんか?」と言った。
「ほう、そうですか。ええ、確かに慣れない場所で少し疲れました。では、すみませんがちょっとお願いできますかな」と玄太郎もまんざらでもないといった風で幸恵にマッサージを依頼する。
幸恵はいつになく献身的にマッサージをした。幸恵の少し短いスカートから白い肢体が露わになり二人の体が密着する。よほどマッサージが気持ち良かったのか、それとも美しい女の色香に酔ったのか玄太郎は恍惚の表情を浮かべ始めた。
「どう?、気持ちいい?」と幸恵は少し見下すような流し目で妖しく問いかける。
「ああ~、き、気持ちいい…」と恍惚の表情の玄太郎はたまらず微かな声を絞り出す。
「ねえ、もっと気持ちいいことしてみたい?」
「え?。も、もっと?」
「そう、もっと…」
「し、してみたい…」と思わず玄太郎は快感に我を忘れて本音を漏らした。
「あらあらずいぶん正直ね。さっきまでの紳士ぶりはどこへ行っちゃたのかしら。玄太郎ちゃん」と幸恵は妖しい本性を顕わにしながら完全にその主導権を握り、子どもをあやすような目で玄太郎を見下ろした。
その瞬間、〝ヤッ〟と玄太郎は起き上がり逆に幸恵を組み伏せた。そして強引に幸恵の首筋に沿って顔を埋めその白い肌を吸い始める。その吸った口はやがて幸恵の唇に達し、その後二人は激しく揉み合い求め合い…。その情事は、本能の赴くまま自身の地位や立場など一切顧みることなく、この世の全てを置き去りにしてどこまでも…、いや、どちらか一方が果てるまで激しく行なわれた。
やがて…、明け方近くになり、幸恵は身なりを整え始める。いつの間にか眠ってしまっていた玄太郎もその物音に気付いて身を起こす。『何で私みたいな地味な男と…?』と昨夜のことが信じられず、
「な、なんでワシなんかと?。き、君は、ど、どんな、どんな男が好みなんだ?」と思わず玄太郎は幸恵の後姿に向かって問うた。
幸恵はキッと踵を返し、「私?、私は、その時にいいと思った男が好みよ。だから、たとえ今日いいと思っても明日にはどうなるか分からない…。気まぐれな女」と微かに笑ったような表情でそう答えると、風のように玄太郎の部屋から出て行った。
幸恵はどんなに熱していても自分の立場を冷徹に見極めることができる女だった。不敵な自信に満ちた高飛車な女だったが、玄太郎は幸恵のその颯爽とした姿に何か魅かれるものを感じ不思議と嫌悪感は抱かなかった。いや、それどころかむしろ好感とさえ言えるようなものを心に抱くのであった。
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