【 2 】

 やはり煙草にすべきであった──キリンジは後悔せずにいられない。

 結局は食べることの叶わなかったアンパンである。タバコならば他人に奪われてしまうこともなかったであろうし、今こうして見ず知らずの少女を抱きかかえて自室に戻ることもなかっただろう。


 件の白兎シュラは、キリンジの最後となる食料をたいらげた直後に意識を失った。……『意識を失った』というよりは、空腹が満たされて眠りに落ちたという方が自然な寝顔ではあったが、そんな彼女を放っておくこともできず、キリンジはシュラを抱きかかえては二階の自室へと向かっている。


「本当に何者なんだいったい?」


 返事などあろうはずもない泣き言を漏らしてはようやくねぐらに戻るキリンジ。

 部屋は6畳の居間とリビングキッチン一間が連結した縦長の一室である。


 フローリングと畳がまだ新しい室内は、ボロアパートの外観とは違いずっと清潔感がある一室に見えた。加えてトイレと一体型のユニットバスではあるが、風呂が個室に設けられている点もキリンジにはポイントが高い。

 仕事上、撮影が長引けば帰宅が深夜になることもざらだったキリンジにとって、時間を問わずに入浴できる環境はありがたかったからだ。……もっともそれも、


「もう必要もないけどな……」


 スタントマン業が廃業となってしまった今では、必ずしもこだわる必要のないポイントになってしまった訳だが。


 ともあれようやく帰宅を果たすキリンジ。

 抱えていたシュラを居間の隅に降ろし、押し入れから敷布団だけを引き出すと乱雑に足元へ敷いてさらにシーツを広げる。

 シーツのしわを伸ばす必要もあるまいと手早く四隅の余り布を布団の下へ押し込むと、ようやくキリンジはシュラをその上へ落ち付かせたのであった。


「はぁー……タバコが吸いたい」


 一息ついてため息を深く吐き出すと、途端に空気の入れ替わった肺は再びニコチンの供給を求めてきてキリンジをげんなりさせる。

 そんな欲求を誤魔化すよう、改めてシュラの様子を窺った。

 仰向けに眠るシュラの姿は、その輝くような毛並みと相成ってはおとぎ話の姫君を想像させるようである。


 和装を思わせる上着は、金太郎の前掛けのようなものと構造が似ていた。一枚布の先端が二股に分かれていて、その股へ首をかけた後にうなじで結び固定する造りのようだ。

 加えて肌着の類も一切纏っていないことから、背中全面が露出するようなその上着のサイドからはけっして小さくはないシュラの横乳房も明け透けに窺えた。


 しかしながらこんな衣装にも拘わらず卑猥な妄想などが湧きづらいのは、ひとえに体表の悉くが毛並みに覆われていることと、あとは泰然自若として物腰柔らかいシュラの雰囲気がそれを感じなくさせているからだろう。


──……本当に何者なんだ?


 片膝を立てて座り込むキリンジは、膝頭に頬を預けたまま考える。


 歳の頃は自分とそう変わらないであろうシュラは『アンパン』すら知らなかった。そん な『お姫様』といった感の彼女の背景がどう考えても想像できなかったのである。

 大雑把に予想するならどこぞの箱入り娘が自由を求めて家を飛び出したというところではあろうが、いかんともその理由までは想像できない。

 あるいは日本人などではなく外国人なのではないかともキリンジは思った。そう考えを巡らせた理由にも、件の『人類獣化現象』が大きく関わっている。


 一連の事件以降、人類からは『言語』が消えていた。否、正確に言うならば『統一された』というべきか。

 あの日を境に外国人が自分と同じ日本語を喋り出したかのような、あるいは今まで聞き取ることの出来なかった言語を理解する『耳』を自分が手に入れたのか──ともあれ人類には、それまでの国ごとに分かれていた言葉の壁が一切無くなったのだ。


 人種による意思の疎通がずっと通じやすくなったことの利便性は大きな喜びを獣化人類に与えると同時に、今までになかった苦悩もまた芽生えさせる原因となった。

 それは、今キリンジが感じている疑問こそがまさにである。

 キリンジには、目の前にいるシュラが同じ日本人であるのか、はたまた外国人であるのかの区別がつかない。

 見た目では判別できない獣の姿と統一された言語──それらに阻まれて、キリンジが彼女から得られる情報は、見た目の『兎』という以外には何も無かった。


「……、そうだ。何か身元を証明できるものなんて持ってないのか?」


 その考えに至り、キリンジは体を起こすと四つん這いになりながらシュラに迫る。

 そうして左手側から彼女の寝顔を覗き込むと、その視線は左右に往復してシュラの全体をぐるりと熟視した。

 先の上着に緋の袴と足袋、の様相からはポケットの類は発見できない。

 ならばとキリンジはシュラの体に手を伸ばすも、触れる寸でのところで指先を止める。


「こういうのは、寝込みを襲うってことになるんだろうか?」


 そんなことを思った。

 眠りに落ちている女性の体をまさぐる自分を想像しては、自己嫌悪に襲われたのだ。

 しかしながらと、そんな考えを振り払う。

 このままでは埒が明かない。すでに自分もシュラも浅からぬ関わりを持っているのだ。


「このことは後でまた謝るよ。……許してくれ」


 一時瞳を伏せてこのことを詫びると、キリンジの手は改めてシュラに触れた。

 胸元や股間周りといった箇所にはなるべく触れぬよう衣類の表面を軽く叩きながら、あくまでも検査の体(てい)を遵守した触れ方をキリンジは心掛ける。

 上着の胴内に何か隠し持っているというような様子はうかがえなかった。

 そもそもこの衣類というのが先の『前掛け』の構造に加えて袖すらついてないような代物であるからことからも、この中に物体を抱え込むということは不可能に思えた。


「脇からこぼれちまうもんな。胸だって隠しきれてないってのに」


 ならばと今度は下袴に手を伸ばす。

 しかしながら袴にも同様に、ポケットや内袋のような類は一切発見できなかった。……加えて手応えから確認するに、どうやら下着も着用してはいない様子である。

 斯様なシュラを前に身を起こし、背筋を伸ばしては腕組みをすると、


「……進退窮まったか」


 キリンジは改めて深くため息をついた。

 こうなってはもはや、キリンジに探れる情報などは何も無い。ならばあとは本人に問いただすのみではあるのだが、


「それに何のメリットがあるというんだ?」


 そのことに気付いてなおさらため息を重ねた。

 彼女シュラに対し、自分が何をしたいのかが分からない。

 仮にシュラが全てを打ち明けてくれたとして、キリンジはその後の面倒も見てやらねばならぬのだろうか? あるいは何か、もっと重大な事件に巻き込まれることになるのやも知れぬ。

 いずれも御免被るとキリンジは思った。


「とんだ拾い物をしてしまった……」


 今更ながらそのことを後悔すると、そんな自分を責めるように強く頭を掻く。同時に胸の奥で燻ぶるニコチン切れの衝動も限界に来ていた。

 強くタバコを吸いたい欲求に駆られながら再度シュラの寝顔を見やったその時、


「………、んぅ」


 その寝顔に変化があった。

 艶っぽいうめきを漏らしたかと思うと、その淡い桃色の鼻先が引くつく。どうやら覚醒したようである。


「お、目が覚めたか? 大丈夫か、おい?」


 先にアパート前で拾った時のことを思い出しながら再び声をかけるキリンジを……シュラはわずかに顔を傾けると上目に見つめる。

 そしてしばしキリンジを見つめては柔らかく微笑むその笑顔に、


──またこの顔だ……


 僅かに下瞼を持ち上げたその笑みには、ともすれば妖艶とも取れぬ色気が漂っていた。どこか男を誘う時のような、そんな淫らな表情(いろ)がそこにはあるのだ。

『清純』ともとれるシュラが垣間見せるこの表情にこそ、彼女の秘密の一端があるのではないかとキリンジは考える。


 そんなことを思いながらキリンジもまた、いつしかそんなシュラの視線に絡めとられていた。

 身動きが取れない。とはいえそのことに違和感は覚えない。

 まるで時が止まった世界の中でシュラだけが動いているかのよう、見守る彼女の両手が伸びてキリンジの首に絡まる。

 そうしてぶら下がるように体重を預けると、それに引かれてキリンジもシュラの上に覆い被さった。

 寝そべる彼女の髪の左右に両手をつくと、さながらシュラを組み敷くような形になった。

 そして、


「あぁ……兄様。お待ちしておりました……」


 見つめてくるシュラは、再び兄の名をつむいだ。

 その言葉にシュラの意識がまだ完全には覚醒していないことをキリンジも悟る。同時に、


──まただ……またこの瞳と、そして兄を呼ぶ声……


 目の前のあるシュラの蕩けた様子に、キリンジは尋ねずとも彼女とその兄なる人物の関係を察する。

 それこそは決して許されぬ関係……しかし斯様なシュラに対し、キリンジは微塵の嫌悪も感じなどはしない。


 それこそは今現在、己達もまた歩んでいる禁忌の世界であるのだから。姉と許されざる関係を持ってしまった自分と同じ世界の中をシュラもまた生きている。

 いかに彼女が苦悩し、さらにはそれまでの生活と世界のすべてを捨てざるを得なかった無念と後悔の過去を──キリンジはシュラの表情から手に取るように察した。


「……大変だったよな、シュラ」


 期せずして、思い遣る気持ちは声となって漏れた。

 それを受けてシュラもまた、


「苦しみなんて、あろうはずがありません……愛しているのですから」


 キリンジに応えたものか、はたまた兄の幻影をまだ見ているのか──それでもシュラは、心穏やかに笑ってみせた。

 それを前にキリンジにも笑みが一つ。

 目の前のそんなシュラの滑稽さに笑いだしそうな、はたまた泣き出してしまいそうな衝動が咳のように胸の内を震わせて、キリンジの笑顔を震わせた。

 その瞬間であった──



『くぅおらぁぁぁぁ────ッッ‼ ぬぁにやっとんじゃあぁ────ッッ!!!!』



 突如として場に響き渡る第三者の怒号に、そんなキリンジの共感も消えて我に戻る。

 そしてそれに気付き、改めて顔を上げると同時──


「え──、ぶぐぉ……ッ⁉」


 顔面を吹き飛ばさんばかりに鼻先へ炸裂した衝撃にリンジは意識を失う。

 その最後の残像の中に垣間見た記憶は……悪鬼羅刹の如くに憤怒の激情へ牙をむいた、姉(ミコト)の形相であった。


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