【 7 】
『ぎゃわーんッ!? 冷たいですわーッ‼』
『シュラさん! シャワーの蛇口、お水の方にひねってます! きゃあー‼』
ユニットバスから聞こえてくる二人の声にキリンジは鼻を鳴らす。
知り合ってまだ数分も経たないというのに、シュラとサヤカはまるで旧知の間柄であったかのよう邂逅しそして今は一緒に風呂に入っていた。
せっかく来訪してくれたサヤカをシュラに取られてしまった寂しさも然ることながら、キリンジにはますます以てシュラの正体に疑念が湧く。
──本当に何者なんだ、あいつは……?
そうして料理の大皿を手にしたままユニットバスのドアを凝視するキリンジに対し、
「ほらほら、シュラさんとサヤカのオッパイ想像してないでちゃんと運んでちょうだい」
横から中華鍋を持って現れたミコトはその中身の八宝菜を派手にキリンジの皿の上へと盛り付けた。
「え? ぅわっち!? もうちょい静かにやってくれ!」
飛び散るあんかけの熱に危うく皿を取りこぼしそうになりながらもキリンジは辛うじて踏みとどまる。
「まったく……サヤカも手伝いに呼んだっていうのに、すっかりシュラさんに懐いちゃってしょうがないわね」
そうボヤきながらもどこか嬉しそうなミコトを前に、
「……なぁ、少し妙だと思わないか?」
一方でキリンジは僅かに声のトーンを下げては語り掛ける。
「何が?」
「何がって……あのシュラのことだよ。なんか色々と妙だ」
両手にしていた八宝菜を和室のちゃぶ台に運ぶと、キリンジはキッチンへ戻りながらその目を再びユニットバスのドアに向けた。
「なんだかあまりに違和感が無さすぎるんだよ……あのシュラって」
そう続けるキリンジにミコトもまた両手をエプロンの裾で拭いては鼻を鳴らす。
「今日初めてシュラを拾った時、なんだか無条件に彼女を受け入れてしまったような感覚が俺にはあった。そのことがまるで当然かのように受け入れた。……何故だ?」
「オッパイが大きかったからでしょ?」
一瞬、間が開く。
「ち、違う! なに言ってんだ!」
「……今の間はなによ?」
もしかしたら『初対面ではない』のではないか──そうキリンジは持論を諭した。
「初対面じゃない、って……現にアンタ知らなかったじゃない。アタシだって今までに会ったことないわよ。あんなオッパイ大きい人」
「……ミコト。もしかしてコンプレックスなの、胸こと?」
「セクハラよ、それ。──ともあれ、世間にはなんかこう母性や父性を刺激される人っていうのが居るのよ。シュラさんなんてまさにそのタイプじゃない? 世間知らずのお嬢様でさ」
「ならば、天三宝についてはどうなんだ?」
キリンジの重い口調がその名を紡ぐと、さすがにミコトも息をのんだ。
「この広い東京で、たまたま『天三宝』に用事のある人間が、たまたまその関係者の元を訪れるなんてことが……単なる偶然として片づけられるっていうのか?」
そんな疑問を口にしながら、思いもかけずに自分が真相に近づきつつあることをキリンジは感じていた。
「シュラは此処に俺がいることを──あるいは此処に来れば何らかしらの形で天三宝に接触が出来ることを知ってたんじゃないか?」
「ちょっと、何言ってんのよ……」
「あるいは本人は知らずとも、何者かの指示でこの場所へ来るように誘導されたってことも考えられる。その際には何か共通の『鍵』を符合させることで、シュラと天三宝が繋がるように仕込まれて、だ」
「なに言ってるのよ。アンタそんなこと言うキャラだったっけ?」
告げられる言葉にあけらかんと対応している風を装うミコトの演技をキリンジは見抜いていた。
伊達に付き合いは長くない。この姉が自分のことを理解してくれているように、この弟もまた姉のことを知り尽くしている。
ミコトは──間違いなく何かを知っている。
そしてその疑念が確信へと変わる一言をキリンジは紡いだ。
「地にあらば見る夜見の道 望む まぐわいまぐわい」
その瞬間──ミコトの目がキリンジを射竦めた。一切の表情をかき消した能面の如き視線には、もはや言葉以上の真実をミコトに語らせていた。
「やはり知っていたな……ミコト」
そしてキリンジも然り。表情が……人の感情が消えた。
もはやこの空間に人間は誰一人として存在していない。道具が二機、互いに対峙していた。
これと期を同じくして──
『きゃああああああぁぁぁぁぁッッ!』
ユニットバスの室内からは絹を裂くようなサヤカの悲鳴が響き渡った。
それに呼応してキリンジの目に僅かな動揺が浮かんだ。瞬時にして『人』に戻る。
その瞬間をミコトは見逃さなかった。
一切の瞬発性を見せぬ滑るような歩調で一歩の間合いを詰めると、抱き合うかの如く近接してはミコトは広げた手の平をキリンジの腹部に宛てた。
「……もう天三宝やアタシ達の未来だなんて、取るに足らないことなのよ」
そして囁きかけるその言葉には、道具ではない人の感情が込められていた……悲哀のそれが、強くキリンジへと伝わった。
刹那──体躯の芯に炸裂する熱にキリンジの意識は遮断される。
先の打撃による一時的な気絶などではない、もっと深く決定的な昏倒であった。
「ッ──……ミコ、ト……」
前のめりに崩れるキリンジをミコトは抱きしめる。
その重みと温もりを堪能するよう、しばし抱きしめては深くため息をついた。
同時に室内には更なる異変が生じる。
和室の隅に塵芥が風に渦巻いて生じるかのようにして影が集まり、やがてそれは一個の物体としてそこに影を落とす。
しばし蹲っていたそれはやおら伸び上がるや、そこに人の形を形成した。
そしてそれはその一個だけに留まらない。
キッチンの隅から、あるいは玄関ドアの隙間から、果ては天井から降り注ぎと、1DKの一室には瞬く間に数人の影が現れていた。
それらの発生にもしかし、ミコトは一切として表情を変えない。依然として抱きとめるキリンジに注視したまま、その表情には深い影が落ちている。
やがてユニットバスのドアが開け放たれるや──その彼方からは、全裸のサヤカを小脇に抱えた新たな影が音も無く歩み進んでくる。既にサヤカは気絶しているらしく、紐のように両手足をぶら下げては微動だにしなかった。
ユニットバスからの影は、サヤカを床に下ろすと己が立ちふさがる入口の道を開け、その場に跪いては慇懃に頭を垂れた。
それに呼応するかのよう、室内にいたミコトをはじめとする影らもまた同じくに跪く。
斯様にして一同が畏まる静寂の場に歩み進んできたのは──誰でもないシュラであった。
一糸まとわぬ柔毛の裸体へ濡れた髪を貼り付けたあられもない姿にも拘らず、当のシュラにはそれを恥じらおうとする様子は微塵も見られない。
あたかもそれが当然の如くに──あるいは、今この場にいる『人』たる存在が己だけであるかの如き振る舞いは、紛う方なく支配者の振る舞いそれであった。
そんなシュラを前に、
「先ほどまでのご無礼をお許しください」
ミコトは重く感情のこもらぬ声で語り掛ける。
「遅れ馳せながら、お迎えに上がりました……皇天(こうてん)様」
その名を受け、シュラは視軸を前方の虚空へ定めたまま小さく頷く。
「苦しゅうありません。すぐに案内(あない)を勤めなさい」
そして数歩、シュラは室内へと踏み出す。
一室の窓から望む空には月がひとつ──キリンジが見上げていた時よりも高く眩く、今のすべてを見つめていた。
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