質問は疑問に対してしようfinal

 「自分は分かっている」という「結果」がほしいだけだ。


 というのが僕の中での結論なのですが、個人的な解釈なので実際は違うのかもしれませんが、自分的には核心をついているのではないかと思っています。



 プログラムがしたいわけでもないし、理解できるとも思っていない。


 しかしゲーム会社でゲーム製作に関わりたい。



 専門的な知識がないので、上からの指示にただ従う事しかできない。


 そこで日常会話で専門的なうんちくを披露して、相手にちょっと分かっている風を装いたい。


 その為の豆知識を集める為に質問している。



 というものです。



 そう思う根拠として、とあるプログラムに関する質問で、


「~は~だと思って間違いないですか?」


 と聞いてくる。


 それはもちろん違っているのですが、それは単に言葉の定義とか単純な物ではないので、まずどこから間違ったのかハッキリさせる必要があります。


 そこで一つ一つ知識を確認します。


 ~はなんだと思いますか?


「~だと思う」


 ~はなんだと思いますか?


「~だと思う」


 では~と~はどうなりますか?


「~だと思う」


 それは質問と一致していますか?


「していない」


 結論出た、という事でいいですか? としても何か納得しているように見えない。


 ??? 何が分からないんでしょうか?


「合ってるのか合ってないのか言わないから」


 合ってるも何も、あなたは答えを導き出す知識は持っていたじゃないですか。前に教えたから当たり前だけど。


 そこからちゃんと答えに辿り着けるはずなのに、最初の質問はどこから出てきたんですか?


 と聞くと、


「そこまで考えてなかった」



 結局知識と言うものを詩でも覚えるように丸暗記する物と考えている。


 内容を理解する、という事を一切しないので、自分自身の中で成立していない理屈を質問してくる。


 人に披露して一目置かれるんじゃないかと思える「文言」を集めたいだけで、そもそも内容を理解するつもりがない。


 だからそれぞれに矛盾があろうが間違いがあろうが気にしない、気にできない。


 自分の中でその答えを導き出す材料は全て揃っているのに考えない。考えずに質問する。


 違っていれば、当然違っていると指摘しなければならないんですが、


「どこが違うんですか」


 と自信があるように言ってくる。


 聞かれているので、理由を答えるのですが、なんかこっちが追いつめているような空気になる。一体何の自信なのか……。


 どうも何か仮説を立てて、それを押し通す練習を僕でやっている、という気がしてならない。


 緑色を青と呼ぶ事は、時代や人や事象によってありえるので、一概に言えないわけですが、


 「緑を青と呼ぶ」というのを聞きつけて「なら赤を青と呼んでもいいのか?」という仮説を立てて、


 それを押し通せたら自分の勝ち。論破されたら負け。


 でも赤は赤。それを青と呼ぶ文化は無い。「あるかも」となるわけはない。


 それでもしつこいので「なぜそれが出来ると思うのか?」と一つ一つ崩していくと、


 最後には「国を買い取って文部省を改革すれば不可能ではない」とか言い出す。

 (実際には「MicrosoftからWindowsを買い取れば出来る」と言ったのですが)


 まあ不可能ではないかもしれないが、その仮説を使って何をしたいのか? と聞くとさすがに閉口するしかない。



 他にも


「グラフィックボードはDirectXに依存していますよね?」


 と聞いてきた事があります。


 専門的な用語なので一般的な物にたとえると、


「缶詰は缶切りに依存していますよね?」


 みたいなものです。


 依存と言うのは、薬物依存と言うようにそれがなくては生きていけない、成り立たない物の事ですね。


 それは違います、と答えるといつものように、


「それはなぜですか?」


 缶切りが無い時代にも缶詰は存在したからです。缶切りが無くても缶詰は存在できる、缶詰は缶切りと依存関係にはないです。

 (缶切りは缶詰に依存していますが、DirectXはグラフィックボードに依存していないので、そこは少し違いがありますが、この話には関係しません)


 やはり納得ができないようで、



「缶詰は缶切りに依存していますよね?」

 それは違います。

「それはなぜですか?」

 缶切りが無い時代にも缶詰は存在したからです。



 というのを三回くらい繰り返す。


 何回も挑戦すれば一回くらい通ると思ったのだろうか?


 何を根拠に依存と言っているのか? 缶詰が発明されるより以前の遺跡から缶切りが出土したという話があるのか? その根拠は何だ?


 と掘り下げて詰めていくと、


「依存ではなく、対応している、と言えばいいんですね?」


 となんか妥協みたいに言ってきた。


 まあ確かに「対応」は間違っていない。適切かどうかはまた別ですが。


 しかし僕が知る限り彼は日本人のはずなので、日本語が分からなかったわけではないと思う。


 要するに文言の意味は全く考えていなくて、相田みつをのように自分の作った「語録」が認められないのが気に入らないんですね。


 仕方なく「一部改変」で妥協する所で手を打とう、みたいな印象です。



 結論を言うならば、

 ・「こいつなら勝てそう」と思って僕を論破しようと試みた。

 ・自分の説を立てて、それを僕が正しいと保証した事にしたい。

 のどちらかか、あるいは両方か。


 どちらにせよ迷惑な話なのです。


 他で何か知識を披露して「誰がそれを教えた?」という時に僕の名前を出されては困るのですね。

 実際質問してくるときに、誰々がこう言っていた、どこの会社の人が言っていた、どこのネットに載っていた、という事は言っています。

 そしてそんな事実はない。


 現役のプログラマーならそんな間違いはしない。

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