15センチの幸福

 ―――ジ―――……キーンコーンカーンコーン……。


 静寂の中、下校を告げる最初のチャイムが鳴り響いた。既に利用者の殆どが図書室へやを後にしており、ここに残っているのはユウキとマコトの二人だけだった。

 その二人も、マコトの発した言葉を最後に話す事無く、また動きも止めていた。他に動く者もないこの室内では物音一つ起こる事も無く、静寂だけが支配していたのだった。

 ただ室外……校舎の外からは、下校途中の生徒達が話す微かな声、そして未だ部活に勤しんでいる活気ある声が、どこか別世界から聞こえている様に遠く聞こえて来るだけだった。


「あ……あの……」


 その静寂を破ったのは、再び再起動を果たしたマコトだった。マコトの発した言葉に、考え込んでいたユウキは再びマコトへと視線を向けた。


「昨日の事……覚えてない……?」


 マコトは再度、そう問いかけた。だがそれを聞いたユウキは、ただ首を傾げるだけで明確に返事を返さなかった。


 ―――昨日の事を覚えていない……。


 マコトはその事を自覚して、嬉しい様な寂しい様な、何とも言えない気持ちを感じていた。

 昨日マコトがユウキに掛けた言葉は、確かに誰が聞いても突拍子もないものだった。マコト自身、初めての接触ファースト・コンタクトとしては不適切だったと少し反省もしていたのだ。

 そう言った意味で、昨日の事が無しとなるのは喜ばしい事だった。ただ、昨日声を掛けた事は少なからずの決心を持って、勇気を出した結果である。またそれに付いて、マコトは一晩悶々として過ごしたのだ。それが無かった事になる等、多少の脱力感を感じていても仕方のない事だった。

 そしてユウキにしてみれば、「昨日の事」とだけ言われてもすぐに思いつく訳では無い。

 確かに昨日は掛けられた言葉に付いて色々と考えてもいた。でもすぐに「その事」は頭から流れ去って行き、すぐに違う考えが思考を占めたのだ。ユウキには昨日たった一言、自分に掛けられたかどうかも分からない言葉を覚えておくと言う事は無かったのだった。

 特にからそんな事を言われれば、昨日の言葉は勿論何か思い当たる節など浮かぶ訳も無かったのだ。

 再び訪れる静寂の刻……。

 しかし今度は、その時間もそう長く続く事は無かった。


「あの……他に様がないならもう閉めますけど……」


 ユウキがマコトにそう切り出したのだ。この部屋を出れば後は帰るだけのマコトと違い、ユウキは自分以外の人が全員出たのを見計らってからの戸締り、簡単な本棚の整頓、貸出カード等の整理が残っていた。どう早く片付けても、まだ30分は掛かる作業が残っているのだ。目の前の生徒に他の用事がないのなら、ユウキはすぐにでも作業に取り掛かりたかったのだ。


「あ……と……その……本……」


 だがどうやらマコトにはまだ話したい事があった……いや、出来た様だった。

 マコトが危惧していた「突拍子もない言葉を掛けてしまった」「その言葉を発したのがマコトだと見られていた」と言う2つの事は、どうやらマコトの懸念に終わった。マコトから見てユウキが昨日の事を覚えている節は無かったからだ。

 しかしそれでこのまま折角作った切っ掛けを無しにしてしまう程、マコトは往生際の言い人間では無かった。もしかすれば、なりふり構っていないのかもしれない。じっとマコトの言葉を待っているユウキに、躓きながらも矢継ぎ早に二の句を継げた。


「さが……読みたいって思う本があるんです。よ……良ければ探してもらえませんか……?」


 咄嗟に出た言葉の様ではあるが、マコトにとってこれは嘘でも、その場のごまかしから出た言葉でもない。元々読書家でもあるマコトは、機会があれば面白い本を借りていきたいと考えていたし、事実幾度か本を借りた事もあったのだ。


「……今から……ですか……?」


 ただそう切り出した時間が適切では無かった。閉室間際に本探しを頼まれれば、特にユウキでなくともそう言った反応を返す事は間違いない。


「……ダメ……かな……?」


 マコトにしてみれば一旦口にしてしまった以上、それが非常識なタイミングであったとしても引き下がる事は難しい状況に陥っていた。

 そしてユウキの方にも、その返答に付いて考える余地なんて無かった。


「……いいえ? 良いですよ」


 ユウキ自身も本が好きで図書部員をやっているのだ。本を借りてまで読みたいと言う要望を拒否すると言う選択肢など存在していなかった。

 ユウキからの返答が、殊の外即答で淀みなく明瞭なものだった事に、少なからずマコトは安堵していた。


「それで……どんな本を探してるの?」


 だがユウキのその問い掛けに、マコトは肝心な事を忘れていると気付いた。

 本は読みたい、それは嘘じゃない。

 でもそれがどんな本なのか、そのジャンルさえ考えていなかったのだ。


「え……と……。お薦めって……ある……?」


 本は読みたい、それが面白ければ言う事は無い。マコトにしてみればジャンルさえ問わなかった。しかもそれがユウキの進めてくれた本なら尚の事良かった。どんな物語を好むのか少しでも分かるし、後日の話題の種となる事に間違いないのだから。


 しかしそう振られたユウキの方は少し勝手が違ってしまっていた。

 

 読みたいと思う本があるから一緒に探して欲しいと言われたにも拘らず、お薦めはと聞かれる。ユウキにしてみればどうにも腑に落ちず、怪訝に思ってしまっていた。


「……何でも……良いの……?」


 だがユウキにしてみれば、それは深く考える程の事では無かった。

 確かに目の前の子はさっきからおかしな事ばかり言っていると思わないでもないが、兎も角本を読みたいと言っているのだ。本を読みたい人がいて、その人の手伝いをする。ユウキにしてみれば理由はそれだけで十分だった。

 それに自分の好きな本で良いと言うならば話は早い。決して狭くない図書室このへやを探し回る手間が省けると言うものだったからだ。

 マコトがコクコクと頷くのを確認したユウキは、ある本棚までスッと動き出し1冊の本をすぐに選び取って戻って来た。


「じゃあ……これ……」


 そしてユウキが迷う事無く持ってきたのは、表紙が随分と変色してしまっている文庫本だった。


「……『15センチの』……『幸せ』……」


 手渡された本を受け取ったマコトは、その本のタイトルを口に出して読み上げた。作者もタイトルもマコトが初めて目にするもので、到底有名なものとは思えなかった。


「ありがとう……早速読んでみる」


 そう言ってマコトは、本から視線を上げてその先に立つユウキの方へと目を向けた。

 そこには、窓から射し込む夕日を受けてこちらを見つめるユウキの姿があった。


 ―――やっぱり……やっぱり綺麗な瞳だなー……。


 その姿に、マコトは心を奪われたかのように動きを止めてしまった。

 

「えーっと……まだ何か……ある?」


 そんなマコトを前にして、ユウキは不思議そうな表情でそう問いかけた。もうとっくに閉室時間を越えている。これ以上長居をしていては、見回りの職員に注意を受ける事は目に見えているのだ。


「あっ! う……ううんっ、これだけで大丈夫っ! ありがとねっ!」


 焦った様に再度お礼を述べたマコトは、慌てて軽くお辞儀をするとそのまま図書室から退室して行ったのだった。




 その晩、早速借りてきた本に目を通すマコト。本自体は長編と言う程長いものでは無く、元来読書の好きなマコトなら一晩と掛からずに読み終える事の出来る文字数だった。

 読了したマコトはユウキお薦めの借りてきた本「15センチの幸せ」に、不思議な感想を抱いていた。


 内容は、戦時中に恋する二人の悲恋物……と言って良かった。

 主人公の少女と幼馴染だった少年は、互いにゆっくりと恋心を温めて行く。彼女達が思春期を迎える頃には、双方に意識せずにはいられない想いとなっていた。

 少女は恋する女性として少年の手を取りたいと幾度も考え、実践しようと何度も考えた。しかし時は戦中、慎ましい女性像が良しとされる時代であっては、女性の方から積極的に動くと言う事は恥ずかしいとされ、少女もまたそれを実行に移す事が出来ずにいたのだった。

 何度も延ばす手。後少し、後ほんの少しで少年の手に触れそうになる。だがどうしてもその先に進む事が出来ず、もどかしい15センチが大きな壁となっていた。

 そして激しくなる戦争、学徒兵として徴兵される少年。

 少年と少女は15センチの壁を超える事無く別れを迎え、そして二度と再会する事は無かった。

 

 これだけを読むと、何ら報われる事のない本当に只の悲恋物語でしかなく、文学的には兎も角どこが面白いのかマコトには全く分からなかった。

 しかし最後に記された一文。

 その一文がマコトの心をとらえて離さなかった。


『私とあの人の間に在った十五センチと言う壁は、私に苦い青春の記憶を植え付ける事になった。しかし同時に、私と彼の間に在った十五センチと言う空間が、私に幸福を与えてくれていたのは間違いない。

 もしあの十五センチを超えて彼の手に触れていれば、私はきっと悲しみに囚われていた事だろう。もしあの十五センチから遠ざかってしまっていたなら、私には寂しさと言う感情が残されていたに違いない。

 私は彼を失って悲しい気持ちが心を満たしたけれど、そんな中でも僅かに輝く思いが残されている事に気付いていた。

 それは私と彼の間で触れ合わなかった手と手の間に生じた、僅か十五センチと言う空間の中に在った「恋」と言う名の幸福でした』

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