高天原・天神嶺

たつおか

【 0 】



 行為の後に罪悪感を覚えなくなったのはいつの頃からだろうか? ──境(さかい) 麒麟児(キリンジ)は考える。



 仰向けに見上げている天井そこには、痩せた男の腹と美しい女の肢体とが映し出されていた。

 余計な脂肪などはついていない引き締まった自分の肉体はしかし、むしろ極限にまで無駄のそぎ落とされたその様が何とも作り物じみていて、キリンジ本人をげんなりとさせた。


 思い起こせば、初体験となったあの時も同じモーテルの同じ部屋であった。鏡張りの天井そこに映る全裸の自分と彼女の姿に、キリンジは「取り返しのつかないことをした」と慄いたものである。


 しかしそれも回数を重ねるごとに薄れていった。

 そして数度目となる今日にいたっては、特に何の感情も胸には湧いてこなかった。

 そのことをキリンジは危惧するのだ。


 危機感こそが最後の理性であったような気がしてならない。彼女と関係を持つことの意味、そしてその罪──人間(ひと)たるべき自分は、そのことをもっと重く受け止めねばならないのだ。


 それなのに今の自分はと言えば、何を感じることもなく行為後の余韻と疲労に身を委ねるばかり……もはや自分が獣にでもなってしまったような気さえした。


 考えが堂々巡りになるのを感じて、キリンジは手持無沙汰に枕元へ手を泳がせる。そうして煙草のソフトパックを探り当てると、片手で持ったそれを上下に振って中の一本を飛び出させた。


 意識するでもなく咥えたそれに火を灯し、最初の一口を深く吸い込もうと胸を膨らませた瞬間、


「女の子抱いた後にすぐタバコだなんて……ちょっと薄情なんじゃない?」


 寸でのところで無垢のタバコは取り上げられる。

 そのことに別段驚くこともなく声の方向へ視線を巡らせれば、そこには女が一人。


 疲労と快感の余韻がまだ残る目元を苦笑い気に緩めながら見つめてくるその顔――やや目つきの鋭いその造りは、なるほど自分の顔によく似ているとキリンジは思った。


 それもそのはずである。

 今しがたまで欲望と愛情の滾りをぶつけ合っていたその女性(ひと)は──この世界で愛してやまないその人こそは、紛れもない自分の姉であったのだから。


「そもそも未成年でしょアンタ? 不純異性交遊だけでも重罪だっていうのに」


 見つめ続ける姉──境(さかい) 巫女兎(ミコト)は取り上げたタバコを一吸いして紫煙をくゆらせると、その分だけ灰の燃え進んだそれをキリンジの口に戻してやる。


 それを受け取ってキリンジも一吸い。まるで今のミコトの言葉へ抗議するかのように、その一回でタバコは半分近くまで灰になった。


「何考えてたの?」

 薫る紫煙の、羽衣のような動きを目で追いながらミコトは尋ねる。


「……もう、人間(ひと)じゃないなって」


 そしていじわるのよう宙で曲線を描く紫煙を吹き乱しては答えるキリンジ。


「人じゃない? こんな立派な体持ってるくせに何よ?」


 見つめていた紫煙がかき消えると、ミコトの視線は自然にキリンジへと戻る。


「そうじゃなくて……姉弟でこんなことしてるのに、もう何も感じなかったから」

「3回もしておいて気持ち良くなかったっていうの?」

「だからぁッ……そういう意味じゃ」


 思わぬミコトの返しについキリンジは慌てふためく。見た目の大人びた印象とは裏腹に、そういった心根の部分では初心な彼の様子をミコトは心から愛らしいと思った。


「分かってるって。真面目だもんね、アンタ」


 絡みつくように左から抱き着くと、ミコトは愛情いっぱいのキスをキリンジの額にする。


 それを受け、迷惑そうにはにかむキリンジの表情は幼子の頃から何も変わっていない。それなのに自分はどれほど変わってしまったものか──そのことはミコトも常々感じていることではあった。


『人であるが故に許されぬ』という倫理観──キリンジ同様に、ミコトとてそれは強く感じている。しかしながらそんな考えの根の部分で、ミコトの想いはキリンジとは決定的に違っていた。


「いっそのこと、人間でなくなっちゃえばいいのにね」


 物思いにふけるよう視線を伏したミコトは、押し付けた人差し指の先をキリンジの胸板になぞらせる。


「人間じゃなくていい? どういうことだい、それ?」

「……『人間』だから、悩み苦しむのかなって思ってさ」


 近親相姦というタブーの果てに傷つけられた二つの魂──人間であることの放棄を拒むキリンジと、一方でそれを望むミコトの考えはまさに真逆といえた。


「人間じゃなかったならさ、こんなに迷わなかったんじゃないかな」


 そしてミコトは想像する。

 自分とキリンジは種も定まらない野良犬の子供で、互いシンプルな雄と雌はただ隣りだったという理由だけで惹かれ合い、そして結ばれる。そのことに自分達はもとより、周囲ですら咎める者はいない。


「獣ならそれが可能よ……愛することに罪を感じることもない。もしかしたら愛すらないのかもしれない」


 呟くように語り掛けながら仰視してくるその視線を受けてキリンジは息をのむ。

 半ばまで瞼の下りた眠たげな瞳は愛に恍惚としているとも、はたまた嫌悪に眉をひそめているようにも見えた。


──人だから苦しむと言うのなら、いっそすべてを捨ててか……


 そんなミコトの想いと表情に、まんざらでもなくキリンジもそう思えた。


「ねぇキリンジ……まだ、時間あるみたいだよ」

「あぁ……そうだね」


 そうして引き寄せられるよう二人の唇が触れ合い、再度互いを求め合おうと高揚したその時である。


「……──んぅ⁉」


 突如として顔を振り切ると、ミコトはキリンジの胸に両掌を押し当てては如実に拒絶を表す。

 そして突然のそれに何故を問う間もなく次の瞬間──ミコトは嘔吐した。

 口元へ両手を宛がうことすら間に合わず、それどころか尚も咽頭から溢れ続ける吐しゃ物に呼吸を遮られてはミコトも苦しみに喉を掻く。


「どうした、ミコト⁉ 何が……──」


 ようやくにそれを尋ね、彼女の容態を窺うべくに寄り添ったその瞬間──キリンジもまた同じく強い嘔気に襲われた。


「ぐ、ぐおッ……⁉ これ、はぁ……ッッ?」


 そして間髪入れずして現れる強い悪心と殴打されたが如くの頭痛。

 その段に至りキリンジは、


──薬物テロか……⁉


 そんなことに考えを巡らせたが、それもすでに後の祭り。

 ミコト同様に背を丸め、内より生じる苦しみに身悶えるキリンジはすでに指の一本ですら動かせない状態にまで陥っていた。

 その苦しみの最中、


「うッ……ぅがぁ! んががががががぁぁ……ッ‼」


 ミコトがおおよそ人のモノとは思えぬうめきを漏らす。

 声や言葉などと形容することの出来ない代物の音(それ)は、人間の声帯では発音しえない響きを帯びていた。

 そしてそのうめきをもたらす苦しみの正体をキリンジもまた直後に悟る。


「ぅおッ……ごぉおおおおおおおッッ‼」


 キリンジもまた、吼えた。

 その理由こそは頭部に生じた強い圧迫感によるもの。


 額に強く、何か物体を押し当てられているかのような感覚と熱とに脳が締め付けられ、さらには視界がぼやける。灼けた万力に押しはさまれて砕かれんとするかのような感触の中で、頭蓋骨がその圧に応じた形へと変化していくのを感じた。


 次いでその変容は肉体にも生じる。


 強くキリンジが感じたそれは首への衝撃──荒縄でくくられて引き延ばされているかのようなそれに喘ぎ、キリンジは何もない宙を搔きむしっては己の首に対して行われているであろうそれに無駄な抵抗をする。


 その後も肉体の痛みは止まることを知らなかった。

 両手の指先に刺すような痛みが走り、踵と爪先には千切られるかのような張力がかかって足の感覚を喪失させる。


──こんなことで……こんなことで、終わりだなんて!


 死を覚悟したキリンジの意識はただ一点、右手で空を掻く行動にのみ意識を集中させる。

 もはや視界さえ定まらない目の前の空間そこに何かを探し出すよう泳がせるそれは、やがて目的のモノをそこに掴み取った。

 それこそは、


「ミコ、ットぉぉぉおお……ッ!」


 姉の掌であった。


 そしてそれはミコトもまた同じ。


「キリンジッ、キリン、ジぃ……ッッ」


 残る体力のすべてを振り絞ってその手を握り返す。

 そんな苦しみの最中、


──もしかしたら……幸せなのかもしれない……


 誰ともなくそんなことを思った。


 苦しみの中にあって意識が混濁したこの場とあっては、それがキリンジのものかミコトのものかは最早、互いに判別がつかなかった。


 握りあう二人の手はまるで、同化して一つになったが如くに熱を帯びて感覚を痺れさせている。


──このまま終われる……愛した人と、愛し合ったまま終われる……


 そう思うと、まるで嵐を内包した肉体とは切り離されたように心は穏やかに安らいでいった。


──この次に生まれ変わる時は獣がいい……人間なんて、もうたくさんだ……


 そしてそんなことを思うと場違いにもそのことがおかしくなって、笑った。

 そんな気持ちに包まれて朦朧とした意識を虚無に泳がせ続けているとやがて、


「………ん、あ……あれ?」


 肉体に生じていたすべての痛みと苦しみが消えていることに気付いた。


「収まった? ……それとも、死んだのか?」


 無意識に考えは言葉となって漏れた。そんな自身の声を客観的に確認して、キリンジは今の状態が夢でも何でもない『現実』のものであることを悟る。


 瞬発的に走り抜けた後のように鼓動は強く早い律動で高鳴り、喉には灼けるような痛みと渇きとが生じていた。


「ミコト……ミコト、大丈夫かッ?」


 しかしながらそんな己の不調などは些末なこと。すぐにキリンジの意識はミコトへと移る。

 依然として握りしめ続けていた右手に気付き、彼女のものであろうそれを再びに握り直したその時であった。


「な、なんだッ?」


 手のひらに生じた感触は、絹のように滑らかな毛並みのそれ。明らかに人の肌とは違うその感触にキリンジは眉を顰める。


 そうして恐ろしいものを覗き見るよう、眼球だけを下降させて望む手元そこにあったものは──雪月下のように蒼い銀の毛並みの細腕。


 その光景にただでさえ忙しなかったキリンジの不整脈はさらに強さを帯びて胸の内を叩く。


──何が起きている? 何が……何が……⁉


 自分が握りしめているものの正体、そしていま目の前で起きている現実とそれを確認しようとする恐怖……それらに固唾をのんで、キリンジは握りしめたミコトの右腕の先を辿る。


 シワだらけのシーツをなぞって上昇する視線──その先にいたものは、一匹のウサギであった。


 長く側頭部から伸びた耳と小高い鼻頭に割れた上唇の面相は、紛う方なき獣のそれである。

 しかしながらそこに覚える違和感は、そんな獣の存在それだけではなかった。


 そのひとつが大きさである。かのウサギは人ほどの巨体をそこに横たわらせていた。加えてつま先立ちとなった踵の無い両足は、人の足のように長く伸びてはそこに『人間』の姿を形成している。


 今キリンジが握り続けている両手においても然りだ。

 手の平の薄皮一枚下には血肉を凝縮した暖かな肉球が心地よい柔らかさを伝える反面、指の背には余すところなく柔毛が密集し、そして爪には硬く鋭い新たなそれが生え揃っている。


 そんな銀兎を見守るキリンジの胸中には現状における混乱と、そして場違いにも目の前で眠るそれを愛らしく感じてしまう矛盾とが渦巻いていた。

 そうして見守り続ける中、ウサギが動いた。


 キリンジが目覚めた時同様に、突如として痛みの消え去った様子に気付いて我に返る。


「あ、あれ……体、治ってるの? キリンジ? ……大丈夫、キリンジ?」


 ゆっくりと上体を起こして小さく頭を振ると、未だ呼吸の整わない喉から声を震わせながらキリンジの名を呼ぶ。


 そして依然として握られている右手に気付いてはその一瞬、希望に表情を明るくするも──すぐに見下ろしたそこの異変に気付き、兎は安堵の面相を一変させる。


 そうしてキリンジの右手を辿り、恐る恐ると上げられた視線は……そこにて初めて、キリンジと結び合った。

 その一瞬ぱちくりと素早い瞬きをに二度三度まばたかせる。そして次の瞬間には、


「……ッき、きゃああッ! なにッ⁉ ケモノぉ! きゃああ‼」


 兎は握り続けていたキリンジの手を振り払うと、ひじを畳み顎の下で両手を組んでは胸を引いた。


「俺が、わからないのか……? そんな、まさか……」


 斯様な一連の兎の行動を目の当たりにして、キリンジはある結論にたどり着こうとしていた。

 そしてそれを確認すべく、意識して見ないようにしていた己の両手を恐る恐る目の前に広げる。


 金を思わせる黄の短毛を生え揃えさせた自身の腕には、その中に所々黒の毛並みが斑のように点在していた。掌にはゴムのような硬さと弾力宿した肉球が黒々と存在し、爪は数分前の透明感のあったものから黒く硬いそれへと変貌していた。


 キリンジの予想はまさに的中しつつあった。そしてそれは、目の前の兎もまた同じくに気付いているようである。


「まさか……キリンジなの? ううん、私だってそう……」

「本当に、ミコト、なのか?」


 再び兎と視線を合わせる。交わす言葉のやり取りには、互いによく知った親しみの響きがあった。

 見つめ合ったまま固唾を飲むと、期せずして次の瞬間に互いの行動が一致した。


 二人は天を見上げる。

 鏡張りの天井のその下には──


「あぁ……そんなぁ……!」

「俺達だ……まごうことなく」


 兎とキリンの獣が二匹、困惑した顔でこちらを見上げていた。







 1999年7月31日──世界は、同時発生という人類の『獣化現象』に見舞われる。

 奇しくも終末が予言されていたこの日、人類は地上より消滅したのであった。




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