【 5 】


「まずは一回! 話はそれから! ね!?」

「や、やめろミコト! あぁ……やめて!」


 左手で抵抗するキリンジの手首を抑えつつ、残る右手の人差し指で荒々しく襟元のタイを緩めるミコト──そうして今にもキリンジを犯そうと気分を昂らせたその時であった。


「はぁはぁはぁ………ん?」

 ふと目の前に、何者かの顔があった。

 その気配を察し上目遣いに視線を移動させるその先にあったものは……


「──あら? 気になさらずに、どうぞお続けになってくださいな」


 見知らぬ女性の笑顔──この場には似つかわしくないシュラの慈顔であった。


「だ、誰よアンタ!?」


 この顔見せにはさすがに驚いたようで、思わずミコトも胸を引いてはのけ反る。


「し、シュラッ!? 起きたのか?」


 自分の頭の上に登場したシュラに気付いて、キリンジも組み敷かれている下から上目にそれを確認する。……するも目の前には、衣類越しのシュラの乳袋が視界を埋めるばかりで一向に自分の上で何が行われているのやら要領を得ない。


「邪魔だては致しません。お二人のご関係にはすごく興味がありますの。どうかお続けなさってくださいな」


 さらにシュラが身を乗り出すと、


「──ッぶわ!? しゅ、シュラぁ!」


 彼女の下乳は完全にキリンジの顔に乗りあがっては文字通りその視界を塞いでしまう。


「あー、ちょっとぉ! なに人の男にオッパイ押し付けてるのよ! アタシのキリンジを誘惑しないでもらえる!?」


 その様子に気付いてはミコトも再び身を乗り出してシュラに迫る。


「もがが! もがもがもが!!」


 しかしながら一方のキリンジはといえば、誘惑される・されないの問題ではない。

 現実問題として、シュラの乳房の圧に顔面を覆われてロクに呼吸も出来ない状態だ。それを払いのけようにも、基本的な四肢の自由は未だミコトに封じられたままである。

 そんな状況で自分の体の上ではシュラとミコトのやり取りが続いていた。


「キリンジから少しだけ聞いたけど、あなた何者なの? どう見てもここらへんの人じゃないようだけど……」

「私(わたくし)ですか? ──あ、申し遅れました。私、シュラと申します。どうぞお見知りおきを」


 キリンジの時同様、どこか会話のテンポが嚙み合わずにちぐはぐなやり取りになっている二人……しかしながら、ミコトのシュラに対する警戒は徐々に解かれつつあった。


「なんか見た感じアジア系って感じだけど、そのオッパイとか日本人って感じでもないわね。どこの人なのあなた?」

「そうですねぇ……その『日本』というのが実はよく分かりません。なにぶん、外界というものをあまり知らずに育ったものですから」


 お恥ずかしい、と顔を伏せるシュラの態度を見るにどうやらキリンジの想像通り高貴な出の身分らしい。今に至るまでの言動からは、彼女が確信犯的にキリンジ達をからかっているようには思えなかった。


「お嬢様ってこと? まあアタシも『姫』なんて呼ばれることもあるから人のこといえないけど、それにしたって世間知らず過ぎるんじゃないの?」

「申し訳ありません……事情があるのです」

「んぅッ? んうぅーッ!」


 ミコトの追及に答えあぐねては、シュラも手持ち無沙汰にキリンジの体へ指を這わせる。繊細なシュラに指先が胸板の上で弧を描く感触に、キリンジもくぐもった声を上げた。


「ん~……まぁ、大変そうね。で、どういう理由でそのお嬢様がこんなところに居た訳? こうやって知り合ったのも何かの縁だろうし、アタシ達に出来ることなら協力してあげるわよ」


 いつしかミコトもまたシュラに肩入れするようになっていた。キリンジもそうであったがこのシュラには、どうにも放っておけない何かを感じる。もはやそれは本能レベルでの庇護と言ってもよく、無条件での世話焼きをミコトはシュラに施そうとしている。

 もっともそこには、元来世話好きなキリンジとミコトの性格もまた反映されての所もあるわけだが。


「まぁ、お言葉に甘えさせてもらってもよろしいのでしょうか?」

「いいわよ。ここまで来たらもう、ね? 遠慮なく言ってちょうだい」


 キリンジの胸板の上、頬杖を突きシュラと対面するミコトには既にシュラに対する警戒は無くなっていた。それこそ、この短時間でどうしてこうまでも親密になれてしまうのかが不思議なほどであるが、そのことに二人は何ら疑問を抱いてはいない。

 そしてシュラからのとある要求に事態は一変する。


「人を……いえ、なにか団体であるのかもしれません。あるものを探しているのです」

「探し物? 一体なにかしら?」

「はい。『てんさんぽう』──というものをご存知でしょうか?」


 その質問に、ミコトはもとよりキリンジもまた息をのんだ。


 シュラの言う『てんさんぽう』は、間違いなく二人の生家である『天三宝』を指し示しているのだろう。しかしながら問題は、何故シュラがその名を知っているかである。


『道場』と名乗りを上げてはいても、キリンジ達『堺家』の天三宝は表立った看板を掲げているわけではない。その存在はむしろ、世間に対しては秘匿されているといってもいい。単なる一般人がおいそれと知れる名ではないのだ。


──なぜ……『俺達』のことをシュラが知っている? 


 途端にキリンジは頭の芯が冷めていくのを感じていた。自分達の存在を知る者──そしてそれを探す者の『目的』はただ一つであったからだ。……それこそは、キリンジが堺家を逐電するに至った何よりもの理由に他ならない。


 一方でそんなシュラの告白に衝撃を受けているのはミコトもまた同様であるらしかった。

 しかしながら驚愕に色を変えたキリンジとは異なり、ミコトの顔からはその表情の一切が消えていた。ただ見開いた目が、古木の洞(うろ)のように黒く濁っては眼前のシュラを見つめるばかりである。

 やがて、


「………月よりいでし綺羅の道 日の元に分かつ」


 なにやらミコトが呟いた。

 シュラに圧し掛かられているがゆえに不明瞭ではあるが、キリンジも初めて耳にするその文言に何やら戦慄を覚える。


──何を言っているんだ、ミコト? ……なんだそれは? 何なんだ……ッ?


 次いで震えが身を襲う。

 己が体に覚えるそれらが畏怖によるものだとキリンジは気付かない。気付けないながらもそれが禁忌の領域でのものであることを、自身の根底に流れる古き血が反応するかのようであった。

 そしてそれを受けシュラもまた、


「まぁ。………地にあらば見る夜見(ヨミ)の道 望む まぐわいまぐわい」


 呼応した。


 紡がれるその言葉にさらにキリンジの震えは強さを増す。その揺れは、いつしかシュラとミコトがその上にいられなくなるほどの異変としてキリンジの体に生じていた。


 やがて二人が己の上か退くや否や、キリンジはバネ仕掛けのよう跳ね起きては止めていた呼吸を大きく吐き出した。

 あまりに強く息を吐きだすあまり、喉の内が痒みを帯びてキリンジは数度せき込む。


「まぁ、大丈夫ですの?」


 それを前にいとあけらかんと気遣いをするシュラ。

 差し伸べられる白い柔毛のその手を目の端にとらえたキリンジは、


「ッ!? お、おぉ……ッ!」


 この世の者ざるものを前にした心地がした。

 目の前にいる白兎の獣人がひどく恐ろしいものに思えた。獣化人類を初めて目の当たりにした時のような原初の恐怖がこの痩躯を包み込んだ。


「はぁはぁ……な、何者だ、お前?」


 尋ねるキリンジに、


「シュラです」


 答えにもならぬ返答で応えるシュラ。


 しかしながら目の前にするその柔らかな笑みはいつしか、元の柔和で暖かみのある印象へと戻っていた。

 キリンジ自身も落ち着きを取り戻しつつある。むしろつい先ほどまでの畏怖と動揺が噓幻であったかのように思えて、我ながらその心境の激変に強い疑問を抱く。

 とはいえしかし、


──何だったんだ……今の?


 理解が及ばぬ以上、そんな自身への問いが無駄であることは分かっている。それでもしかし考えずにはいられないのだ。

 ならばシュラへ直接に問い質そうと顔を上げるも、


「し、シュラ」

「はい、何でしょうか?」

「あ……いや………」


 キリンジは口つぐんだ。

 恐ろしかった。


 それを確認してしまうこと、今一度あの感覚を味わうことに対する恐怖心に身がすくんだ。ついには追及の言も尻すぼみとなり、やがては曖昧となって消えた。


──無理に追及することも無い……どうせ他人なんだ。


 そう思い込んでは自身を慰め説得させる。

 弱い生き物の性ではあるが、キリンジは今しがたの違和感と恐怖を忘れることにした。己の勝手な思い違いであるとして、また関わりあいのないものとして処理したのだ。


 そう一応の決着を自分の中につけると、改めてキリンジはミコトが消えていることに気付いた。


「……ん? み、ミコト?」


 そうして視線を狭い室内に巡らると──玄関ドアにほど近いキッチンの前にミコトはいた。


「──……うん、そう。ヌコロフさんに伝えておいて。夜が遅くなるから、って」


 携帯電話に耳を傾けては何やら電話をしているその様子は何らいつものミコトと変わりはない。

 ウサギ特有の長い右耳を折り、この当時には最新機種であったフリップタイプの携帯電話をその耳たぶで包み込むようにして使用している。


「それからサヤカ、アンタもこっち来なさい。アタシ一人じゃ大変だからさ。……うん、じゃあ気を付けてくるのよ」


 やがて折りたたんでいた耳を伸ばし、携帯の通話も片手で操作して切ると──ミコトもまたキリンジの視線に気づいて鼻を鳴らした。


「ま、しょうがないわね」


 そして開口一番にそう告げる。


「なんだかそっちのシュラさん、アタシ達のお客様みたいね。むしろ良かったんじゃない? 手間が省けてさ」


 飄々としたその態度は紛う方なきいつも通りのミコトである。そこには何ら不自然さも無い。

 そうなってくると今しがたまでのやり取りと、異界に足を踏み入れたが如き感覚のすべてが夢だったのではないかとキリンジは思えてくる。

 そんなことを取り留めも無く考えながらぼんやりとしているキリンジに、


「大丈夫、アンタ? シュラさんのオッパイに潰されてまだ酸欠になってるんじゃない?」


 再びミコトは声をかけたかと思うと苦笑いに鼻を鳴らす。


「ち、ちがうよ! そんなんじゃ……」


 シュラの乳房をネタに出されて思わずうろたえるキリンジに今度はミコトも笑いだすのであった。


「いっちょ前に背だけは大きくなってるのに、本当に中身は可愛いまんまねアンタって。ほら、布団片付けて。ご飯の準備するよ」

「まぁ、ご馳走してくださいますのッ?」


 そうして玄関に放り出してあったままの買い物袋を持ちあげるミコトにシュラもまた瞳を輝かせて駆け寄る。

 キッチンに置いたその中身の一つ一つを問い尋ねるシュラとそれに応えるミコトの明るい声を聴きながら、


「……夢だった、のか?」


 一人、和室の居間に取り残されたキリンジは小さく呟いては鼻を鳴らす。シュラの存在を除けば、すべてがいつもと変わらぬ日常の光景であった。


 そうしてふと窓の外に視線を投げれば、空には藍の帳が裾を下ろした夜が一面に広がっている。今日の夕暮れの記憶は微塵として印象に残らなかった。


 いつになくそれが唐突に訪れたような気がして、キリンジも窓から身を乗り出しては空を望んだ。


 満天の小夜にはただ一つ、巨大な月が星の煌きすら飲み込んで──キリンジを照らしていた。


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