【 12 】
白があった。
白い光──否。白い影──否。
その空間の一点そこだけが、人の形の虚無に切り取られている。
やがて虚無は小さな足音を引きずってミコトの前へ、さらにはキリンジの視界へと歩み進んだ。
現れたのは、身の丈もミコトと変わらぬほどの老人──白の着流しの上に纏う兵児帯と羽織、さらには足袋に至るまでの悉くが白の一色(いっしき)に統一されたいで立ちの姿であった。
斯様な衣類の所々には、堺家の家紋があしらわれている。三日月の中央に丸と、さらには月が欠ける左袈裟の上部に点が一描穿たれた意匠は、月・星・日を象徴した『天三宝』もまた意味するものである。
それに身を包む、色素の欠落した白羽の禿鷲──この老人こそが堺家当主にして、現天三宝の首領である境 神威(さかい・カムイ)その人物であった。
そんな首領との再会に……
「殿……」
キリンジは内部に湧き上がる嫌悪を抑えながら、呟くように応えた。
「久しいな、キリンジよ。体に変わりはないか?」
長く伸びた首から上には既に体毛羽毛の類は一切無く、肉のこけた余り皮を喉元に震わせるその姿たるや、獣化以前の印象と全く変わっていない。そんな実父でもあるべきカムイを前にする時、何時もキリンジは得も言えぬ恐怖に心を囚われた。
かのカムイからは、一切の人間性が望めなかったからである。
それは天三宝において『道具』たるべき自分もそうではあったが、カムイに感じるそれはまたキリンジ達のものとは一線を画した。
感情を始めとする生物としての尊厳も、物体としての立体感すらをも感じさせないその存在は、ただ『天三宝』という象徴そのもの──言うなれば『闇』である。
白く、さりとて光などではない『白き闇の化身』……それこそが、境カムイを形(けい)する全てであった。
「ミコトよ、下がれ。来るべき時に備えよ」
格子越しのキリンジに向き直るやカムイは抑揚なくミコトへと発する。
それを受けミコトもまた慇懃に首を垂れると、もはやキリンジには一瞥もくれずにこの場を中座するのであった。
後には、キリンジとカムイのみが残された。
しばしの沈黙の末に会話の糸口を紡ぎ出したのは、
「……お尋ねしたい因(よし)がございます」
キリンジであった。
機嫌取りの気遣いなどではない。キリンジには時間が無かった。
このカムイでなければ知りえないであろう疑問の数々は、今この瞬間においてしか問い質せないことをキリンジは知っている。もはや、畏怖や礼儀などと形振り構ってなどはいられない。
──ミコトの行く末がかかっている……!
一方でカムイも冷静沈着なキリンジの平素を知るからこそ、そのどこか殺気立った気配に興味をそそられたのかも知れない。
「申してみよ……」
家臣の非礼を咎めることなく応じた。
「先の客人シュラ殿は、我らが主である皇天様の御使いと聞きました」
「左様」
「それに伴い、皇天様の降臨の為にミコトがその器になると」
「左様。名誉である」
「ならばお尋ねしたい!」
明らかな怒気がキリンジの言葉に現れた。
「その後、ミコトはどうなりますか? 皇天様が降臨後もミコトはミコトで在り続けられますか?」
己の額に鈍い痛みが生じているのがキリンジにはわかった。おそらく今の自分は、有り丈の力を眉間に込め、自身では想像もつかない形相をそこに作り出しているのだろう。慣れぬ表情を作ることに顔の筋肉は緊張して、斯様な鈍痛を生じさせているのだ。
しかしそんな鬼気迫るキリンジを前にしてもなお、カムイの表情に変化は現れない。
ただキリンジを見つめた。……否、正中に射られる視線はキリンジを捉えているのかどうかも怪しい。キリンジを透かし、そのさらに奥の何かを見透かしているようにも見えるのだ。
この視線に射竦められる時、
──命が、吸い取られるようだ……
いつもキリンジは得も言えぬ感覚に動悸を乱れさせた。
今も然りである。
ミコトの切羽詰まった状況を前に逆上していたはずが、いつしか冷静さを取り戻している。
──そうじゃない……
キリンジはそんな自分を顧みては頭(かぶり)を振った。
この時のキリンジは──恐れていたのだ。
目の前に立ち尽くすカムイの視線……さながら、冥府と通じる洞を見つめるが如き双眸にのぞき込まれて、キリンジは完全に委縮してしまっていた。
「元に戻るのだ」
突如のカムイの声にキリンジは我に返る。
気付かぬうちに止めていた息を吐きだすと、通じた気流が喉を逆撫でる感触に咽ては大きくせき込む。
垂涎に意も介さず見上げるそこには、カムイの瞳が落ちくぼんだ眼窩の奥からキリンジを捉えていた。
──先ほどよりは、耐えられる……
改めてそんなカムイを見返すキリンジに、
「我らは皇天様より出(いで)し身……故に戻るだけだ」
「ならば、ミコトはどうなります? もし、皇天様の精神と入れ替わるようなことがあればミコトはどうなりますか? もし消えてしまうようなことがあれば、それこそは死と同義ではありませんか!」
ようやくキリンジは当初の疑問をぶつけることができた。
それを受けてもなお、カムイは微動だにしない。
今の言葉に考えを巡らせているのか、あるいはキリンジを観察しては愉しんでいるのか……鳥類の姿を持つカムイの瞳からは、その思惑の一切が読み取れなかった。
しばししてしかし、
「……面白い」
呟いた。
返答に使うような言葉ではない。初めてカムイは感情らしき意識の発露を見せたのである。
「命に富む地球が『現世』とする一方で、波打ち際の境界を引き手繰る月は『隠り世』とも比べられることがある。すなわち月こそは、『黄泉』との見方もあるのだ」
話を続けるカムイの言葉はキリンジへ向けられながらもしかし、その響きには自身の考察を声に出してまとめているような独白の趣きもあった。
「謂わば皇天様は冥界の創始者であり、かの者を迎合するにはそれを受け入れる者もまた黄泉の者とならねばならぬ。……なるほど、道理ぞ」
やがては納得したのか小さく頷くカムイの言葉にキリンジの感情は益々以て逆撫でられた。
「ならば、そのためにミコトを殺すというのか!?」
ついに怒号が浴びせかけられた。
もはや一族の長に対する礼儀などは無い。
ただ愛する者の消滅を予期させられたキリンジの精神は、野生の本能もむき出しに目の前のカムイへと敵意を発露させていた。
そんなキリンジを前にしてもなお、
「落ち着け……」
再びカムイは射竦める。
しかし今度はキリンジも怯まない。
「させない! かならず阻止してみせる‼」
大きく身を捩じらせるや、全身を包む拘束衣を引き千切らん勢いで全身を揺さぶる。
その様をただ静観するカムイにはこの先の未来が予測できていた。
しばし暴れるキリンジの汗に反応し、拘束衣はたちどころに収縮を始めてはキリンジを緊縛した。
「うぐぉ……ッ!」
その締め付けたるや、痩躯のシルエットが浮き彫りになるほどに凝縮してはキリンジに満足な呼吸もさせないほどのものである。
やがては窒息し、再び首をうなだれるキリンジを見定めるや、
「己の体を傷つけるような真似は慎め……その身は、いずれ堺家の当主となる身ぞ」
そうカムイは憐憫の言葉を掛ける。
斯様な声掛けを平素からカムイはキリンジにした。
任務の前後にはそれの進捗を問うよりも先に、キリンジの身体に異常が無いかを先ずに確認するほどだった。
斯様に思遣のある言葉はしかし、キリンジそのものではなく、行く行くは堺家の次代を担わせるための気遣いでしかないことをキリンジは知っていた。
「その言葉……騙されません……ッ」
親が子に持つ愛情などはけっしてカムイには見られぬ。
何故ならば、
「貴方は今、実の娘の死を微塵も顧みなかった……! そんな人間の言葉に、どれほどの説得力があろうものか!」
再びキリンジは顔を上げた。
拘束衣の緊縛は今もなお、キリンジを縒り絞るかのごとくに締め付けている。それでもしかし、キリンジは怯まなかった。
肉親に対する反抗心と愛とが、キリンジの意識をよりいっそうに強くさせた。
そんなキリンジを前に再びカムイもまた口を噤んだその時である。
轟音が──遠い雷の如き地響きが僅かに二人の耳に届いた。
それを受けキリンジとカムイは、同時に天へ視線を仰がせる。
「なんだ? 何が起きている?」
キリンジの問いにもしかしカムイは応えない。
ただ踵を返すと、牢にキリンジを残したままたその場を後にした。
しかし立ち去り際、
「キリンジよ、このまま此処に留まれ。この場所ならば『彼奴』らに見つかることもない。全てが終わり次第、迎えをよこす」
もはやキリンジの反応すら確認することなく吐き捨てるや、足早に牢を後にした。
「待て! まだ話は終わっていないぞ‼ 彼奴らとは誰だ!?」
歩き去りつつもすでに遠い背に掛けられるキリンジの声に、カムイはこの時初めて笑みを鳥面に満たした。
「何者でもない、皇地ぞ……ついに、時は来れり」
キリンジに答えたものか、はたまた永らくの期待であったそれに喜悦したかは定かではない。
カムイはただ、足早に来た道を取って返す。
その足取りはひたすらに颯爽であった。
心軽やかに、まるで待ち焦がれた旧友との再会を予期するかの如くに──カムイは破滅の始まりへ想いを馳せた。
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