【 8 】

 闇の中に──キリンジは居た。

 視覚的な意味合いではない。心は深く遠く、意識の底に沈みこんでいる。


 そこには自我も感情も無く、在るものはただ記憶のみ……過去のそれらが眩く輝いている。


 故に照らされ浮き上がる闇はいっそうに深みも濃くに纏わりついては、指先一つ動かせぬまでに粘りついてキリンジの心を飲み込んでしまうのだった。

 その感覚はさながら汚泥に顔まで埋まり、そこから鼻先と唇だけを突き出しては辛うじて呼吸を確保しているような状況と似ている。


 斯様な意識の底から見上げる眩い光の数々は、過去のかけがえのない思い出達だった。

 ミコトやサヤカと過ごした僅かながらの『人』としてのそれらをキリンジは見上げていた。



 まだ生家に身を置いていた頃──まだ『道具』であった頃の話である。


 堺家の天三宝は、『世の混沌を調整する』ことを役割とした。

 その発生が何処で、また何時の頃であったのかは知れない。それでもしかし、この世の混沌たるべき場や瞬間の影には常にこの天三宝が潜んでいた。

 時の権力者が移り変わる時、世が革命に動乱する時、そして争いが起こる時──それらの契機を作り、あるいは助長させるのが天三宝の役割であった。


 その組織の中においてキリンジは生まれた。


 役目に耐えうる肉体の強化から始まり、戦闘術や火器使用の一切、果ては薬学・各種戦闘兵器の操作に至るまでの術理を修めたキリンジは、歳若くしてテロリストとしての完成を見る。


 後は、ただひたすらに『道具』としての役割を全うするばかりであった………しかしながらそこに、予定調和には無い事が起きた。


 こともあろうか、道具は恋をしたのだ。


 組織に身を置き集団行動をする以上、他者との接触に何らかの感情を抱くことや、はたまた好意に近いそれを覚えるのは当然ではあるがしかし──ことキリンジにおいては、人一倍にそれらへの感受性が高かった。

 そしてあろうことにも、そんなキリンジが愛してしまったその相手とは血のつながった実の姉であった。


 そもそもは友情や家族愛の延長であったのやもしれぬ。しかし斯様に異常な環境の中で過ごした青年期の反動か、他人の好意へ執着をしてしまう癖(へき)がその時のキリンジの中には構築されていた。

 故にそれらが与えてくれる温もりと癒しをキリンジは必要以上に求めた。


 そしてその相手たるべきミコトもまたよく応えた。

 同じく好意の感情が持つ温もりに飢えていたのは彼女も同様であったのだろう。


 ミコトにおいては──否、天三宝における女性においては、時に『女』の体を使った術理を修めるべく男以上に過酷な境遇に身を置かれることがある。

 男を堕落・籠絡させるべき技術や知識というものを月事が始まる前の幼少時より仕込まれ、時にはそれに発狂してしまう者まで出るほどだった。この世界においては、目鼻立ちの整った女(もの)ほど悲惨な末路を迎えてしまう場合が多い。


 そういった中においてむしろミコトなどは、キリンジ以上に不条理な処遇に身を甘んじさせたことであろう。

 ゆえに互いにとっての互いとは、過酷な現実を忘れるべきに設置された『仮想世界』であったのやもしれない。その中においキリンジは家族であり、そしてミコトは恋人であった。それぞれが慰め合ったのだ。


 天三宝という組織の律の中で生じた、近親相姦という歪(ひずみ)──いわばキリンジという道具に亀裂が生じた瞬間でもあった。

 そしてその道具の自壊を決定づける事件が起きる。



それこそが『甲・四二』と呼ばれた任務に関する一件である。



 その内容は島根県某所に存在する神社の宮司暗殺と、そこの実子を連れ帰ること──キリンジにしてみれば珍しくも無い内容だった。

 要人暗殺や誘拐などは直接間接を問わず、天三宝は実に多く手掛けていた。キリンジとてこれが初ではない。


 この任務においては某神社の家族構成が神主とその娘のみということを考慮し、極力少人数であたることが決定され、その任務にはキリンジとミコトの二人が派遣される。

 山陰の深い渓谷の中に存在するそこへ襲撃を掛けたのは夜半も過ぎた頃──前後して件の家族への接触者が無いことを綿密に調査したのちに実行された。

 内容は正面から押し込むというシンプルなもの。周囲に人家の類が無いことから多少の騒ぎになっても気付かれにくいことや、土地が広大ゆえに屋内の狭所へ追い込んだ方が逃げられるリスクを避けられると判断してのことであった。


 あの日のことをキリンジは忘れられない──。


 深夜にもかかわらず境内には篝火が炊かれ、あたかもキリンジ達が今夜訪れることを予見していたかのようであった。

 訝しつつも警戒を怠らずに社殿へと至るキリンジの前に、標的である田中 阿修那(たなか・アシナ)は正装に座してそれを迎えた。


 強(こわ)く短い髭をもみあげまで蓄えた面構えは精悍で、岩の如き双肩を前のめりにいからせる居住まいたるや、素人目にあってもアシナの頑強さを分からしめるようであった。

 それが烏帽子をかぶり、白の浄衣をたすき掛けにして迎えるそのいで立ちたるや、古の妖獣退治に挑むかのごとくである。


 しかしその時のキリンジは『手間が省ける』と機械的に思ったのみであった。

 一言として言葉は交わさなかった。


 座して待つ相手に対し、既に直立に構えを備えられている己の方が有利であると踏んだキリンジは即座に駆けいるや、矢の如きに爪先を穿たせて蹴りを放った。

 速度・間合い共に完璧なタイミングで繰り出されたであろうそれがアシナの喉元を貫くこと確信したキリンジではあったが──接触したと思われた次の瞬間、キリンジは宙を舞っていた。


 背から板間に落下するも、バウンドを利用するや即座に反転してノミの構えを取り直すキリンジはしかし、動揺していた。


──天三宝……? 部外に堺家以外の繰り手がいるのか?


 蹴りが触れようとしたあの瞬間、アシナは天三宝におけるカンナの型にてそれを迎え撃ったのだ。そのことにキリンジは驚愕した。


 しかし同時に悟る。なにゆえに天三宝が山陰の一宮司暗殺に刺客を差し向けたのかを。

 外部流出などあってはならぬ奥義を習得した人物が、天三宝以外の場に身を置く……その事の危うさをキリンジは理解するや、動揺に波立つ心を沈めた。

 目の前のアシナは一瞬の油断さえも許されぬ相手なのだと理解する。事においては相打ちもまた辞さぬ覚悟で挑まねばならぬ手合いであると判断した。


 残心を構え続けるその先でアシナも立ち上がり、同じくにノミの構えにて対峙するや数刻──またもやキリンジが仕掛けた。

 以降は熾烈な術の読み合いと打ち合いとに死合は発展し、およそ一夜にわたり二人は戦い続けた。


 始まりこそはアシナの未知数の実力に警戒をして遅れを取る形となったが、時が進むにつれて形勢は僅かにキリンジへと傾きだした。

 アシナも手練れではあった。しかしながらいかに天三宝を修めているとはいえ、山陰の中でそれを錆び付かせたアシナと、常に最前線において諸手を鮮血に濡れ研がせたキリンジの術理とあっては、その実力に差が生じることは明白といえた。


 それでもしかしキリンジは最後の一手を──熟練したアシナの天三宝を、あと一歩攻めあぐねていたことも事実である。

 互い実力者の読み合いとあっては、いつ必殺の一手が決まるか知れない。その中においては一時の有利など、何ら勝利の確証を決定づける要素には成り得ないのだ。


 しかし斯様な死闘の最中──キリンジは死と隣り合わせの状況に慄くよりも、この戦いに心が昂っている自分に当惑していた。

 任務であることなどはとうに忘れ、いつしか己の全てを出し尽くしては研鑽し合えるこの瞬間を尊いものに思い始めていた。


──間違っているのは、俺達ではないのか……?


 ふいにそう感じた。

 あってはならないことであった。


 予期せぬ自我の出現はこともあろうか、それが使役される最中に道具を『人』へ変えてしまった。

 天三宝は感情を欠如させてこそ本領を発揮する。斯様に人となったキリンジにもはや勝ち目はない。『人』として武を駆使するにおいてはアシナこそが勝っていたからである。


 見る間にキリンジの動きに精彩が無くなっていった。あわやこのまま決着といずれもが感じたその時──すべての状況を一変させる事件が起きる。



「お父さぁんッ‼」



 突如として響き渡ったその声──高く柔らかいその声はアシナの娘が発したものであった。

 それを聞きとがめ、その方向へ目を走らせたアシナの足が止まった。


 視軸は彼方の一点に注がれた。そしてその先にはミコトに背から抱き包まれた娘の悲痛な顔があった。

 おそらくはキリンジの不利を見越したミコトの機転であったのだろう。そして結果としてそれは、想像以上の効果をもたらすこととなる。


 どんな連撃にも揺るがなかったアシナの体位が崩れた。

 上体を捻り娘に体を向けたアシナ──『死に体』とも呼ばれる構えの均衡の喪失は、もはや一切の攻防の体を成さぬものであった。

 それを前にキリンジが動いた。


 身に沁みついた天三宝はキリンジが意識するよりも早く、血に飢えた野獣が獲物の首を狩るかの如くに右の貫き手をアシナの腹部へと打ち込む。そして突き入った肉の中、指先に脾臓の感触を確認するや次の瞬間、キリンジの右手は無慈悲にもそれを握りつぶした。


 鮮血をまき散らし、呻きにもならぬ声を絞り上げては倒れ込むアシナ。その様をキリンジは茫然と見つめた。

 斯様な光景などは見慣れたはずであった。しかし今のキリンジは、震えた。

 荒ぶる呼吸と体内を駆け巡る鼓動の律動、そして己が手の血に染まった様を目にとらえた瞬間、


──取り返しのつかないことをしてしまった……


 そう思った瞬間、『道具』は壊れた。

 


 その後のことは断片的にしか覚えていない。


 任務を果たし帰還した後、当の娘はすべての記憶を失っていた。

 最愛の父を目の前で殺害された衝撃ゆえか、ただ憶えているものは己の名のみ──そんな少女を憐れみ、さらには贖罪の念もまた手伝っては労わるキリンジに無残にも娘は懐き愛情を傾けるようになる。

 それがさらにキリンジの疲弊した心を苛み、そして追い込んだ。


 幾度となく娘に己の罪業を告げようかとも苦慮したがしかし、告白することは叶わなかった。

 キリンジもまた娘を愛していたのだ。掛け替えのないものと思った。


 斯様な煩悶の末──キリンジは堺家を、天三宝を逐電する。


 罪の重荷に耐えかねたこともそうではあるが、かつてのアシナ同様に、『足抜け』をしたがゆえ追手によって無残に殺されることもまた己の贖罪のような気もした。

 以来キリンジは生家に戻ってはいない。


 しかしながら堺家は、そんなキリンジへ追手を差し向けることなどはしなかった。むしろミコトの援助を黙認するに至ってはそんなキリンジの裏切りを容認していた節すら窺える。

 天三宝の中においても、そして外においてもキリンジは、その掌の上で飼い殺されるのであった。



 そして今日に至り……今に至る。

 キリンジは闇の中でただ、


「……すまない………すまない……サヤカ……」


 あの日、己が殺めた男の娘とへ──届かぬ謝罪を繰り返すばかりであった。


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