【 9 】


 春雷のような遠い声のこだまにサヤカは覚醒した。

 それでも肉体はまだ意識と同調せずに起き上がること叶わない。しばし瞳を閉じたまま反響する声に耳をそばだてると、やがては明瞭となったそれらが友人達によるものであることが分かってくる。


──あれ……? リッちゃんとチカちゃん?


 その声の主を特定すると徐々に意識も自我の輪郭を持ち始め、頭は肉体と直結する。

 そうしてうっすらと瞼を上げると、


「──あ? 起きた。サヤカちゃん起きたよ」

「おー。おはようサヤカ~?」


 仰向けに寝転ぶ視界には、少女二人の顔がのぞき込んできた。

 一人は鷹と思しき少女である。眉間から頭部を経て背に走る黒銀の羽毛は精悍にもしかし、嘴に眼鏡を掛けた瞳は黒く円らで、見た目の豪奢さとは裏腹の幼い印象を覚えさせる。


「意気揚々と出掛けてったと思ったら、すぐに全裸で帰ってくるなんて何があったの?」


 そしてもう一人は黒猫の少女。全身を余すことなく染め上げた涅色(くりいろ)の深さたるや、黒の輪郭の中に青の瞳が二つ浮いているかと見紛うばかりの鮮やかさ。歳の頃はサヤカや先の鷹の少女と変わらぬにも、彼女からは凛とした美しさが窺えるようである。


「リッちゃん……チカちゃんも?」


 依然として仰臥のまま、サヤカはそんな二人を交互に見やる。鷹の少女がチカ、そして黒猫の少女がリツといった。

 さらにそこへ、


「起きたのかッ? サヤカ、起きたのか!?」


 高く慌てた少年の声。

 見下ろしているリツを押し分けて声の少年もまたサヤカの視界に入り込んでくる。

 こちらは黒の毛並みが顔の中央を走る白の毛並みで左右対称に分けられた犬の少年。長髪を思わせる垂れた耳に、大きな瞳と眉だけ丸く色の抜けた容姿たるや、先の少女二人よりも愛くるしさに満ちている。


「あ……マル君。みんな、おはよ……」


 そんな面々に対しなんとも間抜けな返事を返すにもしかし、そのサヤカのいつもと変わらぬ様子に一同は胸をなでおろす。


 そうしてゆっくりと上体を起き上がらせて見渡せば──そこは堺家における自分達の部屋。10畳の居室にはその四隅それぞれに文机と行李、そして折りたたまれた布団とが置かれている。

 サヤカと先の三人の子供達はこの部屋において共同生活をする仲間である。


 みな歳の頃はサヤカと変わらないように見えたが、年功というのならばリツがこのメンツの中では一番初めにこの天三宝へ来ている。次いでチカ・マル・サヤカと続いては、それがこの部屋の序列となっていた。


「でも、驚いたよ? エジの人が裸でびしょ濡れのサヤカちゃんを連れてきた時は、てっきりどこかで溺れたんじゃないかって思ったもん」


 労わるように起き上がるサヤカの背へ手を添えながら、チカは数分前の状況を説明する。ちなみにここで言う『衛士(エジ)』とは、この天三宝における構成員のこと差し、もっぱら子供達の間では『大人』という意味にも使われている。


「マルなんか『サヤカが死んじゃうー!』って大騒ぎしちゃってさ、ずっと泣いてたんだから」

「り、リツ!」


 さらにはマルをからかいながら会話に参加してくるリツに、ようやくサヤカにも笑顔が浮かんだ。


「みんな、ありがとね。マル君も、もう大丈夫だよ」

「いや……別に心配なんかしてないから……」


 向けられるサヤカの笑顔に対しはにかんだ様子で視線を逸らすマルではあるが、隣のリツの尻を打ち据えるほどに尻尾を振る仕草に至っては、あからさまに内面の喜びが表へと現れていた。


「ちょっと、お尻さわんないでよね! いつもスケベなことばっか考えてんだから」

「ち、違うよ! そんなこと考えてない!」

「ど~だか? さっきだってサヤカ拭いたタオル抱きしめてボーッとしてたくせに」

「わ、わわー!」


 リツの意地悪な報告に慌てふためくマル。そんなマルをしばし不思議そうに見つめたサヤカではあったが、四つん這いに布団を抜けだして北隅の自席まで駆けるや、そこの行李から綿の手ぬぐいをひとつ取る。


「体拭いたタオルなんて汚いよ。はい、マル君。使い古しだけど、これあげるね」


 そして再び居室中央の布団に戻ると、サヤカは今しがた取り出してきた手ぬぐいをマルへ手渡すのであった。


「えッ……いいの?」

「うん、いいよ。たくさん拭いて」


 自分の所持物に反応する多感な少年の恋心など知らぬサヤカにしてみれば、単に清拭目的でマルが手ぬぐいを欲していたのだと勘違いしている始末。それでもマルはサヤカの手ぬぐいを手にするや、


「ふあ~……わふ~ん……♡」


 両手にしたそれで鼻先を覆い、暖を取るかのよう恍惚とそこに染みついたサヤカの残り香を堪能するのであった。

 一方で……


「……ちょっとマル、本当にやめなよね? マジでキモいよ、アンタ」

 そんなマルをたしなめたのはリツ。嫌悪に表情をしかめる建前、こちらはあからさまに嫉妬の色が浮かんでいる。

「ほら、やめなって。もう手ぬぐい仕舞いなさいよ」

「くふ~ん……んふ~ん……」

「ねぇ、聞いてんの? 言うこと聞きなってば」

「くぅ~ん………」


 依然としてサヤカの手ぬぐいにトリップしたまま、一向に自分の声など届かない様子のマルに対し、ついにはリツも切れる。

 やおら立ち上がるや、


「いい加減にしなさいよ、この駄犬!」


 マルの手から先の手ぬぐいを取り上げる。

 そしてそれにマルが抗議の声を上げるよりも先に、


「そんなに女の子の匂いが欲しいってんなら、いくらでもくれてやるわよ! ほらほらほらぁ‼」


 言うや否や、リツは両手にしたそれで激しく自分の顔をこすり上げた。


「あ、あぁー!? なにすんだクソババア‼」


 目の前で行われるその残酷な仕打ちに、ようやくマルも覚醒しては抗議の声を上げる。


「あら、まぁだ足りないかしら? それじゃあ……大サービス‼」


 注視してくるマルの視線に気を良くしたか、リツはさらに身に着ける作務衣の裾をたくし上げるやそこから手ぬぐいを忍ばせ、自らの腹や脇もまた大げさに擦りあげては一連の残酷ショーに終止符を打った。


「ふう……これに懲りたら、二度と私の前であんな無様さらすんじゃないよ」


 そうして絶望の涙目で見上げてくるマルの前に手ぬぐいを落とすリツ。食堂におけるオヤジの蒸しタオルよろしくに扱われてしまったそれを急いで拾い上げるや、


「ぶは! ごほッ、ごほ!」


 再び鼻先を覆い、吸い込んだ鼻孔に流れ込むリツの芳香に刺激されては反射的に咽る。

 そして在りし日の手ぬぐいを思置いおいては涙するマルの、


「サヤカの匂い無くなっちゃった……こんなに臭くなっちゃった……」

「あ゛ぁ?」


 あからさまに優劣を断ぜられたその言葉に──再びリツは沸点まで熱しあがった。


「チンコに毛も生えてないような子犬が、なによ生意気に‼」


 言うや否や作務衣の裾をたくし上げ、腰の脇に両手を添えるや下着の淵に親指を掛ける。そしてそこから尻を突き出しては一気に下降させてそれを脱ぎ取ると、


「思いしれ、駄犬!」


 やおら飛び掛かっては馬乗りに跨ると──リツは掌の中で丸めたそれをマルの鼻先へ押し付けた。


「ぶ、ぶわわー!? く、臭い! っていうか、すっぱいよリツ‼」

「これが人間の汚さ! 女のリアルよ‼ とくと堪能して反省しろチンパン!」


 抵抗するマルへ躍起になるあまり、ついにはその口中(マズル)の中へ先の下着を詰め込んでしまうリツ。……そこには乙女の純情も淡い少年の恋心もあったものではない。


 そんなリツの残虐ショーが繰り広げられている傍らでは、


「えぇ? キリンジさん、戻ってきてるの!?」

「うん。サヤカちゃんの氷嚢を取りに行ったときにエジの人達が話してるのを聞いたの」


 一方のサヤカはチカの報告に目を丸くした。……既にリツとマルのやり取りなどは日常的な光景ゆえ、傍らでどんな騒ぎが繰り広げられようともそれをスルー出来る能力が二人には身についている。


「しかもね、自分から戻ってきたんじゃなくて連れ戻されたんだって。サヤカちゃんは何も知らないの?」


 今日の夕刻、ミコトに呼び出されて外出したことを知っているチカはその答えをサヤカが知らないかどうか訊ねた。


「うう~ん……私も覚えてないんだぁ……」


 記憶が途絶えた時の瞬間を思い出そうと躍起になるサヤカも、やがてはそれも叶わずにため息をついた。


「あのね、シュラさんとお風呂入ってる時に背中から誰かに触られたの」


 首筋に触感を得た瞬間に気絶したことを説明するサヤカを前に、チカは彼女が当身の類で昏倒させられたであろうことを悟る。幼くとも天三宝に身を置くチカには、その時の光景が目に浮かぶようであった。


「──で、『シュラさん』って誰なのよ」


 今度はいつの間に戻ってきたのかリツからその問いが投げかけられる。ちらりと窺うリツの背後には、作務衣の腹部を黒く湿らせたマルが、口中に布切れを詰め込まれた状態で微動だにせず転がされていた。


「シュラさんってね、キリンジさんの所にやってきたお客様なの。優しくてね、兎でね、それでオッパイがこーんなに大きいんだよ?」

「若のお客さん? それって別の女を連れ込んでたとかじゃないの?」

「うん? シュラさんはもうおうちの中にいたよ?」


 初心なサヤカはリツの言葉の意味が分からずに繰り返す。リツもまたそれを窘めることはせずに、聞きだせるだけの情報を得ようとサヤカに話を続けさせた。


「そこにミコトさんが行って、それから私に手伝いに来てって電話してくれたの。あとはキリンジさんの家に行ってシュラさんとお風呂に入ってたら……──ゴメン、そこから先が分かんないや」


 サヤカの話を聞き終えるやリツとチカの二人は顔を見合わせる。やがて深くため息をつくリツと、苦笑い気に口角を吊り上げるチカの表情は、互い別なものでありながらも同じ想像を思い描いていた。


「それってさぁ、若の浮気現場に姫が遭遇しちゃったってことじゃないの?」

「それで気まずくなっちゃってサヤカちゃんを呼んだ……ってことかなあ?」

「ふにゅ?」


 痴情の縺れに関することであろうとするリツとチカの言葉など一向にサヤカは理解できず、ただ首をひねるばかりである。


 ちなみに先ほどから言われている『若』とはキリンジのことを指し、『姫』はミコトのことを指した。

 天三宝においてその首領たるべき存在は『殿』と呼ばれ、最上級の敬意と忠節を以て扱われる。そしてそれに準じて嫡男たるキリンジは『若』、そして長女たるミコトは『姫』と呼ばれていた。

 まだ堺家へ来てから日が浅く、客人の礼を取られていたサヤカなどはキリンジらを『さん』付けの敬称で呼んだが、天三宝に古くから身を置くその他多数が一族の名を口にすることなどは、決して許されてはいなかった。


 斯様に敬畏たるべき相手のスキャンダルなどは閉口に徹するべきではあるがしかし、まだ子供のリツ達に斯様な自制は叶わない。むしろそんな禁忌感も手伝ってか、それを囁き合う少女らの表情は実に楽しげであった。


「ってことはさぁ、そのシュラさんって人も一緒に連れてこられてるんじゃないの?」

「え……? 何の為に?」

「何のためにって、チカあんたねぇ。そんなの落とし前を着けさせるために決まってるじゃない。自分の男にちょっかい出されてるのよ?」

「えぇー? っていうことは姫が……?」

「当然よ。あの芯の強い姫が取られっ放しで黙ってるわけが──……」


 立て板に水とばかりに喋っていたリツの口元が、


「あぎゅッッ!?」


 突如として『いの字』にひしゃげた。

 それに次いで、


「り、リツちゃん!? ん゛きゃあッッ!」


 チカもまた両肩をすくめるや、頭頂部に生じた衝撃に強(こわ)く眉を歪める。

 おそらくは鈍器の類で脳天を強打されたであろうリツとチカ──その背後には、



「ちなみに礼儀知らずにも容赦ないわよ~? ア・タ・シ・は」



 目の前に掲げた右拳に力を漲らせるミコトの姿があった。

 その姿を確認するや──


「ひ、ひひひ姫ぇーッッ!?」

「あ、あわわわわわぁッ! すいません! すいませんんッッ‼」


 頭部に生じていた激痛もそこのけにリツとチカは地に平伏す。

 先にも述べた通り『姫』などと呼ばれるミコトは、この家において畏怖の対象であった。しかしそれは形式的な主従上の便宜ではなく、確固たる実力もまた兼ね備えての地位であったのだ。


 こと武闘集団でもある天三宝においては、実力行使による上下関係もまた構築されており、日々の稽古においてシゴキあげられているリツとチカにとってのミコトは、姉であり主であり神であり体育会系の先輩であった。……そのミコトに対する恐怖は、身を以て沁み込まれている。


「す、すいません! すいませんッス! 悪気はなかったんですッッ‼」

「出来心なんです‼ ちょっと疑問に感じて口走っちゃっただけなんです!」


 なおも謝り続ける二人に対しミコトも鼻を鳴らしてはため息をつく。


「ま、いいわ。今回は大目に見てあげる。だけど……もし外で今のこと話したら、今度はハダカネズミに獣化させるわよ?」


 どこか笑いを含みながら諭してくるその口調にもしかし、けっしてそれが単なるジョークではないことを知る二人は『ハダカネズミ』を想像しては総毛立つ。


「じゃ、サヤカと少しお話があるの。アンタらはちょっと席外しててくれない?」

『はいッ! 喜んでッッ‼』


 小首をかしげては願い出るミコトに期せずして返事をハモらせると、二人はマルを引きずって退室するのであった。


「ふん。……さてと」


 かくして静寂が場に戻るや、ミコトは改めてサヤカに向き直る。

 膝を正し、威嚇するでもなく凛と視軸を定めてくるミコトを前にサヤカも背を伸ばしては受け止める。


「サヤカ……アンタに話があるの。話しておかなきゃいけないことがあるの」

「今日のことですか?」

「そうね……もしかしたら無関係じゃないかもね。今から話すのはアンタの過去のこと、そしてアンタの家族に関すること」

「私の……過去のこと? 家族の……こと?」


 そう繰り返しては見つめ返してくるサヤカの瞳を受けかねて、僅かにミコトも視線を伏せる。


 やがてミコトは話し出す──あの夜にあった出来事のすべてを。

『甲・四二』と呼ばれた任務のことを、そしてそれの実行者であったキリンジですら知らされてはいない任務の真相を包み隠さずに告げる。


 それを受け止めるサヤカは始め、自身のことであると理解出来てはいないようであった。

 しかしその話の中に『アシナ』、そして『島根山陰における社』の単語が紡がれるや、サヤカは皿の如くに目を見開いた。


 やがて事の顛末が語られるにつけサヤカの体は小刻みに震えだす。

 そして父の死を、何故に自分がこの場所へ連れ去られたのかを、ついには『田中紗夜香』という役割のすべてを告げられたその瞬間──サヤカは絶叫した。

 見開く瞳と唇その中から、恐怖・憎悪・悲哀……そして愛の全てを吐き出しては嵐のように己が生命の全てを絞り出す。


 それを見届けてはミコトも席を立つ。

 確固たる歩みを以て居室を後にするや、室外の廊下においてサヤカの叫(こえ)を聞きつけて集まる子供達には一瞥もくれずに歩み去る。


「さ、サヤカッ? サヤカぁーッッ!」

「どうしたのッ? しっかりして! しっかりしてぇー‼」


 斯様にミコトが立ち去るのを確認するや、リツとチカは部屋に飛び込んでサヤカを抱き支える。

 それでもしかし、身を仰け反らせては叫び続けるサヤカを鎮めることは叶わなかった。



 幼い魂の中に渦巻く過去の記憶と愛憎の奔流……その最中に在ってサヤカは、体内から放出し得る全てを吐きつくしてはやがて──再び、闇の中へと沈んだ。


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