【 13 】



 見開く瞳は何も見てはいない。

 場所は十畳の子供部屋である。胡乱に呆けては渦巻く天井の木目を見つめ続けるサヤカは、先刻に交わされたミコトとのやり取りを追憶し、そして反復していた。




『わたしの、昔のことですか?』


 鸚鵡返しに尋ね返すサヤカの言葉へミコトも頷く。


『そう……でもその前にもう一つ大事なことを伝えなきゃいけないの』


 普段にはないミコトの真摯な様子に、ついサヤカも背筋を伸ばす。

 いつの時もミコトとの会話はサヤカにとって大切な時間の一つであった。


 家族のいない彼女にとってミコトこそは唯一目上の女性であり、サヤカがミコトに抱く感情は姉や、あるいは実母に向けるそれと同じ物であった。またミコト自身も慈愛を以て接してくれたから、まさに二人の関係は血縁のそれをといっても過言ではない間柄であったのである。


 そんな楽しいはずの対話に、今のサヤカは得も言えぬ不安を感じていた。本能は何を予期するものか、体の芯をむず痒くさせてはサヤカに尻座りの悪さを感じさせている。

 その様子にミコトもまた何かを察したようで小さなため息をつく。


『まずは……そうね。サヤカ、あなたは今日で消えるのよ』


 どう言葉を噤もうものか考えていた様子ではあったが、ミコトはストレートに伝えることにした。その方がサヤカの受け取りも早いであろうし、またミコト自身も説明がしやすいと判断したからだ。


『え……消えちゃうんですか? わたしが?』


 一方でサヤカの表情にもあからさまな恐怖の色があらわれた。開口一番に死の宣告など受ければ仕方も無いことではあろうが、それでもサヤカの漠然とした不安は晴れない。


 まだ何かある。ミコトの言葉の真意は、もっと衝撃的なことを自分には伝えようとしている──そうサヤカは本能で理解していた。

 斯様にして自分の話に前のめりとなるサヤカを確認し、ミコトも順を追って説明をしていく。


『「タナカ・サヤカ」としては、ね。……明日からはアンタは、『ウエノ・シズカ』として生きることになるわ』


 またしても不可解な物言いをしてくるミコトにサヤカも首をひねる。


『ウエノ……シズカ、ですか?』

『そう。もし今夜を生き延びられたら、警察でもどこの家でもいいからとにかく保護してもらって今の名前を言いなさい。そうすれば、一生不自由なく暮らせるようには手筈してあるから』


 そのことを告げると、サヤカを見つめるミコトの視線が幾分やわらんだ。

 しかしサヤカはその表情に寂しげな色が満ちていることに気付く。


──ミコトさん……泣いてるの?


 ミコトの表情そのものは、ここを訪れた時と全く変わってはいない。それでもしかし、サヤカはその内なる感情を過敏に感じ取っていた。


 幼子でありながら……否、幼子であるからこそ保護者である大人の感情や顔色を読むことには長けるものであるのかもしれない。あるいは家族同然に過ごした日々と二人の関係が、互いの間に隠し事の出来ない親密な絆を生み出していたのであろう。


 ミコトのそれを察知した時、サヤカは他人ごとに関わらず強く胸の締め付けられる思いがした。


『ミコトさん、悲しいの……?』


 そしてそんな思いは声となって漏れた。


『……え?』


 それを受け、ミコトも不意を突かれたのか僅かに瞼を剥いた不用意な表情でサヤカを見る。


 意外であった。

 しかしこのようなことは初めてではない。

 サヤカと生活を共にするようになってからの日々は、こうした自身への発見に驚くことの連続であった。


 それまでのミコトには、キリンジ以外への『他者への感傷』というものが全く無かった。そのように育てられたことも然ることながら、斯様な感情を発露させる相手がいなかったからだ。

 内外の社会における付き合いは全て、差し障りのない上辺一辺のものであり、いつしかミコト自身もそんな自分の歪さを享受して長じるに至った。


 しかしそんな自分を変えてくれたのがサヤカの存在である。

 当初は同情と、そしてキリンジが彼女へ固執することへの興味程度でしかなかった。


 今まで通りに、他者(サヤカ)の気分を害さぬよう上辺の優しさと付き合いを以て接していたミコトではあったが、徐々にサヤカへと対する感情は複雑さを増していった。


 ある時、向けられる笑顔を愛しいと思った。

 幼子の向けるそれは愛玩動物に抱く感情と似ていたのかもしれないが、それでも殺す・殺されるの世界の中で『他者へ慈愛を施す』経験のないミコトにとっては、それは新鮮なものであった。


 キリンジとも親密な関係を築いてはいたが、彼女サヤカからもたらされる温もりと教育の反映というそれは、また違った充実感があった。

 徐々に二人の付き合いは深くなり、やがてサヤカの笑顔に自身もまた笑える段に至っては──ミコトは完全な『人間』となっていた。


 すべてはキリンジと、そしてこのサヤカのおかげであった。

 そして今もまた……


『ミコトさん、悲しいの? 私のせいで悲しくなっちゃってるの?』

『サヤカ……』

『ごめんなさい。私、何もしてあげられない……ミコトさんになんにもしてあげられない……』


 ミコトの心情を察しては己の無力を悔いるサヤカを前に、ミコトは息も出来ないほどに胸が締め付けられる思いがした。


 愛しいと思った。そしてその想いは行動に出る。

 片膝をついて起き上がるや、ミコトはサヤカを抱きしめる。


 強く抱きしめては腕の中の体温と匂いを堪能する──『サヤカ』という存在を、全身を以て確かめた。


──なんて幸せなんだろう……


 なおも強くサヤカを抱きしめ続けたままミコトは幸福を感じた。

 天三宝に生まれたことも、無慈悲な任務に身を置いた過去も、そんな辛く悲しい思い出までもが愛しく感じた。

 そして同時に決意を新たにする。


──……何としても救わなきゃ。キリンジとサヤカだけは、命と引き換えにしても。


『んむッ……んむむ、ミコトさん、苦しい』


 やがて腕の中でサヤカが声を上げる様子に気付いてミコトも抱きしめる力を解く。


『あぁ……ごめんごめん。まだ話の途中だったね』


 冗談めかしながら開放するや、僅かに目じりに浮いた涙を見つからないように拭う。

 改めて座り直すと、ミコトは話の続きをサヤカに聞かせた。


 ミコトが聞かせるそれは、キリンジに話したものと同じ『皇天記』の一節。

 しかし天三宝を知らぬサヤカにとっては単なるお伽話の類であるはずのそれを──


──なんなの? ……ドキドキする……


 サヤカは得も言えぬ悪寒を感じながら聞いた。

 心の底にはまるで、過去の罪業を露見されているかのような嫌悪が湧いている。

 やがて、


『──皇天様を縛り付けた、月の鏡・星の珠・太陽の剣の三宝……その『太陽の剣』がアンタなのよ、サヤカ』


 太陽の剣──その単語にサヤカは引き付けるようにして体を硬直させた。


──私、知ってる……その剣のこと、知ってる……!


 やがてはそれを自覚すると同時に戦慄もまた覚えた。


『太陽の剣』に関する既知感は、記憶や記録といった後天的な情報ではない。それよりも以前……遡っては己が生まれる以前より前から、遺伝子へ刻まれた知識情報の数々である。


 それらが今聞かされる皇天記を呼び水にして、止めどなくサヤカの中から溢れ始めていた。


『太陽の剣……それは、すべての鍵を断つ、最後の封印………』


 いつしか俯いてはそのことを呟きだすサヤカの様子にミコトは眉を顰める。

 そのサヤカの反応たるや明らかに尋常ではない。予断はならないと気を引き締める。


 ミコトとて三宝の神器たる存在の全てを知るわけではないのだ。もしかしたらその事実を知らされることによって、劇的にサヤカに変化が生じてしまうこともまた予想が出来た。


 もう話すのはやめようか──ゆえに幾度もそう思った。

 しかしながらその都度、ミコトは思いとどまる。

 これは、サヤカの問題なのだ。


 何も知らずに生まれ育ったのであれば、知らぬままに生涯を終えることも出来たであろう。しかしながらサヤカの運命──三宝の神器としての宿命は、堺家に拉致されたあの日に動き出してしまっていた。


──何も知らずにいたら、本当に『道具』としてだけの人生しか歩めない

 それこそは天三宝の自分達姉弟と同じだ。そのことをミコトは危惧するのである。


──正面からこのことと向き合えたのならば、あるいは『道具』以外の生き方を見つけられるかもしれない……!


 そのことにミコトは賭けた。

 たとえ今は傷つける結果になろうとも、将来においてはこのことがサヤカの人生の糧になることを信じてミコトは罪の告白を続けた。


 そして話は島根山陰の社における田中家襲撃の件(くだり)を語り始めた矢先──サヤカに明らかな変化が現れた。


「島根県の谷深い山陰の一角に『望月剣(もちづきのつるぎ)大社』という神社があってね、そこには代々、三宝の一角である太陽の剣を守護する一族が住んでるって噂されてきたの」

『しまね……もちづきの、つるぎ……』


 ミコトの口から紡がれる単語に、様々な記憶が明滅しては火花のようにサヤカの中でよみがえる。

 背の低い幼子の視点で見下ろす石畳の光景や、同じくに見上げる巨大な鳥居のその姿──それらは明らかに、ここ堺家における記憶などではない。


『そこに住まう一族は太陽の剣を守護することを任務とした。──その剣っていうのは物理的な刃ではなく、一族の血脈に流れるある種の『超能力』的な力のことを指したと言われてるわ』


 しかし『剣』を持つ者は、必ずしも一族の中に存在するということはない。世代を跨ぎながらある時、不意に一族の誰かにそれは現れた。田中家の歴史とは、その剣の所持者となった者を守り奉ることにある。


 而して1990年代となる現代、『剣』は顕現した。

 それこそが、


『わたし……ですか?』

 田中紗夜香──彼女である。


 その父たるアシナは計らずも剣の守護者となり、島根の谷深い山陰の社においてサヤカを守り続けていたのだ。

 そして時同じくしてそこに刺客が放たれる。それこそがキリンジとミコトであり──その果てに父は殺されて、サヤカは連れ去らわれた。


『うそ……嘘ですッ!』


 突如としてサヤカは声を上げる。肺の空気を絞り出すようにして叫び、それを否定した。ミコトの話を遮った。

 それでもしかしミコトは話を続ける。


 その後サヤカは、実父を目の前で殺されたショックから記憶喪失に陥り、この堺家において二年近い時を過ごす。

 ミコトを姉と慕い、キリンジを兄と愛し、同室の子供たちを兄弟として親しんだ──それらも全ては、堺家による天三宝のエゴに他ならない。

 誰よりも奪われ、そして傷つけられた少女は哀れにも、己を取り巻く環境を幸福として享受していたのであった。


『うそッ、うそうそうそッ……嘘だぁ……!』


 いつしかサヤカは両のこめかみを抑えては地の敷布団へ額をこすりつけていた。

 幾度となくその事実、ミコトの話を否定しようと躍起になる。


 それでもしかし……頭の内から湧いてくる記憶の再生は言葉以上の説得力を以てミコトの話を裏付けし、さらにはサヤカを苛んだ。


『はぁはぁはぁはぁ………』


 幼児期に島根の生家で過ごした記憶が徐々に鮮明となる。

 祭事を覗き見たこと、未知の味に感嘆したこと、夕の暮れと朝の夜明けを眺めたこと、父の笑顔、空気の匂い、


『はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ………』


 夜の気配、篝火の炊かれた境内、そこを訪れた黒づくめの刺客、戦う父、何者かによって羽交い締められながらそれを見守る自分、無残にも目の前で惨殺される父、そしてその父を見下ろしては茫然と立ち尽くす刺客……振り返るその顔は、キリンジであった。


『あ、あああ……、あ、ああああああああああああ………ッ』



 あの夜と、そして今が直結した。

 


 あの夜と同じように──サヤカは叫んだ。


 声の限りを出した。

 涙は止めどなく溢れ、口角からの垂涎とて意に介さぬ。失禁を果たし発汗し、体の中のありとあらゆる衝撃を身の外へ放出しようという、幼さゆえの防御反応──。


 それを前にしてもなお、ミコトは黙して見守った。しかし見つめる表情は一切の感情を消した鉄面皮を貫きつつも、あふれる涙を留めることは出来なかった。


『アタシが悪いのよ……アタシが全ての原因なの』


 やがては独り言つるよう語り掛ける。

 もはや今の状態のサヤカに自分の声など遠いことは百も承知でなお語り掛ける。


『あの襲撃の前の日、アタシは殿から天三宝の全てを告げられていた。その中においてアンタがどんな役割を果たすのかも、そして決して幸福にはなれないことも知っていた』


 逃がそうと思えばあの時のミコトにはそれが可能だったのだ。それでもミコトはしかし、


『出来なかった……『道具』である性(さが)が、それの邪魔をした。疑問を持ちつつも、アタシはアンタを誘拐して、今日まで謀ってきた』


 さらにミコトの告白は続く。


『どんなに上辺じゃアンタのことを『愛してる』って思っても、所詮は『田中サヤカ』のことをアタシは『道具』としてしか見られなかった……』


 サヤカを拉致しに行ったあの晩、アシナと対峙するキリンジが不利と見極めるや、ミコトはサヤカを盾にしてアシナの動揺を誘った。そして今宵においてもシュラを迎える段に至り、不審に気付き抵抗するであろうキリンジを制する目的でミコトはサヤカを呼んだのだ。


『人』と『道具』の狭間を行き来するミコトの無念と後悔が訥々と独白のように語られた。


『ごめんなさい……どんなに謝っても、償いきれるものではないわ』


 やがて鼻を一つすすり涙をぬぐうと、ミコトは謝罪と共に立ち上がった。


『キリンジは……アンタのお兄ちゃんは何も悪くないのよ? だから……恨むならどうかアタシを恨んで』


 なおも叫び続けるサヤカを一瞥して、小さくミコトは微笑む。


『さようなら……元気でね』


 そして別れの言葉を告げると踵を返す。

 背を向けて遠ざかるミコトはもうサヤカに振り返ることはなかった。




「…………ミコトさぁん」


 その全てを、サヤカは思い出していた。

 思い出すたびに涙が頬を伝った。

 しかしながら徐々にサヤカもまた冷静になりつつあった。

 それこそは、


──ミコトさんは……いい人だ。


 ミコトを信じる一途なまでの想いがサヤカの曖昧な意識を統一させた。


──キリンジさんだって、そう………


 何処を見るでもなく漂っていたサヤカの視線が正眼に定まる。


──確かめたい……二人からもう一度聞きたい……


 ついにはゆっくりとサヤカは上体を起こす。

 そして、


「お話がしたい。ちゃんともう一度……みんなでお話がしたい!」


 その決意が体に漲った時、サヤカは意識せずに立ち上がっていた。

 そうして近くに誰かいないかと周囲を見渡したその時、


「わ、わあぁッ? な、なに?」


 地響きと共に足元が沈む感触にサヤカは上体をのけぞらせた。

 辛うじてバランスを保ち周囲を見渡せば、そこには自分ただ一人が立ち尽くすばかり。


「リツちゃん? チカちゃんもマル君もいないの?」


 つい先ほどまで隣立っていたであろう隣人の消失にサヤカも頼りない声を上げる。

 周囲からはやがて、火薬と思しき薬品のすす焼けた臭いが漂い始めていた。


 先の轟音と合わせるにそれが発破による衝撃であった事──突き詰めてはこの屋敷が、何者かに襲撃されているであろうことをサヤカは悟った。


「あの時と同じだ……お父さんが死んじゃった時と同じ……」


 思い出したくもない既知感にサヤカは身を震わせる。

 そして大切な人を失ったその記憶の再生は同時に、



『さようなら……元気でね』



 記憶の中の、ミコトの最後の言葉もまたサヤカに思い出させる。


「いけない……ミコトさんが、あぶない!」


 その想いが、小さなサヤカの恐怖を払拭した。

 小刻みな呼吸を胸に繰り返し、震える足に精一杯の勇気を漲らせてサヤカはゆっくりと歩みだす。


「もう一度、ミコトさんとキリンジさんに会うんだ……もう誰も死なせたくない!」


 たどたどしい足取りで部屋を出るサヤカ。

 障子戸を開け放ち廊下へと出ると、サヤカは目的地も分からずにただ歩きだしていた。


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