【 10 】


 時は僅かに遡る。


 闇の中においてキリンジは覚醒した。気配を感じたのだ。何者かが自分がいるこの場所へと近づいてきている。


 生家でもあったこの建物のことをキリンジは隅まで知り尽くしていた。

 新宿御苑の敷地内──北側へ少し入ったその場所にこの屋敷は建っている。


 周囲を覆う木々によって、外部からこれの景観を窺うことはまず出来ない。それ故かこれほどまでに広大な土地家屋と道場を構えながらも、この堺家の存在を知る者は少なかった。

 あるいはこの屋敷を確認したとしても、たいていの人間は皇族所縁の家屋か、あるいは施設だと思い込んでいる場合がほとんどである。


 平屋作りの広大な屋敷の内部には地下二階部に、幽閉と監禁を目的とした区画があった。

 そこには座敷牢とも兪やされる、10センチ角の間隔で組まれた木枠格子の部屋が数個設けられており、その中の一室に自分が居るであろうことをキリンジは感づいていた。


 現在のキリンジはその牢の中、全身を麻の拘束具に覆われて直立を強いられている。

 この身を包む拘束具それは、一見するにツナギの作業着に似た。腕を通した両袖は腹の前で交差されて背に回され、一周した袖口通しが結ばれる造りである。

 加えてブラジル産のこの麻は、高温多湿産の特質として水分を吸い込むほどに繊維が凝縮し、身を包む者を拘束するように作られている。もし力づくでこの戒めを解こうともがこうものならば、捕縛者の汗を吸った布地はよりいっそうに縮まっては緊縛を強くするのであった。


 斯様な状況においてうっすら瞼を開ければ、現実世界における視界もまた闇一色であることが窺えた。その中で耳をそばだてると、何者かがこの場所への階段を下りてくる音が聞こえてくる。

 歩調、反響する音の重さ、衣類の衣擦れ──それらからキリンジには、ここに向かってくる誰かのおおよその見当がついた。


 足音はこの階へと降り立ち、尚も静かにこちらへと歩み進めてくる。やがては自分の牢の前で立ち止まり、体の向きをキリンジへと向けた。

 格子越しにこちらを熟視し、観察しているであろうその視線を痛いほどに感じる。暗がりとは言え夜目が利くキリンジも、あえて目の前の人物を確認することなく僅かに面を伏せては相手の反応を待った。

 やがて、


「………どういう気分かしら?」


 声が掛けられた。

 想像通りのその響きに、キリンジは小さく鼻を鳴らす。

 やがては閉じかけていた瞼を開き、上目に見上げたその先にあったものは──


「無様ね」


 誰でもない、ミコトその人であった。

 上下のブレザーにワイシャツ。タイこそは外したラフないで立ちではあるが、学校指定の制服姿は先の騒動から何も変わってはいなかった。

 そんなミコトから射られる視線それは、冷ややかで硬いものである。

 半ばに瞼を閉じた瞳のそれは、さも興味も無いものを眺めている時のように倦んだ無関心さがあった。


 そんなミコトをキリンジもまた見返す。

 その表情もまたミコトのものに似ていた。否、どこか憔悴した気配を醸し出すキリンジのそれは、眠気を堪えて作業に従事している時のような無関心さである。

 互い暗がりの中ではあるがしかし、この程度の闇であるならば十分に夜目が利くように訓練されている二人には、そんな互いの表情が昼光の元のように確認できた。


 そのなかで二人は数時間ぶりの再会を果たしたのである──凡そ、最悪の形で。


「……莫迦な男ね」


 再度、あきれ果てたといった風にミコトは鼻を鳴らす。


「愛だのなんだのって、騙されてるとも知らずにアタシのこと信用して、その結果がこれ……」

「…………」

「一族始まって以来の天才だって持て囃されはしても、中身がこんな盆暗じゃ殿も顔が立たないわね」

「…………」

「まあ、アタシも楽しませてもらったわよ? アンタは最高の玩具だったから」

「…………」

「騙されてるとも知らずに信用して、野良犬みたいに知恵も思慮深さも無く懐いて……本当にいいペットだったわアンタ」


 淡々と語り掛ける闇の先、僅かにキリンジは顎を引くとミコトに定めていた視線を俯かせた。

 やがてはミコトも、見つめるキリンジの前頭が小刻みに震えだし、前髪が僅かに揺れるその様に、


「あら? アンタ泣いてるの?」


 それを見咎めて吐き出すように嗤った。


「いい歳して、いっちょ前に背だけはでかくなって……そんないい男がたかだか自分と一つも変わらない女の子の言葉に反応して泣いちゃうなんておかしくない?」

「ッ……、………ッ」


 先ほどまでの表情とは一変させて、今度は方眉を吊り上げてはあざけりの表情を剥けるミコト。


「だったら泣いてみせてよ? 退屈なアンタの世話をしてやった礼代わりにさぁ、惨めったらしく泣いて悔しがって、その様でアタシを楽しませてちょうだい」


 両肘を抱くようにして腕を組み、前傾しては格子に鼻先を突き付けてキリンジを眺めるミコト。

 それを前にしてさらにキリンジの震えは大きくなる。

 そして斯様なキリンジから紡がれた言葉は、



「く、くふふッ………似合わねぇ……」



 笑いであった。


 しかも極力それを押し殺し、息が詰まるほど爆笑しだしたい衝動に耐えているであろうそれ。加えて笑みの表情を悟られぬよう顔をそむけるに至っては、ミコトに気遣いを見せているかのようですらある。


「あん? なに言ってるの? 本当に莫迦じゃないの?」


 それを受けてミコトも身を引くや、今度はあからさまな嫌悪を表情に浮かべては反応する。


「逆にアタシを見下してるのかしら? でもおあいにく様、アンタがどう思おうと現状は変わらないわよ?」

「ッ……ふふ、ふ………」

「そうやって最後まで莫迦でいるといいわ。利用されてたことも気付かずに、なおかつ虚勢を張る自分に最後は絶望して死ぬがいいわ」

「く、くくく………ッ」



「アンタは所詮アタシの……──って、いい加減にしなさいよこの唐変木!」

「ッ~、あはははははッ! お前、そういうことまでやるんだなミコト」



 ついにはその対応に切れて本性を剥きだすミコトを前に、キリンジもまた声を大きくして笑いだしてしまうのであった。


「『アンタはアタシの玩具』? 『絶望して死ぬがいいわ』? ッどひー‼」


 この男には珍しい爆笑のキリンジと、


「んああぁ~‼ やめてよ! こっちだってそれなりにキャラ作って挑んできたのよ‼」


 羞恥に耐えかねては頭をかきむしるミコト──凡そ牢獄には似つかわしくもない、楽し気で暖かいやり取りが此処には満ちていた。

 やがては一頻り感情を発露させては落ち着くと、


「あー……なんっていうか、ごめんねキリンジ」


 バツも悪そうにミコトは切り出す。


「本当に、なッ。……とはいえ、殿の指図なんだろ?」


 それを受けてキリンジも小さく鼻を鳴らす。

 一連のミコトの言葉と態度は、その全てが演技であった。


 彼女なりにキリンジを貶めてしまったこと、そして何の説明もないままに今日まで騙してきてしまったことへの罪悪感もあった。

 ならばいっそのこと、自分一人が悪役に徹すればキリンジも気持ちの整理が着きやすいのではないかと気遣ったのである。


 事実、シュラの出現から始まる今回のキリンジの捕縛に関しては、複雑極まりない事情と事象との因果がもつれ合っている。それを説明したところで困惑するばかりであろうし、実のところミコト本人とてその全てを把握しているわけではない。


 考え込んでしまうキリンジの性格を知るミコトは、ならばその思考・感情の矛先全てを自分(ミコト)一手に集約させることで弟の心を安寧させてやろうという老婆心ゆえの行動であった。……もっともそれも、自分が恥をかくばかりの徒労に終わったわけだが。


 一方で、誰よりもキリンジを理解して思い遣るミコト同様にキリンジもまたミコトを理解していた。しかしながら掛けられる言葉の真意を察する以前に、演技掛かったミコトの仕草にキリンジは抱腹絶倒を禁じえなかった訳である。


 真に心を通わせた瞬間の相手同志には、隠し事など出来ないものであるのかもしれない。そのことをキリンジとミコトは、



──手に取るように分かるもんなんだな。

──コイツ以上にアタシのこと分かってる奴もいないもんね……。



 それぞれに悟っては、片一方は笑いと、そして片一方はため息とでそれぞれに実感した。

 そんな思わぬ形でそんな互いの愛情を確認した後、


「何が起きてる? 何が起ころうとしてるんだ?」


 キリンジは漠然と聞いた。

 それを受けて再びミコトも視線を戻す。


「変な聞き方をしてすまない。でも、本当にどう聞いたらいいか分からないんだ」


 謝る通りキリンジ自身、どこに質問の要点を集約させたら良いものか考えあぐねていた。

 もっともミコトもそれを知るからこそ、


「いつから知りたい?」


 同じく漠然と答える。


「もし最初からっていうのならだいぶ長い話になるけど、ついてこられる?」

「ミコト次第だな。分かりやすく頼むよ」


 キリンジの返答に、肘を抱きに天を仰ぐミコト。しばし瞑想して思考を取りまとめるや、


「──それじゃ、まずはこの家のことから。……天三宝と堺家のことについてからね」


 ミコトはゆっくりと視線をキリンジへ戻し話し始めた。



 天三宝と堺家、キリンジとミコト、サヤカ、そしてシュラの出現と獣化現象──その因果関係の全てが今、ここに集約されようとしていた。

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