【 3 】

 ふいに投げた視線の先に、ミコトは沈みゆく夕日を見つけてため息をついた。

 その日の太陽はいつになく大きく見えたようで、ふと幼かった頃に戻ったかのような錯覚に陥ったのだ。


「明日はきっと晴れるなぁ。……アタシの未来は雨模様だけど」


 食料品を詰め込んだビニール袋を両手に見入り、そんなことを呟いては夕暮れの持つ寂しさをしばし堪能した。


 キリンジの姉・境ミコトは、この世界の『全てを知る者』の一人である。

 しかしながらそれは、『予言者』や『神』などといった超越者めいたものではない。

 あくまでミコトは、人類獣化の『理由を知る者』の一人である。そして同時にそれを知る事は、近い将来に訪れる『己の破滅』を知る事でもあった。


 とはいえミコトにはどうすることもできない。

 世界を元の人間界に戻すことも出来なければ、己自身の絶望を回避することも不可能だった。

 ミコトの知るそんな『世界の全て』とは、例えるに『天気予報』のようなものである。

 明日に予想される天候と、何故にそうなるのかは分かっていても、それに干渉することは叶わない。晴れならば焼け付く太陽にその身を焦がし、雨ならば沁み込むそれにただ溶かされるのみだ。

 どんなことが起きようともミコトは、いずれ我が身に起こる破滅の回避が不可能であることを知っていた。

 しかしながら、


──でも……だからアタシは絶望せずに済んでるのかもしれない……


 むしろそう思えた。


 来るべき未来を知るからこそ、ミコトはそれに備え覚悟を決めることができた。その残り僅かな時の中で、自分が何を為すべきかを真摯に考えることが出来たのである。

 獣化以降、今日にいたるまでのミコトの日々は、その毎日が太陽のように熱く輝いている。

 目的もなく凡庸に生きてしまったのならば今のような覚悟も、そして日々のこんな充実感もミコトは微塵として知ることなく生涯を終えてしまったかもしれない。

 短くもしかし、充実した人生──そのことを実感し、一日一日を一片の悔いも無く生きられる今をミコトは幸福に思い、そして感謝してもいた。

 そしてそんな彼女の人生を彩ってくれている者こそが、


「キリンジ……ホントいい男よね、アイツ」


 実弟であるキリンジその人を思い出し、ミコトは思わず吹き出していた。

 心から愛してやまない彼が『実の弟』であることなどはもはや、ミコトにはどうでもよいことであった。

『終わり』を知るミコトであるからこそ、彼とのそんな関係に罪悪感を感じずにいられるのだ。


 いずれ消えゆく身とあってはもはや、『未来』ですらもがどうでもよいことである。ならば今一時の恋愛感情の相手が弟か他人かなどということに、どれほどの違いがあるというのだろうか? ──そんな開き直りが皮肉にもミコトに真実の愛を気づかせ、さらにはそれへ邁進することの後ろ押しもした。


 もはや一片の後ろめたさも感じることなく日々を謳歌する開放感は、二か月前のあの、近親相姦の禁忌を犯したがゆえに悲観していた頃と比べるに雲泥の差である。

 今の一瞬一瞬を楽しく生きようと開き直ってからのミコトの人生は今、幸福の絶頂にあった。……もっともキリンジも同様に感じているかといえば甚だ怪しくはあるが、


「まぁ、あの子は『何も知らない』からしょうがないけどね」


 そこともまた知るミコトは、そんなキリンジを哀れに思いながらも今日の逢瀬に想いを馳せた。


「んふふ~……まさかあいつも、金曜日にアタシがくるとは思っていまい♪」


 途端、ミコトの面には下瞼を弓なりに上げた淫靡な笑みが浮かぶ。

 中退のキリンジとは違い、普段は地元の高校へ通うミコトは週末土日の二日間を利用して彼と褥を交わしていた。

 しかしながら先週は、


「まさか逃げ出すなんて思わなかったなー。……男の子なんてやりたいばっかりじゃないの?」


 その行動パターンを読まれ逃げられるという失態を犯している。

 そもそもは根が真面目なキリンジは獣化後もなお、今の関係に心を痛めていた。それが昨今では、そんな感傷が入り込む余地もないほどミコトから求められるとあって、なおさらにキリンジも辟易としている様子であった。

 それが故の逃亡である。


 だからこそ今日、ミコトは『金曜日の襲撃』に打って出た。

 キリンジのねぐらはあのアパート唯一であり、彼とて必要以外にはそこを離れたくないはずであった。そう考えた場合、ミコトが訪れるであろう土曜日早朝のギリギリまではアパートに滞在しているはずである。

 そんな『よもや金曜の夜には訪れまい』というキリンジの読み──その裏をかいての訪問であった。

 故に今も、ミコトの服装は学校指定の制服(ブレザー)姿といういでたちである。もはや今日は帰宅することもなく直接、週末を過ごすための食料品やらを買い込んではキリンジのアパートへと向かっていた。


「うふ、うふふふ……♡ キリンジぃ~、待ってなさいよぉ? 今からお姉ちゃんが、た~っぷり可愛がりに行ってあげるからねぇ~♡」


 意欲も新たに両手のビニール袋を持ち直すと、再びミコトはキリンジの元へ向かう足を速めた。

 見慣れた景色が目の端を流れていき、アパートの遠景が地平の果てに小さく確認できるといよいよもってミコトは高揚していく。

 再開を予期した頭は熱にうなされたかのよう、興奮から陽炎のようにミコトの意識をぼやけさせる。


「はぁはぁ、キリンジ……キリンジぃ……♡」


 鼻息は笛の音のようになるほど荒く、下着の奥底から生じた分泌物が足早に交互する脚の付け根でヌルヌルと股座を摩擦させている感触もまた感じて、さらにミコトの興奮は度合いを増していく。


「お風呂なんかいらない……いきなり始めよう……いきなり舐めちゃおう……きっとすごくしょっぱいわ……♡」


 想像とも妄想ともつかないキリンジの味が、唾液腺を刺激するほどのリアルさで脳裏に湧き上がってはミコトの喉を上下させた。

 アパートの敷地内に入り、目的の部屋である二階への縞鋼板階段を二段飛ばしで駆け上がっていく。


「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ………ッ♡」


 そうしていよいよ部屋の前までつけると、ミコトは右手のビニール袋を左にまとめ、何度も手汗と興奮の震えとで握りしめるドアノブを滑らせた。

 そしていよいよ強く握りしめ、スムーズに半転するそれの感触に鍵が掛かっていないことを確認すると、


「ッッ~~~~~~~キリンジぃ♡ 始めるわよぉッッ!!!!!!」


 爆発するかのような仰々しい音を立ててドアを押し開くミコト。

 しかしそんな彼女の目に入ってきた光景は──


「──あん?」


 部屋の奥にあたる和室の敷布団の上で、自分以外の女性に覆いかぶさっては組み敷くキリンジの姿。

 想い人の浮気現場を目撃したその瞬間──既に沸点を超えて熱しあがっていたミコトの頭は瞬時にして怒りへとシフトした。

 そして何故を考えることも問う間もなく……


「くぅおらぁぁぁぁ────ッッ‼」


 手にしていたビニールを放り、靴も脱がずに室内へ踏み込むと……



「ぬぁにやっとんじゃあぁ────ッッ!!!!」

「え──、ぶぐぉ……ッ⁉」



 その声に反応し、ようやく顔を上げたキリンジの顔面へと──ミコトは渾身の力を込めた正拳突きを真正面から打ち込んでいた。


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