第7話
いやいや、いかんいかん。
兵十は思い直した。
幾ら二人で楽しい正月を迎えるのに必要な銭を稼ぐ為とはいえ、こんに嘘をつく訳にはいかない。
兵十は引き金に掛けかけていた指を外すと、銃口を斜め上に向けて狐から狙いを外した。
それに自分は、嘘を吐くのが苦手だ。
すぐ顔に出てしまう。
こんも今は、まだ森の中にいるかもしれない。
ばったりと出くわして、狐を持っている所を見られて、また気絶でもされたら大変な事になってしまう。
それとも、もう家に戻っている頃だろうか?
降ってくる雪を見上げて眺めながら、兵十は考えた。
こんが家に戻って自分がいない事を知れば、怒るだろうな……と、彼は苦笑いした。
兵十は再び追いかけっこ中である二匹の獲物を見つめる。
兎だけを狙えるだろうか?
兎は狐から逃げる為に円を描く様に、くるくると回っていた。
難しい状況だが……それでも兵十は、九割方で兎だけに当てる自信があった。
しかし、残りの一割で万が一という場合もある。
兵十は周りが言う程に自分の腕前と、何より大事な運を信じていなかった。
逆に狐だけに当ててしまったら……そう思うと、踏ん切りがつかなかった。
どうしようか? ……と悩んでいたら、兎が背の低い木々の中へと無理矢理に身体を捻じ込む様にして飛び込んだ。
狐は追うのを諦めると、お尻を下げて座って、兎の入って行った木々を見つめていた。
「お互い、食べていくのも大変だな」
兵十は、そう呟いて苦笑いすると、その場を去ろうとする。
しかし、その時に、ふと狐の背中を見ると、何やら赤くて細い紐で結ばれた、光る物がある事に気がついた。
兵十は気になったので、目を凝らして良く見る事にした。
「あれは……俺が、こんに渡した筈の櫛じゃないかっ!?」
兵十は驚いた。
なぜ盗っ人狐が、こんの櫛を持っているのか?
盗っ人狐の正体が、こんである事を知らない上に、まさか自分が狐に化かされているなどと思わない兵十の辿り着いた答えは、一つだった。
こんは獲物を罠で捕まえようと、森の中へ入った。
それを見ていた盗っ人狐が、こんの持っている、きらきらと光る櫛に興味を示した。
盗っ人狐は櫛を奪い取ろうと、こんに近付いた。
こんは驚いて気絶してしまい、櫛を盗っ人狐に奪われてしまったのだ。
想像しながら兵十は、そういう答えを導き出してしまった。
それなら気絶してしまったであろう、こんが危ない!
森の中を今すぐ探しに行かなければ!
だが……その前に……。
兵十は猟銃を再び構え直すと、銃口を右耳の白い狐に向けた。
「あの盗っ人狐め……もう許さん……」
鬼の形相になった兵十は、殺気だけ消し去ると、ゆっくりと引き金に指を掛けた。
「こんの櫛は、返して貰うぞ?」
怒りが、こんと交わした約束を頭の片隅へと追いやってしまう。
迷いの無くなった兵十は、躊躇わずに引き金を引いてしまった。
その一瞬より少し前のこと。
「惜しかった……」
兎が逃げ込んだ木々を見ながら、こんは狐の姿のままで残念に思っていた。
「流石に大きすぎたかしら?」
後を追うのは容易いが、追った所で仕留める自信が無くなっていた。
「雪?」
兎を追うのに夢中で気付かなかったが、雪が降ってきていた。
まるで舞い散る白い花びらの様な雪は、こんの足を着けている地面へと辿り着くと、地を覆う仲間の雪に溶け込むように消えた。
その白い花びらたちが、こんの見ている木々の方へと流される。
こんの背中の方から、風が吹いていた。
風と一緒に、匂いが流れてくる。
「人間の匂い!?」
こんは緊張した。
しまった!
こんなに接近されているなんて!?
狩りに夢中で、気が付かなかった!
だが、この人間の匂いを、こんは知っていた。
すぐに兵十だと分かる。
こんは喜んだ。
しかし同時に、こんの鼻に漂ってきたのは、火薬の匂いだった。
こんは兵十の方へ振り向こうとした。
今まで受けたことも無い衝撃を腹に受ける。
彼女は身体を、くの字に曲げて吹き飛んだ。
何が起こったのか?
こんには、まるで分からなかった。
ただ痛みだけが、腹の底を掻き回す。
抑えきれない何かが、彼女の喉の奥から、せり上がってきた。
こんは堪え切れずに、それを吐き出してしまう。
大きな咳の様な声音と共に真っ赤な花が、こんの口の側にある白い雪の上に咲いた。
「はははっ! 仕留めたっ! 仕留めたぞ!」
兵十の喜ぶ声がする。
こんは身体が痙攣して動かせないので視線だけを彼に向けた。
兵十は銃口から煙が流れている猟銃を片手に、嬉しそうな顔で彼女の側へと駆けてきた。
私は兵十に撃たれたの?
どうして彼は、私を撃って喜んでいるの?
こんは訳が分からなかった。
兵十は盗っ人狐の首に掛かっていた赤い紐を無造作に引き千切った。
そして大事そうに櫛を手に取る。
「これは、こんの物だ。返して貰うぞ?」
その言葉で、こんは全てを理解した。
ああ、自分は勘違いをされてしまった。
あの時は本当に鰻を盗んだ。
でも、これは勘違い……。
いや……。
いやだ……。
大好きな人に思い違いをされたままで……逝くのは、いやだ……。
こんは人間の姿に化けようとしたが、命の灯火が消えようとしている彼女には、もう……そんな力など残されていなかった。
こんは涙を流す。
涙を流す瞳のままで、高く立っている木々の天辺を見た。
天辺の隙間に雲間から覗くようにして、半分に欠けた白い月が見えた。
こんは月を見ながら、また神様に願い事をした。
兵十は血を流して倒れている若い雌の狐を見て、罪悪感を感じていた。
何も、殺す事は無かったのではないか?
怒りに我を忘れていたとはいえ自分は、とんでもない事をしてしまった……。
しかし本当に、とんでもない事をしたという事実を理解するまでに、そう時間は掛からなかった。
兵十は瞬きをした。
ただ、それだけの一瞬だったのに目の前の狐が、こんの姿へと変わってしまった。
兵十は驚いて手にしていた猟銃を落とした。
月が半分だったせいだろうか?
こんの姿は半分が人間で、半分が獣だった。
茶色い左耳と白い右耳は、狐のまま。
肌色をした人の尻から生えている物は、狐の尻尾だった。
その異形の姿は否応無く兵十に、あの盗っ人狐こそが真の……こんの姿であると、理解させるには充分だった。
「そんな……馬鹿な……」
兵十の膝が折れて、雪の積もった地面に着いた。
彼は呆然として恋しい人の、血だらけの、変わり果てた哀れな姿を見つめた。
こんは半分だけでも人間に戻れたので、狐よりも大きな身体になった為か、痛みが少しだけ和らいだ。
しかし残された時間が多少長くなっただけなのは、彼女にも理解できた。
こんは兵十に微笑んで話す。
「私も……母様に……美味しいものを……食べて欲しかったのです……」
兵十は最初、こんが何を言っているのか分からなかった。
「貴方の……大切な……鰻を……盗って……しまって……ごめんなさい……」
その瞬間に今までの、こんの献身の理由を理解した兵十は、彼女の手を握って首を左右に振った。
「今まで……あの時の……狐であった事を……黙っていて……ごめんなさい……」
こんの瞳に光は、もう無い。
兵十の姿を見ることが叶わないまま、彼女は言葉を紡ぎ出す事だけを続けた。
「
兵十には首を左右に振り続ける事しか出来なかった。
その否定は謝る必要は無い、という意味なのか?
それとも夫婦になれない事を認めない、という意思表示だったのだろうか?
こんは掌から暖かさを感じたのか、自分の手を握り締める兵十の手を見詰めているかの様に首を傾けて言う。
「ありがとう……」
礼を言う、こんの姿が透けていく様に消えると後に残されたのは、若い狐の亡骸だった。
兵十の握り締めている、その小さくなってしまった前足が、少しずつ冷たくなっていく。
こんの前足を握り締めたままで自分の両手に額を擦りつけながら、兵十は泣いた。
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