【 4 】

 幾度この感覚を体験したことであろう。

 外部からの衝撃によって意識が遮断されるこの感覚──いわゆる『気絶』するという体験それを、久しくにキリンジは思い出していた。


 頭部や顎部に打撃がインパクトした瞬間、さながら意識は照明が落とされたかのよう急激に消え失せる。そして再び覚醒する瞬間には、まるで奥深い谷底へでも落ちるような感覚と共に目が覚めることをキリンジは知っていた。

 一般的に思われているそれとは印象が逆なのだ。目覚める時にこそ衝撃が伴う。


 そして今、キリンジは衝撃の最中にいた。


 時間にしてしまえばコンマ一秒にも満たないその世界の濁流の中にあってキリンジは、意識を失う直前の状況を整理しようと努める。

 常人ならばその衝撃と記憶の混乱に取り乱すところではあるが、長年の鍛錬における恩恵かキリンジにはそれが無い。むしろその衝撃こそが神経を研ぎ澄ます。


 何らかの打撃が外部から顔面へと炸裂したが故の失神であったと判断する。そして鼻先に覚える痛みと打撃の重さには、目で見る以上に覚えがあった。


──この衝撃と重み……間違いなくミコトだ!


 確信する。

 ならばその意図を己に問おうと考えるも、惜しむらくそんな時間はない。体は斯様な頭の整理を待つよりも先に動いた。


 液体のように脱力していた四肢に柔軟性を漲らせると同時、キリンジは大きく諸手を地に突き立てては前のめりに倒れ込もうとする体を踏み留まらせる。


 そうして即座に頭を振り上げて体躯を仰け反らせるや直後──鋭い風圧が足元から吹きあがっては鼻先をかすめた。

 その風圧に晒された前髪の数本が切断されて宙を舞う。

 笹の落葉を思わせるよう前髪が舞うその彼方には……右足を蹴り上げた姿勢のミコトがいた。


 下着のクロッチを明け透けに晒しつつもしかし、そこには女子の持つ恥じらいなどは微塵として存在していない。折り畳みナイフさながらに蹴り上げた腿が胸へ接着しているにも拘わらず、直立不動を為すミコトの体幹には微塵の揺らぎも見られなかった。


 あの瞬間ミコトはキリンジへと打撃を見舞い、それにて失神した彼へとさらに追い打ちとなる前蹴りを放つもしかし、ミコトのアルゴリズムを熟知するキリンジは瞬時に対応し、辛うじて二撃目の直撃は回避に成功した──というのが一連のやり取りで合った。


 その間たるや僅か1秒弱。婦女子の手合いでありながらも大の男一人を仕留めるに足るミコトの膂力はもとより、初手は不覚に甘んじつつも即座に状況を判断しては肉体のコントロールを取り戻したキリンジの体幹と戦術眼は、互い十代の男女には似つかわしくない応酬といえた。


「……浮気男だけに身のこなしが軽いわねぇ」


 蹴り上げていた右ひざを見せつけるが如く遅々と折りたたみ、流れるよう緩慢にそれを下ろしながら再び両足で地を踏みしめるミコト。

 僅かにアゴを引いて上目に見据えてくる視線には、盛り上がった眉元も険しい憤怒の色が満ち満ちている。


「なッ……なに言ってんだいきなり?」


 一方で前屈みに肩をいからせては、懇願するかのよう前方のミコトに両掌を見せているキリンジの姿勢はあまりにも対照的だ。怒りと戸惑いの温度差が如実に二人の立ち居からも見て取れた。


「問答無用……アンタのその淫らな情念の元を根元から引き抜いてやるわ」


 もはやミコトに言葉など通じない。それほどに昂ってしまっている。

 今も右手に空洞の握り拳を作り出しては、二度三度とそれで妄想の中の何かをしごき更には握りつぶすよう拳を固める様にキリンジも戦慄を覚える。

 その段に至りようやく、


──コイツ……俺のチンコもぎ取る気でいるのか!?


 ミコトの意図とそして怒りの理由を知る。

 それこそは今ふたりが足元に挟み立つシュラの存在に他ない。


 先にシュラの身体検査をしていた様子をミコトに目撃されたのだ。それを誤解したがゆえに悋気を昂らせては今に至ってしまっていることにようやくキリンジも気付いたのである。


「ま、待て! 話を聞けって! 別にこの人に何かしてたとかそういうんじゃないってば!」


 キリンジの懇願に依然として表情を変えぬミコトの鼻先がその一瞬だけ引くついた。


「ついさっきアパートの一階で倒れてたんだよ。それを放っておけなくて介抱してたんだ」


 こうなってしまった時のミコトのことは誰よりもキリンジが理解していた。


 一度怒りに我を忘れると、生半なことでは彼女を沈めること叶わない。過去に数度、こうしてミコトを怒らせて痛い目を見た経験は、もはや本能レベルでの恐怖となってキリンジの中に刻まれている。

 だからこそまだ言葉の通じる状態であるうちに、どうにか話し合いにてそれを収められぬかと周章するのだ。


 が、しかし──それが藪蛇。


「……まさか、アタシ自身が浮気男の常套句を聞かされる日が来るとはね」


 一切として表情を変えぬまましかし、ミコトの瞳孔が縦楕円に細まった。

 そしてついには、


「浮気男は! 誰しもそう言うのよこの唐変木ッッ!!」


 爆発してしまった。

 それを前にキリンジも唸るようなため息を絞り出す。

 もはやこうなってしまっては手が付けられない。ミコト自身から沈静してくれない限り、彼女をどうにかすることなどできない状態となってしまった。


 それを機にミコトの構えが変わった。

 肩を窄め、わずかに肘を折って手の平を脱力に開放すると前のめりに上体を傾ける。


「是非に及ばずか……」


 その様子にキリンジも覚悟を決めた。


 今ミコトが見せたその立ち居こそは完全なる戦闘態勢であることをキリンジは知っている。


 生家の道場が生業とする武術・天三宝(てんさんぽう)には、『ノミ』と呼ばれる基本の構えがある。


 そもそものこの流儀における概念は、いかに小兵の使い手が最大限の破壊力を引き出せるかを研鑽することにある。女子供、あるいは体格に恵まれぬ者でも強者に引けを取らぬ創意と工夫とが長年の中で培わされてきた。


 ゆえに天三宝は腕力などの地力に頼らず、いかにして体動に体重を乗せられるかが重要となり、その中で生まれたのが今のミコトの型である。


 獣化前のまだ人の体躯であった頃には、この構えはつま先立ちが基本とされた。

 即座に『先の先・後の先』を制せられるよう前傾になる姿勢は、そのバランスの脆さから構えを物にするだけでも長年の鍛錬が必要とされた。


 しかしながら獣化を果たし「踵」の部位が消失した今とあっては、人間であった時以上にこのノミの構えが体に馴染むのをキリンジは感じていた。


──まるでこうなることを察していたかのような構えだ……


 この鉄火場においてふとキリンジはそんなことを思い出す。

 しかしながらそれも一時のこと──ミコトが動いた。


 風が吹くよう、あるいは水が流れるかのように体位を滑らせてミコトはキリンジの前に迫る。

 遅れをとらぬよう今度は動きの始終を観察していたつもりではあったが、邪念が生じた一瞬分キリンジの反応が遅れた。ミコトとてそれを瞳の動きから察しての先制である。


 動きの中で僅かにミコトの体が左へ開いていくと次の瞬間、彼女の右拳は繰り出されるでもなくキリンジの前に出現し、そして次の瞬間には打撃のインパクトをそこに発生させる。


 従来の武道における正拳突きや当身というよりはむしろ、居合による抜刀にこそ天三宝の突きは近い。

 腕や拳を繰り出すのではなく、攻撃部位は極力同じ場所に留めたままで主軸(体)を移動させるというのが理念だ。

 ゆえに対峙する者は翻弄される。技の起こりが読みにくいからである。


 しかもその威力たるや、動きの地味さに違(たが)い効果は絶大である。


 体重を攻撃に乗せるということはすなわち、仮に術者の貫目が50㎏とするならばそれに近いだけの重さと破壊力とがそこに発生するからだ。他流派の打撃ではいかに鍛えようとも当身一つにこれほどの威力は出ない。


 しかしながらそうなると、それを駆使する術者の肉体が衝撃に持たぬことも懸念材料の一つではあるが、そこもまた工夫が為されている。


 拳がキリンジにインパクトする瞬間、ミコトは拳の手首を覆うように左手で握りしめた。

 さらに脇を締め、踏み出した右足と左へ開いた左足も踏み閉めて体躯を確固すると、固定砲台さながらにミコトは自重の衝撃に備えた。

 そして拳が被弾した瞬間──打撃の炸裂音と、踏み閉める両足に伝わる衝撃とで大きく地が揺れた。


 おおよそ十代の少女から繰り出されたとは……否、それが人の手から放たれた物とは思い難い衝撃と威力とがそこに発生した。


「ぬッ……ぐう!」


 それを正面から受け止め、皮の軋むような呻きを漏らすキリンジ。

 しかしながらキリンジもまたこの流儀の兵法者である。


「……ふん、相変わらず見事じゃない」


 怒りに我を忘れているはずのミコトがその一瞬、感嘆した。


 目の前にはミコトの拳を掌で受け止めているキリンジの姿──構えたるや、どこかミコトの突き姿と姿勢が似ている。


 左に体位を開いたミコト同様にキリンジもまた左足を引き、手首の内を上へ返した形でミコトの突きを受け止めていた。

 腕を伸ばすミコトとは対称的にキリンジは左ひじを直角に折り縮めては体に密着させ、さらには斯様な左手首の上に右掌を被せ握りしめていた。


 これこそは天三宝における受けの型である『カンナ(貫腕)』のそれである。


 自重の衝撃に耐える・逃がすを工夫された突き同様に、防御に置いても天三宝は『重みに対して耐える・逃がす』の工夫を凝らしてある。


 今のキリンジが見せたカンナなどは正にそれで、打撃が被弾した瞬間に体位を開き姿勢を固定することで一次衝撃に耐え、さらには二次においてその威力を踏みしめる地へと逃がす術理がそこに確立されていた。

 ましてや今キリンジが見せたカンナたるや、渾身を一撃であったミコトの突きを完全に地へ受け流したというのだから見事という他ない。


 そして同時にキリンジが動いた。

 ミコトもそれを心得ている。


 先にキリンジが披露したカンナの真骨頂──突き詰めては天三宝の真骨頂は、攻防一体のカウンターにこそある。


 ミコトの拳を受け止めた瞬間、キリンジはわずかに受けとめる掌を捻り、そこに生じていたミコトからの衝撃の流れを変えていた。


 コンマ一秒にも満たぬ瞬間の接触とはいえ、ミコトにとってのそれは直接に手首を握られて捩じられることにも久しい。斯様にしてミコトはバランスを失い、攻撃後の引き際を失った。

 キリンジの防御が完成した瞬間にミコトが感嘆の声を上げたのは、そのタイミングがあまりにも的確であったからだ。


──態勢の立て直しは叶わない……一撃は被弾を覚悟する必要がある!


 攻防が一瞬にして逆転した。今度はミコトがキリンジからの攻めに備えなくてはならない。出来得る限りに体幹の均衡を整え、構えを直し、来るべく衝撃に備えたその時であった。



 予想外のことが起きた──。



 反撃には絶妙のタイミングにも拘わらずキリンジはそこへ打撃を見舞うことはしなかった。彼こそはさらに一歩を進み出て接近するや、正面から深くミコトを抱きしめたのである。


「ぅッ──……何のつもりよ?」


 潰れるほどに強く抱きしめられミコトも息苦しさを覚える。


 天三宝には斯様にして近接後に攻防へ転ずる術もまたあるがしかし、今のキリンジの行為はあまりにも無策に尽きた。

 ただ抱きしめているといった感のそれには何の作為も感じられないのだ。


 むしろ互いの首根が絡み合うほどの今の接触は、身長差からも自身の頸動脈がミコトの眼前に晒されていたりと、先ほどの攻防以上にキリンジには不利な状況となっているように思えた。


「……このままアタシがアンタの首筋に前歯を立てれば、それで終わりよ?」


 あまりのその無防備な首筋に、言葉通りミコトもまた口唇から剥きだした前歯を噛み当てる。

 獣化後の歯牙とあっては、人間であった頃以上の鋭さと切れ味を擁している。この勝負、完全にキリンジが詰んでいた。

 しかし、


「………構わないよ」


 更なるキリンジからの言葉に、ミコトは目を見張る。


「こんな世の中だ……そして、こんな人生だ。ミコトに殺されるなら、それ以上の終わり方も無い」


 意識してか否か、抱きしめるキリンジの腕により一層の力と感情がこもった。


「だけど、疑われるのが一番辛い……特にそれがミコトだと、なおさらに辛い」


 甚だ芝居掛かった台詞ではあるがしかし、そういった同情を誘う計算など出来ないキリンジの不器用さはミコトが誰よりも知っている。


 それに加えて抱きしめてくる優しさと、語り掛けてくる温もりには言葉以上の説得力があった。……加えて発情真っ盛りでもあるミコトの肉体には、そんなキリンジの体温や匂いが今の怒りを忘れさせるほどに響いては情欲の炎を再燃させるのだ。


「アンタ……本当によその子を連れ込んでたんじゃないの?」


 斯様にして内部の怒りが沈静化してくると、ミコトは前歯を突き立てていた首筋に唇を吸いつけては味わうように舌先を這わせる。


「うぅ……さっきから言ってるだろッ。それをいきなり殴りかかってきて、取り付く島もなかった」


 そんなアプローチの変化にキリンジも抱きしめていた力を緩めて首を仰け反らせる。


「当り前じゃないの。あんなオッパイ大きい人の上に覆いかぶさってたら、誰が見たって『始める前なんだ』って思うじゃない」


 逃げようとするキリンジを今度はミコトから抱きしめた。さらには正面からキリンジの喉仏へとキスをすると、胸板に埋めた鼻先を移動させては舌先で鎖骨の窪みを穿つ。

 もはや完全にミコトの怒りは解けていた。それどころか……


──うぅ……今日も発情してる……ッ


 一変してミコトには彼キリンジに対する愛情が満ち満ちていた。つい先ほどまでの激情も反動し、今日のミコトたるやいつも以上の昂りようである。

 食するかの如く体の上で踊る舌先や唇の愛撫に、キリンジは彼女へと抱いていた本来の懸念を思い出しては身をよじらせた。


「ち、ちょっと待ってくれ。足元に彼女がいるんだ、ミコトにも紹介したい」

「後でいいわよ……それよりも今は……ね?」

「人前で始める気かッ? 何考えてんだ!」

「いいじゃないの別に。むしろ興奮するんじゃない? あぁ……ドキドキする……キリンジぃ……」

「あッ……本当にダメッ。ちょっと……!」


 顔を反らせ、坂のように身を傾斜させるキリンジの胸板を文字通りにミコトはよじ登りながら首に顔にと、構わずにキスの嵐を見舞う。

 鼻息も荒く女子の恥じらいなどはかなぐり捨てて迫るミコトの必死さたるや、男のキリンジですらもが引いてしまうほどの浅ましさであった。


 そうして完全に体の上に乗りあがるとついには、


「そぉーれッ♡」

「あ、あぁッ!? うわッ……!」


 ミコトはキリンジを押し倒し、完全に畳の上で組み敷いてしまうのであった。





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