【 1 】

『アンパンの選択は正しかった』──と、キリンジは思い込もうとした。でなけば、喉をひりつかせるニコチン切れの衝動に狂い出してしまいそうだったからである。


 8月も終わろうかという昨今は、既に夕暮れ時だというのに一向に涼しくなる気配が感じられなかった。

 まるで熱気の真綿を顔に押し付けられているかのような空気は、いっそうにヤニに灼けた喉を熱しては喫煙の欲求をキリンジに喚起させる。


「正しい……俺の選択は正しかったんだ」


 その発作へ再度言い聞かせるようにつぶやいては右ポケットを探り、その中の物をかき集める。

それに呼応するよう手首にくぐらせたコンビニのビニール袋が上下に跳ねては乾いた音を立てた。

 その中身は先刻購入したアンパンが2個と牛乳500mlパックが一つ……次いでポケットから引き出した右拳をゆっくりと開けば、そこには銅貨三枚が鈍い光をキリンジの目に返した。


「タバコは食えないしな……」


 またも押し寄せてくる喫煙の衝動に背を震わせると、キリンジは大きくため息をつく。

 アンパン2個と牛乳と30円……これが今の全財産であった。



 本日1999年8月27日──かの人類獣化現象より一ヶ月近くが経とうとしていた。


 あの日を境に人類は様々な動物へと獣化を果たした。

 ある者は猫科獣のしなやかな肉体を手に入れ、またある者が空翔ける翼を両腕にした鳥獣に──それぞれが変化した動物に見合った身体機能を得ることにより日常生活も大きく様変わりを果たした。


 それによって新たな恩恵を受ける者がいる半面、一方ではこれまでの生活から追われる者もまた数多くいた。

 現に今、金欠に悩むキリンジとてその一人である。


 境 麒麟児──当年とって17歳となる彼は、とある理由から生家を出て一人暮らしを余儀なくされた身である。

 当然のことながら学校もまた辞めざるを得ず、そんなキリンジが歩み出した第二の人生は『スタントマン業』に従事することであった。


 当座の食い扶持をしのぐ為にと選んだ仕事ではあったがしかし、なんともこれがキリンジの性に合った。

 もとより実家が古武道の道場を構えていたことからもキリンジには鍛えられた体幹と強靭な肉体とが備わっており、加えて痩躯であったこともまた、多様な役者の体格(シルエット)に合わせやすいということもあって実に重宝されたのだ。


 しかし、あの日を境にキリンジの人生は一変してしまった……そう、獣化現象が起きたあの日から。


 獣化における動物種の比率は犬・猫型の獣人が大半を占めた。

 世界比率における正確な数字までは知れないが、少なくともこと日本における割合は犬猫型が5割・大小草食獣3・鳥類1・その他動物達が1割といった比率である。

 そしてその比率は銀幕の世界においても当てはまった。今、日本の俳優業における動物比もまた犬猫型が圧倒多数を占めたのだ。


 そのことによってキリンジの役割も終わりを迎えた。


 名の通り『キリン』であるところの彼では、スタントに合わせるべき俳優達とシルエットが合致しないのだ。

 バイクアクションにおいて、シベリアンハスキーの俳優のアップでカメラを引いた次の瞬間、爆風に晒されて宙を舞う人影の首が伸びていたではギャグ映画この上ない。


 当初はキリンジも開き直ってコメディ色を前面に出した自分の起用を提案したが、この年の銀幕界はシリアスアクション路線が主流であり、キリンジの要求もむなしく彼は業界から干されることを余儀なくされた。


「余るほど首があるというのにクビか……」


 もはや持ちネタとして幾度使ったかもしれないそのジョークを呟くと、なおさらに侘しくなってキリンジはため息をついた。


 今の右手にぶら下げるアンパンは、そんな矢先の買い物であったのだ。

 ヘビースモーカーの性を抑え込み、明日を生き抜きことを考えて食料(アンパン)を選択したキリンジではあったが、それでもニコチン切れによる禁断症状に「やはりタバコにするべきだった」という後悔が時が経つほどに大きくなってくる。


「切り詰めればコレと水で六日は行けるか? ……ミコトが来てくれればな」


 呟きながら悲観的な未来図を思い描くキリンジ。そんな彼の脳裏にふと、実姉であるミコトの姿が浮かんだ。

 勘当同然に実家を出た際、唯一ミコトだけがキリンジの味方に付いてくれた。

 彼女自身は家に残ったが、それ故にそこからの物資を持ち出してはキリンジを助けてくれたのだ。


 まだ家出を果たしたばかりの頃は幾度その厚意に救われたか知れない……そして、『ならば今も縋るべきか』と思いを巡らせてしかし、キリンジはその考えを振り払った。


「ダメだ! ミコトにはもう……頼れない」


 誰に言うでもなく呟くとさらにため息を重くさせる。

 その言葉の真意は、自身のプライドやミコトに対する遠慮などではない。

 この時のキリンジは、


「もう……あんなのご免だ」


 ミコトを恐れていた。

 彼女に関わりあいたく無いが故の選択であったのである。


 獣化に際して生活様式が一変すると、それへ合わせるように性格やモノの考え方が変わってしまったという例もそこかしこで聞いた。

 そしてそれは最も身近な存在であったミコトも然りであったのだ。

 しかしながらそれが、性格の悪化による豹変や非情かというとそれは違う。


むしろ獣となった今では、昔以上の愛情をミコトは注いでくれる。……その注がれる『愛情』の強さこそがキリンジを辟易とさせる要因であった。

 誤解を恐れずに一言で言い表すならば、今のミコトの性情は『淫乱』の極みにあった


 思い出すだにキリンジは震えずにいられない。

 まさに獣化を果たしたあの日からミコトは一変した。


 もとより快活な性格ではあったが、大和撫子然とした芯を持つミコトからの関係は、怠惰を貪るというよりはキリンジのケアを考えての慰め方であった。

 けっして自身は快楽に流されず、近親相姦という禁忌の重大性を忘れない毅然さが在りし日のミコトにはあった。


 しかしながらそんな『女性(ミコト)』もすでに過去の人……今となっては、心よりキリンジとの情事に沈溺する『雌豚』──否、『雌兎』こそが現在のミコトであった。

 昼夜の境も無しにキリンジを求め、時においては場所さえも問わなかった。

 気分が乗った時、あるいは体が触れ合ったりは元より、果てにはただ目が合ったという理由だけでもミコトは発情した。


 もとより思春期とあってはヤリたい盛りのキリンジでもあったから、当初こそは興に乗ってそれを受け入れていた彼も、徐々にミコトの異常性に気付いてはそこへ戦慄を覚えるようになる。

 ある時など朝から来訪を受けて情交に耽った二人がその後、丸二昼夜日にわたって体を求め合った──などということもあった。


「まぁ、あの時は一方的にミコトから求め続けられたわけではあるんだが……」


 その間も食事らしい食事は一切摂らず、互いの体液だけを糧に死に物狂いでまぐわったあの記憶は、今ではキリンジの深層意識の奥底でトラウマとなって根付いている。

 そして満足するまで愛し合うと、ミコトはその見返りとばかりに食料や金銭を置いていくのである。


「ヒモ、ってところか……縛る首は余るほどあるからな」


 またも自身の動物を使ってのネタに自嘲する。


 ともあれ、もはや愛などは微塵も感じられないその生活に嫌気がさして、キリンジは彼女が訪れるであろう週末にはねぐらのアパートを逃げだすという日々を送っていた。

 その結果、兵糧切れを起こしての今に至る。

 家には帰れない、仕事もない、ミコトも怖い──八方塞がりとなった現状と未来に、只々キリンジはため息を重く湿らせるばかりであった。


「とりあえず、今日は健やかに過ごそう……明日からはまた逃亡の日々だ」


 そんなため息を鼻を鳴らして打ち消すと、キリンジは気分を改めて今日を満喫することに決めた。ミコトの襲来は「土曜日の朝」と決まっていた。つまり金曜日たる今夜は平和に過ごせるのである。

 しかしながら毎日が日曜日であるところのキリンジにはさりとてやることも無く、ならば寝て過ごそうかと自堕落な今日を心に決めたその時であった。


「……うん? なんだ? 誰かいるのか……⁉」


 ねぐらのアパートを遠目に確認したキリンジは、二階へと上がる縞鋼板階段の下に何者かがうずくまっている姿を見つけた。

 遠目にもそれを発見できた理由は、白地の服か毛並みに身を包んだかの人物が薄暗がりの中に一点、光るような点として確認できたからである。


 その一瞬ミコトの待ち伏せを疑ったキリンジではあったが、すぐにそんな予想を振り払う。

 かくいうミコトは青みがかった銀の短毛に加えて黒髪である。

しかしながら観察する件の人物は純白の毛並みとそして、クセ毛の金髪を放射状に膨らませた長毛であったからだ。


「とはいえ油断はできないな……コスプレとかそういう『プレイ』なのかもしれん」


 なおもいぶかしみつつも観察を怠らずに近づくキリンジ。

 そうして件の人物を目下に確認して、ようやくそれがミコトとは別人であることを確信した。

 そこにいたのは別な兎の少女であった。


 先にも述べた金髪は透明感のある髪艶が輝くようで、毛並みの強(こわ)いミコトとは全く別人種のように思えた。

 眠っているのか、どこか苦悶したような表情で瞼をつむっている目鼻立ちにも淡い桜色の血色が透き通っていて、見るからに高貴な育ちの少女であることを理解させる。


「誰だ、いったい? 歳は俺と変わらなさそうだが……」


 屈みこむと改めて少女の背格好を観察した。

 身に着けている衣類は白の着物と朱の袴に草履──上着は和装と思しきも、従来の前襟を重ねる着物とは違い、前掛けのよう前面の衣類を持ち上げては首の後ろに結わいで固定するといった特殊な造りである。


 それを確認した時の第一印象は、朱の袴も踏まえ『巫女装束』というのが率直な印象であった。そんな白兎の巫女君(みこぎみ)が、今にも朽ち崩れそうな安アパートの階段下でうずくまっているというのだから不可思議この上ない。

 斯様な状況に対し、分かろうはずもないその何故へ思いを巡らせるキリンジの気配を前に、


「……ん、んんぅ」


 件の少女が小さく呻きを上げた。

 閉じた瞼を震わせて鼻先を引くつかせるその様子に、キリンジも彼女が覚醒しようとしていることを察する。


「お、おい。どうしたんだ? 大丈夫か?」


 状況が状況であるだけに「大丈夫」なはずもなかろうに、そんなマヌケな質問しか出来ない自分を滑稽に思いながらキリンジは尋ねた。

 やがてその声に反応し、震えるまぶたを緩慢と持ち上げた白兎は、


「あ……兄様……?」


 キリンジを確認するやそう呟いて僅かに微笑んだ。

 その笑顔にキリンジは息をのむ。

 言葉からも身内に対して向けられたものではあるのだろうが、そこに宿る表情(いろ)には得も言えぬ妖艶さが漂っていたからである。

 しかしながらすぐに、


「……え? あ……ここは、地上なのですね?」


 正気に戻ったのか、少女はいぶかしがるキリンジの表情を改めて確認すると、意味ありげな質問を唐突にぶつけてくるのだった。


「地上? まあ確かにここは一階だが、アンタ何なんだ?」


 一方でそれに合わせたキリンジの返答もまた、間の抜けたものとなった。

思いやればこその、相手の視線に合わせた回答ではあったのだが、応えるキリンジ自身、己の言うことに理解が及ばない。

 しかしながらそんな不器用ながらも真摯なキリンジの対応は、少女の警戒を解くに万の言葉以上の効果があった。

 キリンジの滑稽さに小さく微笑んだかと思うと、


「申し訳ありませんでした。私事ゆえの言葉なのです。どうかお気になさらないでください」


 少女は物腰柔らかく謝辞を述べ、居住まいを正しては深々と頭を垂れた。


「あ、いや……こちらこそ」


それを前に対面するキリンジもまた、正座にアスファルトの上へ直っては両肩を沈ませる。


「あー……唐突で申し訳ないが、アンタこんなところに座り込んでどうしたんだ? ──あ、俺は境 麒麟児。『キリンジ』でいい」


「まぁ、素敵なお名前ですこと。私(わたくし)はシュラと申します。どうぞお見知りおきを」


 矢継ぎ早となるキリンジの質問にも動じることなく、少女・シュラは改めて自己紹介をしては此処にたどり着いた経緯を説明しようとする。

 ……しようとするも、


「私は……そうですねぇ………旅行者、でしょうか?」

「いや、俺に訊ねられても……」


 シュラ自身、その理由を考えあぐねているようであった。

 一連のやり取りから察せられる通り、シュラはキリンジに嘘をついている。しかしながら生来の性格から嘘のつけぬシュラは、相手の解釈に自身の嘘を委ねるという、なんとも間抜けな状況に至っていた。

 しかしながらそんなことなど、キリンジは一向に気にならない。

 それはシュラの温厚そうな人柄を確認できたということはもとより、


──所詮は他人だからな。


 そんな割り切りもあった。

 たとえどんな理由があろうとキリンジには、このシュラへ必要以上に干渉しようなどという気は端から無かった。

 人間が獣化してしまうような時勢である。人には話せぬ理由の一つや二つは誰しも抱えているものだろうと、自信を鑑みて思うのである。

 そんな風に考えた時、


──俺だって褒められたようなもんじゃないからな……。


 ふとキリンジは自身の出自にも想いを巡らせた。

 あの家にいた時のこと、そして家を出た時のことを思い出すと、胸中には不安と恐怖とが底知れずに沸いてくる。


──あぁ、いかんなあ……思い出したところで、何もいいことなんてないのに……


 そうして不意な記憶の再生に身を委ね、絶望の淵に気持ちが再び堕ちかけたその時であった。


「まぁッ、これは食べ物ですのッ?」


 突戸として響いたシュラの弾んだ声に覚醒してキリンジも我に返る。

 落下の悪夢から目覚めた時のよう、両肩を跳ね上げて顔を上げる目の前には──いつの間に手にしたのか、キリンジのビニール袋をのぞき込んでいるシュラの姿が目に映った。


「あ、あぁ……アンパンだが、どうかしたか?」

「これは『アンパン』というものなのですね? はあぁ……甘くて優しい香りです」


 キリンジの声に応えつつも、依然として両手に広げた袋の中を仰視するシュラの口角にヨダレの珠が浮かんだ。

 その様子からシュラが空腹を抱えているであろうことは、見るからに明らかであった。

 可憐な見た目とどこか浮世離れした口調から察するに、然る高貴な出のお嬢様が家出でもしてきたのかと、瞬間的にキリンジは想像してしまう。

 そしてその同情からもつい、


「良かったら、一つ食べるか?」


 おずおずと尋ねた次の瞬間には──


「ありがとうございます! いただきますですわぁー‼」


 シュラはお預けをくっていた子犬さながらに、袋の中へと鼻先を潜り込ませた。

 そうしてそこから、ビニール越しに直接アンパンを咀嚼しているであろう様子にキリンジもあわててシュラから袋を取り上げる。


「がうーッ⁉ がう、がうー!」

「慌てなさんなって。……ほら、こうして食べるんだ」


 一時とはいえ食料を取り上げられたことで恨めしそうな視線を向けてくるシュラの仰視に晒されながら、キリンジはヨダレまみれのビニールを破っては中のアンパンを取り出してやる。

 そうして再びキリンジからそれを受け取るや、


「な、なんですのこれは⁉ 甘いですわ! こんな甘いもの、美味しいもの食べたことがありません‼ おしっこ漏らしそうです‼」


 先ほどまでのお嬢様然とした雰囲気も台無しに、シュラは両手にしたアンパンへと貪り付くのであった。


「そうかいそうかい、それは良かった。じゃ、俺はこれで……──」


 そうしてキリンジもまたそれを見届けて暇を告げようとするも、


「まだありますわね⁉ 一個じゃ全然足りませんですのよ‼」


 瞬く間に一個をたいらげたシュラの右手は、立ち上がりかけたキリンジのコンビニ袋をむんずとワシ掴む。


「んな……何言ってんだ! これは俺のだ‼」


 そんなシュラからの暴挙に慄いては、瞬間的にキリンジもビニール袋を引き寄せる。


「独り占めしないでくださいませ! お慈悲を……‼」

「俺が恵んでもらいたいくらいなんだよ! 一個で我慢しろ!」


 互い十代とはいえ、いい体格の男女二人が口々に怒号を飛ばし合いながらビニール袋を引き合う浅ましさは滑稽の一語に尽きた。

 やがて華奢なビニール袋は当然のごとくに崩壊して、中身のアンパンと牛乳パックを宙へと放り上げる。

 それを宙空で見据えるや、


「えいや!」


 と、シュラは地を蹴り両手を伸ばすと、滞空のままにワシ掴んだアンパン丸一個を袋のまま口にほおばる。


「あ、あぁ! 俺の六日分……!」


 そうして数度の咀嚼の後、食いしばった歯牙の隙間から器用にビニールだけを引きずり出してくるシュラ──この間、僅か1秒弱。

 見た目以上に俊敏でどう猛なシュラの一部始終を目の当たりにし、キリンジはそんな刹那の世界でただ悲鳴を上げることしかできない。

 そして再びシュラが地へと両膝をつき、元の居住まいに戻る頃には……


「あ、あああ………ッ」

「んぐ、んぐ、んぐ……ッぷはー」


 両手にしていた牛乳パックの中も完全に飲み干して、小さなゲップを可愛らし気に奏でては微笑むシュラ。

 そうして再度キリンジを見上げてくるシュラはその礼とばかりに、


「はふぅー……堪能いたしましたぁ♡」


牛乳の白い玉露を口周りの毛並みに散らばらせては、満面の笑顔を向けてくるのであった。

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