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 ダクトを高速で這いずり回りながら俺は息を荒げていた。子供アンナイが見たら確実に泣くだろう。

 この国のダクトはホラーパニック映画とは違い、所々に高速で回るファンやモーターが張り巡らせてある。覚悟はしていたけれど何て量だ、船内環境に配慮しすぎだ。

 手の込んだ環境機械や真新しい様子からここの研究者たちへの愛や価値を自ずと感じてしまう。

 悪態をついては機械を止めて移動して動かす、一連の作業で傷だらけの腕を摩る。機械弄りも50年続ければそれなりに様にはなるらしく、新品のそれらを傷つける事なく進めていた。

 あの男には悪いが距離感というものをぜひ学んでもらいたい。初対面の相手にあそこまでするのは不自然に過ぎる。裏があろうが無かろうが、あれは怖い。

 先、厨房の上を通った時肉料理が振舞われているのが見えた。肉料理、久しく食べていない。口の中に反射的に涎が溜まる。

 肉料理は特に保存がきかないこともあって何年も口に出来ていなかった。狩りに出れたとしたら違うのだろうけれど、俺にそんな能力はない。

 食べるとしたら家で、人間の肉片が見えないところで、アンナイと一緒に食べたい。特に牛肉が良い。干し肉にもしやすいと聞く。きっと長い間楽しめるだろうし、アンナイも喜びそうだ。

 脳内の反射でさらに貯まってしまった涎を飲み込んで先に進む。


 気を散らしていたからだろう。

「いてて。」出来るだけ声を押し殺して悲鳴をあげる。

 髪がファンに巻き込まれて右側頭部の頭皮が持っていかれる。耳も少し削れてしまった。怪我は治るけれど血がダクトから噴き出しているという評判が立つのは困ってしまう。事故物件の評判を立てるのはまずい。

 慌てて引き千切るが時既に遅し、案の定ダクトの先から小さく悲鳴が聞こえた。

 噂をすればなんとやら。

 その聞き覚えのある声に、目の前の回るモーターに左腕を突っ込んで肉片と油で止めようとする。順調に肘まで巻き込まれて速度は落ちていくが、左腕では足りなかったようだ。

 右脚を追加する。ゆっくりと指先から削れていき、遂にモーターが止まる。右脚は足の甲の中程までなくなってしまっている、びっくりするほどぞっとしない感覚だった。

「アンナイ、1日は待ってろって言ったじゃないか。」

 顔を出した俺を迎えたのは悲鳴でも歓声でもなく、正しく化け物を見る目だった。

 ゾンビだから甘んじるべきなのか。彼女に向かって思わず顔をしかめてしまう。見返りを求めたつもりはないが悲しくなってしまう。

「貴方がいなくなってから、もう2日経ってるわよ。そんな、血塗れで、馬鹿。」

 白衣を着た彼女はそう言って卒倒した。

 倒れる時に机の角に頭をぶつけていたからもしかしたら再生に時間がかかってしまうかもしれない。たかが手足の1、2本と顔のいくらかを欠損している程度で軟弱な。変わってない。その事実に涙が出そうだ、決して安堵の涙ではない。


 ※


 推薦状

 社団法人エネルギーコンサルタント殿


 平素は大変お世話になっております。

 電気通信公社の江原と申します。

 この度事業のお誘いを頂き、誠にありがとうございます。

 私共は諸事情により今回は受注する事はできませんが、代わりの人員を1名派遣致します。

 人体構造の研究にて技術主任を勤めていた優秀な人員です、労働契約は別紙にて後日送付致しますのでご確認ください。


 何卒宜しくお願いします。


 江原


 ※


 やりやがったな。俺はアンナイの持っていた江原の推薦状とやらを読みながら歯軋りをしていた。

 アンナイのことを子供扱いしているようで働いていた事とか全て聞き出していたじゃないか。殿と書いてあるという事は、いちおう対等の立場として推薦していると信じて良いのだろうか。

 時間と経験は決して比例しない。だから何にそれを割いていくのかが大事だと、数十年ぶりに思い出させられる。やりこめられるなんて何年ぶり何回目だ?

 歯を食いしばりすぎて奥歯が割れるなんて、漫画表現だと思っていた。

 相変わらず意識のないアンナイを背負って廊下を歩く。先ほどとは違って暗い端を、出来るだけ急いで。地図というのは現在地がわからないと使えないという事を失念していたのが悪いのか、方向音痴な私の能力不足がいけないのか。

 まさか守るべき相手が来ている何て思わないだろう。ここまで馬鹿とは考えないだろうという意味で。怪我に卒倒するほどに恐れを抱くくせに、リスクを取りすぎだ。私が担任の教師だったら、積極性はあるがもう少し先の事を考えましょう、と書く。

 素直で何かをしたいけれど何もしていいかわからない、例の日から何も経験しなかったらなっていた自分に、そう言ってやる事はまだ出来そうにない。

 疑問がますます増えてしまった。

 アンナイの労働契約書は届いてしまっているのか、彼女はどうしてここに来たのか。まさか全てエハラの仕業か。

 それとも。あの男が言うように、誘拐のような何も騒ぐような事実はなくて、私をここに誘き寄せた間抜けな黒幕の可能性はあるのだろうか。

 もしそうなら、それに足るような特別な人間ではないのに。少し嬉しい自分がいて苛立つ。


「そんなに辛そうな顔で必死になって、どうしたのですか?」

 おっとりとした声が廊下に響く。どうせまた知らない人だ、そちらを見る暇すらない。

「この船に乗れた時点で頑張る必要なんてないじゃないですか。

 どうですか古い知り合い同士、仲良くやりましょうよ。」

「戸部さん。」

「やっと見た。」女が喝采を上げる。

 あの日と変わらず小柄な戸部氏がしなをつくって立っていた。なるほど、山崎氏がいるならば確かに彼女もいるはずだ。

 その、女を見せる慣れた様子にああ、この人はこうやって日々をやり過ごしてきたのか、と理解する。やっぱり見る価値なんてなかった。

 一般的ではないけれど少なくない若者の姿を、頑張り続けていたアンナイの視界から外せるよう早足で歩く。脚が元に戻っていないものだから思うように速度が上がらない。

「ああ覚えていてくれたのですか。こちらは貴方の顔を忘れた日はありませんでしたよ。」

 そちらがそうでもこっちは知ったことではない。

「どうですか、その子みたいな小さい子が好きなのでしょう。

 要領の良い貴方の事です、この船でもきっとすぐ重要ポストにつけますよ。

 私も十分小柄なのではないでしょうか、ナカヨク、しましょうよ。時間はあるんです、きっと楽しいですよ。」

 やっぱり彼女はズレたままだった。断る、と何度言ってもついてくる。

 強引なのは営業向きの性格だと思うだろうか? むしろ逆だ。人の話を聞いて理解出来ることが大前提だから、こういうタイプは決して営業に向いていない。部下にいた日にはクレーム処理に追われることとなるだろう。

 自分がちゃんとした渡航者だったなら上司に告げ口や周囲の根回しを行うのに、と歯嚙みをする。また奥歯が砕けた、カルシウム不足だろうか。

 アンナイはまだ起きない。抱えた彼女の身体が昨日より軽いことが関係ありそうだ。まるで気絶して弛緩した身体は不自然な折り曲がり方をしている、まるで内臓がないようだ。

 山崎の目指す社会に精神を発達させることに成功した幼女の細胞は役に立っているだろうか。

 戸部は未だ付いてきてはここが楽園だと説いてくる。

「仕事は辞められないですけど、それさえ我慢すれば凄いですよ。コーヒーもお茶も飲み放題ですし、お肉まで食べられます。」

 コーヒーは好きだけれどその為に50億年の労働か。遠い目で遠い日を思う。

「贅沢をする為に仕事を頑張るなんて、例の日の前と同じですよね。」

 働きもせずナンパに勤しむ古参社員を見るとなんとも説得力のある話だ。

「後で相手をするから、何処かへ行ってくれ。」この程度の雑な対応でも彼女は都合よく解釈するだろう。

「そうはいかないんです、その子の脳の採取、1回目の時間なんですから。」

 だからその子をこちらに、気絶していますから麻酔も必要なさそうで丁度良さそうですしね。と彼女はアンナイ《マウス》を見つめながら言う。。

「彼女のここでの仕事は細胞の提供と精神の研究です。まぁなんというか、忙しくなりますから、私が代わりにお相手致しますよ。」1人は寂しいでしょう? と、彼女は善意を剥き出しにする。

「絶対に、絶対に、断る。」

「何故?」死ぬわけでもないのだし傷も治るのだから良いじゃないか。

 戸部は俺と同じことを言う。

 彼女が選んだ仕事なのだし、そりゃちょっと苦しいかもしれないけれど仕事は昔から辛いものですからね、と。

 現代の考え方だ、極大的な物質主義と個人主義。自分と同じで反吐が出る。

「そんな考えだからこの国は滅びようとしていて、滅びるのが嫌でお前らは立ち上がったんじゃないのか?」

 自分の考えを棚に上げて反論する。

 俺はそうだけれど、お前らはそれに異を唱えて航海を始めようとしているのではないかと。全てを元に戻す、それが目的なのではないかと。我ながらなんてずるい言い様。

「知ったこっちゃないですよ、上の人の話は難しくてよく解りません。理解する気にもなれない。」

 だからお前は壇上にいなかったのか。

 初期メンバーが理解を放棄するほど難しいものを部外者が聞くのはどちらも幸せにならない。聞いたのだから何とかしろ、と言われることもあるし、だからどうした知らねぇよ、と突き放されることもある。そんな組織に入った自分を呪ってほしい。

 無視して歩いていると戸部はなおも言い募る。

「あ、もしかして理想論のが好きですか? 宇宙とか、男の人は好きなんですよね?」

 話の転換が急すぎる、贅沢を目的として繋がった社会はこんなに意志薄弱なのか。

 宇宙は好きだけれど男だからと定義されるのは腹が立って、俺の背負う幼女の方が好きだろうと反論したくなった。

「宇宙、宇宙です。」彼女は強調して言う。「我々は焼かれたあの日、この国に見切りをつけました。自分たちだけで生きていきたいと考えました、でもそんな事不可能だった。だから、地球から出て行くことにしたんです。」

 独白する彼女は何も見てはいない。こちらも、彼女が何を見てきたのか、理解する気はない。ウィンウィンと言えるのではないか。

 悪意に晒された日のことは確かに忘れられるようなものではない。けれど、それでも俺は人が好きで、信じていたい。アンナイの理想主義にやられたのだ。

「今なら船に乗れますよ。」彼女は甘言と信じきっている言葉を吐く。「その作業着、似合っているじゃないですか。一緒に銀河の海へ、行きましょうよ。」

 暗い星空を眼下に映して、何処かを目指して飛び続ける。その光景をほんの一瞬だけ夢想してしまった。

 正式な訪問者じゃないと知っていてここまで話しかけてきたのか。彼女の真意に気づく。まさかスカウトされるとは思わなんだ。

「あの国はもうすぐ終わりますよ。」戸部はとても嬉しそうにあの国と言い放った。「船の出港とともに電気はなくなるのです。」

 こちらも覚悟はしていたと思う。考えてみれば、まだ電気が通ってる方がおかしかったのだ。

「ご褒美がないと何年も我慢して働けませんものね。他にも船には政治家も山ほど、名だたる大企業の社員もたくさん乗っているんですよ。」

 彼女は彼女の憎悪の対象である、国が死ぬ日をうきうきと話す。

「電気も止まって、指導者もいない。社会も完全に消滅する国に、居続ける必要なんてないじゃないですか。」

「知らずに残されるものはどう考えているんだ。」責める立場にはない。ないが、聞いてみてしまう。

 ここまで会った彼らだけじゃない。この国の自然や資源、まだ可能性の残っていそうな全てのもの。それがあるかは断言出来ない、見切りをつけたくなる気持ちは解る。

「そんなの、働かなかった自己責任ですよ。この星がなくなるまで生きてはいけるんですもの、自由には責任が必要でしょう?」

 ここは冷たく、辛い職場だろう。同僚たちのやる気もあるとは思えない。けれど技術力は高いしインフラは整っている。

 アンナイを、俺の一存で心中させてしまって良いわけがない。

 戸部を見ると変わらずにやにやと媚びた笑みを貼り付けている。

 こんな醜悪な場所でもアンナイなら変わらずにいてくれるかもしれない。別れが少し早くなっただけだ。

 背負った彼女を下しそうになる。


 つんつん、と肩の服が引かれる。

 アンナイが肩越しにこちらを見ている。いつから起きていたのだろう、教育に悪い会話をしていたように思えるのだけれど。

「ごめん、イジュウイン。」謝らないでほしい。

「ありがとう。」

 この後に繋がる言葉は知っている。それを聞きたくなくて言葉を返せなかった。

 個人主義の誰も信じられなくなった皆が言った言葉は、別れの言葉だった。


「もう1つごめん、助けて。」


「もちろんだ。」

 別れの言葉でない事が嬉しすぎて、二つ返事で返す。


 正直なところ、俺は今でも人に頼るのは不確実だから嫌だと思ってしまう個人主義のままだ。

 けれど俺はアンナイに頼られたら、対価が返ってくるのかわからなくとも助けてしまう。

 子供の姿だからか? 事情を知っている知り合いだからか?

 最初は多分誰でもよくて、過去に人を助けられなかった後悔を晴らしたいだけだった。

 今はそれに加えて、人を信じた彼女もちょっとは報われるべきだと思ってしまっている。誰だって期待して、駄目だったら辛いものね。


「そんなに燃えないで下さい、仕事をしているだけですよ私は。」

 戸部は最後にぼやいていた。

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