第3話


 物事はなんでもだけどまずは気づくことが大切。なにに気づかないといけないのか、それは気づかないことがあるということ。ではどうして気づかないのか、その最も大きい理由は気づきたくない。


 気づくためには必要なことがある。見える。聞こえる。人は視覚が情報として処理出来る感覚の九割を占める。ということは十割の中から一割に過ぎないくらいの聴覚はその聞こえている音のほとんどの情報を処理することなく放置していることになる。でもそれは目という器官がその能力を発揮している時の状態のこと。目という器官の機能が発揮出来ない情況下では耳の情報が処理されて用いられる。夜という状況下では音には不要な印象や心象が情報として加味され誤った情報の処理を起こしやすくなる。夜は怖いということは本能がかかえる必然といえる。なぜなら襲い来る生き物は闇に乗じて訪れるから。


 あらゆる結果には必ず必然がある。その必然を見つけることが先の偶然を偶然から必然の領域に感じる方法となる。見えるのも聞こえるのもそこにはその器官が生まれ機能として働く理由がある。解きは時が説く。期間が生まれ昨日として働く理由がある。結果と原因と目的に気づくこと。感情という感覚を情報として処理した情報を感覚として伝えられたものにも誤処理というものが起こる、理性の本質は計算にあるが、本能は計算の外にある。


 物事はとても簡単なものととても難解なもので成り立つ。それは言い換えるととても単純なものと、とても複雑なものともいえる。とても簡単なものそれはとても単純なものつまり二つないものだから一。とても難解なものそれはとても複雑なもの一つもないものつまり零。解くのが難しいのは解けないものだから。


 とく、解く。ほどく、解く。とける、解ける。ほどける、解ける。とける、自然に。自然にとける。自然に融けるのは雪、自然に説けるのは逝き。どうして自然に感じるのか。それは例外がないから。生きるということには生死という二極は必然である。これはつまり生「1」死「0」ということ、これはつまり光「1」闇「0」ということ、これはつまり陽「1」陰「0」ということ。それは陽+と陰-ということ。この記号を言語化すれば+は足すで多を示す。-は引くで少を示す。これは数の領域のこと。


 では数のない領域ではどうなるか。足すは大を示す。引くは小を示す。答の導き方として最もを用いる。最も多いものにはそれこそ限りないくらいのものが必要になる。最も少ないものには最も速く近づける。増えると大きくなり多くなる。大きくなり多くなると中心から離れる。


 最もはじめに生まれる場所が中心。つまり方向は外ではなく内に向わないと中心には辿り着かない。遠心と救心、数が隠れているのは救つまり九それはつまり口という場所。求めるなにを、助けを。すると手が生まれる。左右でナは手。エの手と口の手ということは右は九の手左は一の手。右は知恵で左は理解。はじめは理解から知恵は苦の恵み。矢は苦が導いた恵み。その苦は九で九はきゅうとも読むで弓。気づけば泣いている泣。気づけばきゅう。対極とは極まる対になるもの。火と水。赤と青。火は上、水は下。二の領域が知恵、二の領域を三の領域に変えることが理解。小と大それは二極それを小と中と大に変えるのが理解の力。


 二極の最大はあるとない。つまり一と零。一が魔術師で零が愚者。愚か者はなぜ愚かなのか。考えないから。考えないという方向を無意識に選ぶ性質がある人が困った人になる。もっとも簡単なことはわからないこと。それは考えないからわからない。考えるということを考えないから考えるということを考えられない。感が得ないなら感を得ようがない。えを得だと思っていたら恵に気づくことはない、心に気づくことはないだろう。求めると与えると恵む。心はどこにある。糸に会えば絵を得る。素敵な絵が見たいからエに気づく空から零。ないから内から。


「どう思い、どう考え、どう感じる、それともどう感じ、どう思い、どう考える、それとも、どう考え、どう感じ、どう思う」


 思ってもみなかった。考えてもみなかった。感じてもみなかった。感じてもきかなかった。思ってもきかなかった。考えてもきかなかった。見る、聞く。その力の門を開くには開く呪文がいる、気づかないのは気づきたくないから、そこにあるのは認めたくないという気持ち、思い。この世界を構成している、つまり構築し成立させている力は正負、それは正である足すと負である引く。この言葉から導かれる相対を求めていくとこの世界を構成している仕組みが見えてくる。立体を見るためには多角的視点が必要。視点という言葉が教えていることはもう考えなくても思わなくても見えている。ただし感じないと見えて来ない。門とは二つの戸、戸と戸が門になるためには正と負が必要。門がある所には壁がある。壁とは閉ざすもの。門は閉ざしたものを開くためにある。心を閉ざすのは開けないから、開けば見たくないものも見なくてはならない、見たくないという気持ちを起こすのは起す理由に自分が気づいているから。気づいていないふりをし続けるとどうなるか、結果を示させて結果から心の仕組みを推測した、科学的な態度で実験し、観察し、検証した。被験者となった者は自らその役を選んだ。正負の場でいいわけは必要ない。正しい者が勝ち、負けた者は正しさを失った。はっきりとした結果が一の領域を掌握している者を示す。正負とははじめにとまる者が負うことになる。おわらせることは不正で正しくなくなり、歪む。だから丕に止まるわかりますか。


 あなたは丕という言葉のもつ内容をしらない。丕とはおおきいという内容の言葉だから丕に止まるとは大きいに止まるということになる。大きい数は一だから止まれば正しくなる音を象る自然の力は火という姿、それは水は淀む定めの三に止まる力だから。

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知恵の真実 冠梨惟人 @kannasiyuito

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