2 コントロールできない複雑な感情




 スマホのアラームで起床。枕に顔を半分うずめながら、ベッド上部の棚でわんわん騒いでるスマホを右手で探る。充電ケーブルをはずして、指紋認証でロックを解除、アラームも止める。

 液晶の画面が眩しい。薄目でSNSの画面を開いて、裏アカのフォロー一覧からイチハル先輩のもとへ飛ぶ。

 おはようございまーす。

 先輩のアイコン(弓道の的)に向かって、心の中でご挨拶。これが私の朝の日課です。

 それだけ終えると、私はすぐにベッドから出た。起きたらやんなきゃいけないことがある。まだ小学生の弟と妹を叩き起こすのだ。




 5月29日、4時間目の体育。

「暑いよー恵華ぁぁぁぁ! 助けてよぉぉぉぉ」

「……私だって暑いわよぉ」

「まだ一応5月だよ、こんなに暑くてどうするの? ねぇ、8月がきたら私たちどうなっちゃうの?」


 暑い。空から降り下ろされる陽射しが暑い。土のグラウンドから吹き上がるような熱気で暑い。美しいはずの青空が暴力的に見える。体中から汗が噴き出て、気持ち悪い。そして絶対今の私は臭い。デオドラントスプレー持ってきてよかった。


 本日の体育はリレーの練習だった。クラス全員リレー。

「足の遅い人間をはずかしめ、おとしめる恐ろしい種目……」

「アリス、大丈夫? あんた、なんかぶつぶつ言ってるよ?」


 中間テストも終わり、高校入学後最初の行事、体育祭が近づいていた。ここ最近の体育の授業はずっと各種目の練習。

 準備体操後、生徒が出走順にだらだら並ぶ。そのリレーが始まる前のちょっとした隙間の時間をおしゃべりに費やしていた。

「恵華は足速いからいいなー」

「そりゃ、運動部だからねぇ」

 あらためて友人の体操着姿を上から下まで舐めるように見た。

「なに、気持ち悪いんだけど……」

「あのさ、恵華ってさ、モテるでしょ?」


 体操着から伸びた細い手足は、ほんのり日焼けし、なんだか色っぽい。顔立ちも華やかで、性格もやけに落ち着いているし、高校1年生とは思えない大人の雰囲気を漂わせている。


「あー中学の頃は女子の後輩にはモテてたかも」

「いや、でも男子にもモテたでしょ?」

 そこで私はある重大なことに気づいてしまった。まだ大事な質問を恵華にしていない。


「ねぇ、恵華って、彼氏いる?」


 ピーーーーっと笛の音が響いた。始めるぞーーという体育のおじさん教師の声がそれに続く。我がクラスは最初に数名の足の速い戦力を投入する作戦なので、恵華は2番手に抜擢されていた。

 彼女は妙に無表情だった。手首や足首をプラプラさせて、体をほぐす。そして、去り際にたった一言。

「いるよ」

 追撃の隙を与えない、見事な作戦だった。




 帰宅途中の電車の中、ドアにもたれかかりながら、外の景色を眺めている。

 いつもならニヤニヤをこらえつつスマホの画面に集中する時間だが、今日はそんな気になれなかった。


 電車は川を渡る。鉄橋をガタンゴトンと揺らしながら、西陽を受けて進んでいた。

 夕焼けがキレイ。夜の紫、夕の橙、昼の薄藍が、絶妙なグラデーションを生み出している。こんなこと、空にしかできないと思う。この3色の絵の具を組み合わせても、こうは美しくならないだろう。


 川面に揺らぐ夕暮れの光は切なげに輝いて、今日の昼休みの恵華を思い起させた。

『うん、私の彼氏ね、大学生』

 あのクールな恵華が、俯き加減に恥ずかしそうにしている。お箸でお弁当のウィンナーを転がす姿は、なんとも可愛い。


『去年は彼が高3、私が中3。お互い受験でしょ、塾の自習室で知り合ったの。彼、私が中学生だとは思わなかったみたいだけど』

 小さくため息をついて、ほんの少しだけ口を尖らせて続ける。

『なかなか会えなくて。もちろんLIMEで毎日やり取りはしてるよ。でもさ、会えないと、やっぱり……つまんないよね』

 ちょっとの沈黙のあと、つまらないと言った恵華。でも本当はこう言いたかったんじゃないかな。


 ――寂しい。


 あぁ、この子は恋をしているんだ。

 「つまんない」とこぼした彼女の瞳に、特別な光が宿っているのが分かった。

 その秘めた光から、愛しさとか、苦しさとか、寂しさとか、憧れとか、大好きとか、嫉妬とか、いろんな感情が生まれている。


 どちらかというとドライだと思っていた彼女は、コントロールできない複雑な感情を、心に隠していたんだ。


『亜莉子はどうなの?』


 尋ねられて、最初はなんのことか分からなかった。


『SNS眺めてるだけで満足なの?』


 痛みを感じるほど、私の胸はドキリとした。



◆ ◆ ◆ 



イチハル 2017/05/24

テスト終わったー!

いろんな意味で!

↪1 ⇄ ❤15


イチハル 2017/05/25

テスト終わってまったりしてたら、なぜか姉にキレられた

受験のストレス俺にぶつけんなしw

↪ ⇄ ❤9


イチハル 2017/05/27

次の日曜はナオキとリュータとカラオケ行く

一中弓道部のヤツ、他に誰かこない?

↪2 ⇄ ❤13


イチハル 2017/05/27

すげー眠い

↪1 ⇄1 ❤8


イチハル 2017/05/29

体育祭、緑組はガチ勢多い

♯俺含む

↪3 ⇄ ❤29


 あと1週間で体育祭。今年は応援団に入っているから、頑張って盛り上げとかなきゃ、と思いながらSNSに呟いた。


 うちの学校の体育祭は、縦割りでチームを作る。全校で6色のチームでの対抗戦となって、各色に各学年1クラスずつが割り振られる。

 俺たちのクラスは緑組。サッカー部と女バスが多くて前評判のいい1年2組と同じチームなので心強い。


 SNSの通知が続けて入ってきた。リプと、ファボが増えていく。よしよし、意外とみんな体育祭やる気じゃん。


 ピコン。

 また通知音が鳴った。


【アリスさんが返信しました】


 え?

 アリス?

 その通知に、スマホをいじる指が一瞬止まった。


 ――謎のアカウント『アリス』からのリプ。

 初めてのことだった。


 1週間ぐらい前に、気持ち悪いアカウントだと思いつつも、それ以降はあんまり気にしてなかった。

 4月以降、弓道部の勧誘目的もあって、何人かの新入生とこのSNSで繋がったけれど、正直言って誰がどの後輩かしっかりとは覚えてない。本名とは全く関係ないアカウント名使っている人もいたし、途中でアカウント名もアイコンも変えちゃうような奴もいるから、素性(?)が分からなくなってもしようがない。


 アリスもそういう後輩の1人だと思って、気にするのをやめたのだ。

 ただ、リプが飛んでくるとは思っていなかった。

 ちょっとビビりながら、その内容を確認する。


 アリス 3分前

 返信先:@ichiharu_lampsさん

 私も緑組です。頑張りましょう!

 ↪ ⇄ ❤


 私も緑組――ということはやっぱりうちの高校。そしてきっと後輩の誰か。だとすれば緑組だから1年2組だ。

 ――1年2組のアリスさん。

 俺の呟きになぜかたくさんをくれる人。

 いったい、どんな人だろう?




 

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