3
運動不足の研究者と世間ずれした外回り、殴り合ったらどちらに軍配があがるか、わからない皆様はいないだろう。
しかし、辛勝だった。加減のない暴力はやはり恐ろしい。
噛み千切られた右手首の腱が治るまでどれくらいかかるだろう?
人を傷つけるのはいつだって最悪な気分になる。俺は殴られたくないから殴りたくない。ゾンビにするように、戸部氏の頭を踏み砕きながらそう独りごちていた。
「あ、ああ。ありがと。」
そこまでしなくとも、と口に出さない程度にはアンナイは成長したらしい。物事の吸収速度がとても早い。そりゃあ脳味噌を研究したくなるわけだ。
余裕があったら俺を心配してほしいなぁ? こんな恥ずかしい要望、口に出せなかったのでとりあえず、知り合いの全身を念入りに、粉々に踏み砕き終える。
ここまですれば再生に1日はかかるだろう。それまでにお暇すれば良い話だ。
幸いにして、地図も鍵も手元にある。
「どうしてここにいるか、歩きながら聞かせてもらおう。」怒気をそのまま彼女へと向ける。小言を予想していたのか、彼女は既に首を縮めていた。
頭のてっぺんを抑えるのはやめろ、俺がすぐ拳骨を落とすような人間に見えてしまうではないか。
「朝起きたら貴方がいなくて、待ってても帰ってこなかったから、電子通信公社のエハラさんを頼ったの。
そしたらここに行けって。貴方もここにいるだろうって。」
誘拐犯が夜にやってくると予想をして引越しをしていたエハラ。案の定夜いなくなった俺。そこに頼ってきたアンナイ。俺がそこにいるだろうってここを紹介だと?
性悪だ、糞野郎だ、職務放棄だ。サーバーの解析なんて済んでいて、提携先が俺らの目的地だと知っていたのだ。
アンナイを紹介した文書を見るに、もしかしたら厄介な事業の人員が確保出来たとほくほくとすらしていたかもしれない。
予想以上の悪意が絡み付いているようだ、早く脱出しなくては。まんまと誘い込まれた自分への憤りで倒れる前に足を動かす。
アンナイの
「それはもうちょっと待ってほしい、な。」
アンナイは自信なさげだ。
「同僚が1人いるかもだから。」
「1人で済むのか?」頷く彼女に、仕事が減ったと喜ぶどころか嫌な予感がしてしまう。「同僚全員、連れ去られたって話どうなったんだよ。ちゃんと連れ帰るんじゃなかったのか? 」
そうでないと情報を得ようとむざむざ飛び降りた俺が馬鹿そのものみたいじゃないか。成人男性の癖して唇を尖らせてやる。
「私、ここで同僚たちに会って、色々聞いたの。」
目的は達成してるじゃねぇか。尖らせた唇を真一文字に引き結んで抗議の意を示す。
アンナイはそんな俺の様子に構わずに話し続ける。
「皆、私の同僚も、殺されてから運ばれたってのに、怨みも不満もないって聞いちゃったの。」
アンナイの価値観がその職場では一般的なのかと思っていたが、違ったらしい。
真っ当で温かい仕事場だったんだな、と守られていた最年少を見て思う。
彼らは、ゾンビである俺たちは、究極的に言ってしまえば、生死に問わず目的地に着いてさえいれば良いのだ。
それくらい世界への期待値は低い。
もしくは自己評価が低いのか?
「でも1人だけ会えていない同僚がいるの、彼に会ったらここから出るわ。」しおらしい彼女は頭を下げた。綺麗なつむじが見える。
「お願い、もう少しだけ付き合って。」
自己批判的な人間はこういった全霊のお願いに弱い。弱いどころか急所だ。嬉しくなってしまう俺はどうかしている。
「しょうがないな、あと1人だけだ。会ったら抱えて帰るからな。」
承認欲求を満たされて緩む頬が抑えきれない。
「ありがとう、因みにその同僚は美人よ。オイカワっていうの。」
例の抵抗した奴のことか。半目でその方の顔を想像する。大きな目の三白眼が良いなぁ。
算段がない訳ではない。彼女が最後の同僚がいると指差したのは出口と屈強な男が示した場所に程近い場所だ。数分の寄り道くらい許されると思う。
それはそこまで甘い考えだったか。甘かったんだろうなぁ、詰め甘いんだよなぁ、俺。
この研究所は広いと感じていたが存外狭いらしい。だってそうでなければ、屠畜場と実験スペースがこんなにも近いのは設計ミスとしか言いようがないではないだろうか。
研究所なんて、訪れる機会なんて一箇所しかなかったため知らなかった事実に身を縮める。そんな事をしても入ってしまった視界から出れるはずもなく。血と削れた自分の肉で塗れた身体で照れ笑いをしてしまう。
おぞましいものを見た顔で女は俺を鼻で笑った。
先ほど、戦闘力の比較に研究者と営業の例を挙げた。では、猟奇的な女と一般男性ならどちらが勝つのだろう。因みに一般男性はかなり汚い手も使うとする。
一難去ってまた一難、最近のミニゲームでももう少し前置きするだろう、とアンナイの手を掴んで、すり足でその場を去ろうと目論む。
正解は勝負自体したくない、だ。
アンナイが小声で抗議をする。
「オイカワ、あれがオイカワよ。」
震える手と指差した先を見て、私は憤る。
折角子供に猟奇的な場面を見せないよう、苦労してきたのに台無しじゃないか。女を睨み付ける。
※
扉を開けてすぐに目に飛び込んできたのは女だった。
それも一昨日会ったコートの女。今日はコートではなく防護服のような格好をしている。スタイルの良さは惚れ惚れするが似合っているとは言えない。
服装は違うが流石に一昨日会った人くらいはわかる、それだけに衝撃だった。
「何をしているの?」
アンナイが声を上げる。今は黙っていてほしかった。声に込められた非難の色に、女は完全にこちらに意識を向いてしまう。
舌打ちをしてアンナイの前に出る。
「何故舌打ちを、非難をするのです?」
女の声に、アンナイが服を掴んで抗議をしてくる。いや、そんなつもりはなかった。
「とりあえずその人を離してくださいよ、知り合いなのです。」
目的の同僚は確かに美形だった。浮かべた苦悶の表情すら美しく見えるのはもはや罪だろう。報道網が残っていたら確実にアイドルとして生きていけたはずだ。それでいて研究職なのだから、天は二物を与えずというのは嘘だとわかる。
びっくりするほどイケメンの男の顔から女に視線を移しながら俺は思う。
「彼の解放は私の一存では決められません。」
意外と会話が通じるのだろうか。
半分ほど切ったイケメンの右腕を離して、彼女は言った。
離された腕がぶらぶら揺れる度にイケメンは悲鳴をあげている。自重で神経が刺激されて痛いのだろう、経験があるからわかる。虫歯や水膨れと同じようにいっそ切ってしまった方が楽だ。
あそこまで切られたらくっつくのに十数分かかるだろう。全く計画はないがもう少し頑張ってほしい。
時間を稼ぐために渋々女へと話しかける。
「そんなに手足を集めてどうするんです、もっと楽しいことをしましょうよ。」
考えた末、風俗のような呼びかけになってしまった。アンナイの視線が痛い。
女とイケメンのそばにはカゴが置いてあり、そこには山盛りの腕と足が積まれていた。
イケメンがぶら下げている腕とそれらが同じ位置にホクロがあること、彼がまるで切られたかのような不自然な半袖半ズボンという前衛的な格好をしていたことから、嫌な想像をしてしまう。
「仕事ですから。」
社会の家畜としては仕事なら仕方ない、と言ってしまいたくなった。
「これが、肉をこの船で提供するのが彼の仕事です。人員が増加した所為で食糧が足らないので。」
「勤務地異動願はあるよな? 」
「いえ。むしろ、皆様の精神衛生上良くないので、出来るだけ他の方との接触は避けて頂きます。」
女の清々しい断言に、背後に控えるアンナイの怒りが今にも爆発しそうだ。
正しく、彼、オイカワはこの研究所の社会の家畜だった。無限に再生出来る肉体というのは使い方が無尽蔵にあり、便利らしい。
「会話通じないわ、早くオイカワを助けなきゃ。」吐きそうなのだろう、えずきながらアンナイは言う。
「と言っても、どうすりゃ良いんだ?」
ひそひそ話に、つい、と女がアンナイの姿を見咎める。彼女の眉根が寄る。
「貴女、兄さんがせっかく見逃したのに来ちゃったんですか。」
何故見逃されたと知っているのか、答えは一つしかない。
その言葉で彼女がアンナイの研究所を襲撃した1人だとわかってしまう。アンナイはついに激怒した。
「折角、皆が幸せにやってると自分を納得させてたのに、何故そんな事をするんだ。」
激怒したからといって突っ込ませるような真似をさせる訳ない、だからそう足を踏まないでくれ。これ以上、正しい理想を話して傷つくのも。
アンナイを全身で抱き込んで止める。5歳の身体とは思えない力強さだ。
「なんで、何で、私たちはただ幸せに生きたいだけなのに、それすら許してくれないの。」
汚泥をぶちまけるような叫びに、知らず力が入ってしまう。
「勝手に
アンナイは可哀想なほど身を震わせている。
目的を持って働く程度しか求めていないのに、生きる為という大項目がないだけでこんなにも難しい。娯楽も理想も、普通の人が働く理由には少しだけ欠けているようだ。
つい女に、アンナイが言い放つような一言を返してしまう。
「お前はこの仕事で何をしたいの?」
今度は女が感情を爆発させる番だった。「仕事だからやっているだけだ。」
無理やり作っていたであろう無表情が崩れて、一昨日見たような剥き出しの感情をぶつけてくる。
「真っ当に生きるのに人の手を借りなきゃいけない人を考えたことはあるのか。私は何度死にたいと思ったことか。」
その感情は嫉妬だったと思う。
「貴方がたと違って辞められないんですよ。こうしないとこの船には載せないって。この身体はあの忌々しい研究に依存してるのに、どう生きていきゃ良いんですか。」
「何の話ですか。」霹靂としてしまう。大声を出されても困る、という言葉が顔に出てしまったのだろう、彼女はさらに青筋を立てて怒っている。
「知ってて兄さんを助けたのではないですか、この身体を。」
コートの前を寛げた先を見て、アンナイは絶句する。その中には何もなかった。正確には首から腰のあたりまで太いコードが鉄柱に絡まって伸びている。
子供が落書きしたような、何処かの出来が悪い人造人間そっくりだ。
「こんな身体を与えられて、これが給料だから働けって言われて。貴方がたは健康で不死で、何処へでも行ける足があるから戦えるんだ。それがどれだけ恵まれているのか知らないとでも言うのか。」
「人工知能か? 俺はそんな技術、知らないな。」
アンナイも驚いている。彼女の目が少し輝いているのは不謹慎だ。
50年間研究し続ければあんな物まで作れてしまうのか、世の研究者は。
船に乗って去っていくんでなければさぞ心強かったろうなぁ、と涙ぐみそうになる。
「人工知能じゃない、生きてる。」女は吠える。
「こんなことなら自分の意思なんていらなかった、ずっと母の胎内にいたかった。」
俺はその声を聞いたと思う。
「イジュ、、、?、。」
あの叫び声は、多分アンナイの声だったと思う。
視界と思考の全てにノイズが走る。
これでは身体を犠牲に突っ込むことが出来ない。やはりプロは違うな、と笑ってしまう。
女は目にも見えない速さで俺の頭を打ち砕いていた。
「ー!、、?。!」女は無様に倒れる俺を打ち据えて喚いている。
どれも意識を失わない程度に力加減してあるのは余程の恨みでもこめられているのか。
一言なのに地雷を踏んでしまった。俺は殴られながら内心ため息を吐く。
視界の端でアンナイがオイカワの拘束を解く。腕は痛むだろうに彼は目が会うと頷いてみせた。アンナイを抱き上げ、走っていく。
そうだ、それで良い。自分の身内のことだけ考えて行動しろ。出来ることが限られている時、それが一番後悔しなくて済むから。
俺は経験からそれを知っている。
時間稼ぎの為に口を開く。
「助けてやったのになぁ、恩知らずが。タオル返せよ。」女はついに下さんと振りかぶっていた刃物を止める。
「もしかしてあの小汚い布のことですか?」
「小汚い?」つい聞き返してしまう。「一応洗濯したばっかのタオルだよ。」
「おっさんが使ってたら洗濯しようが小汚いタオルだ。」何とも破壊力抜群の言葉だ。早くその刃物を首に落としてほしいとすら思ってしまった。
親切をしたのに碌な目に合わないな、
「まだおっさんではない。」
「うじうじ考えてそうな陰険な顔、おっさんですよおっさん。」
そこまで強調するな、泣きたくなる。
次の手を考える陰険なおっさんの首を女は鷲掴みにして地面に固定する。どこからそんな動力が出ているのか、首から上を少しも動かせなくなる。
目つきといい格好といい、魚屋を思い浮かべるのは俺が今、まな板の上の鯉だからか。
「首を切るのが制圧に1番効果的だ。」
女が誰とはなしに呟いて、冷たい物が首元へ添えられる。
あの日の悪夢が戻ってくる。
「首をゆっくり切るのだけは駄目だ、止めろ、やるなら一瞬で、くそっ。」
じたばたと動いても万力のような力で押さえつけてくる。鉄で出来た身体なら万力そのものか。
どうやら逃げられないらしい。ならせめて。
切れるのも構わず、首を捩って女を真っ直ぐに見つめて怒りを込めて言う。
「呪われろ、畜生が。」
ただの捨て台詞だ。
だというのに彼女ははっきりと恐れの表情を浮かべて、ほんの、ほんの一瞬だけ、硬直した。
その一瞬で十分だった。
火花が研究室いっぱいに飛び、自分の身体が焼け焦げるのを感じる。
無造作に切断された何十本もの電源コードを押し付けている彼女はどれだけの痛みを受けているのだろう。
「アンナイ、何をしてるんだ。」
口を開く度に熱気が肺を焼く。滝のような火花を飲み込んでしまい、体内から焼かれる感覚を味わう。
「貴方は私の為にここまで調べて、連れてきてくれた。」アンナイの静かな声が何故か聞こえる。
「助けたくなっちゃった。」
社会人が、そんな衝動性に任せて、同僚の職場じゃないのか。
それに私は終始何もしていない、強いて言えば口を少し出して、思いつきを実行しただけだ。
眩い光に虹彩が焼き切れる。
次に熱で溶けていた目が開けられるようになった時、視界に映ったのは両手足を炭にして横たわるアンナイだった。女の姿はない。
「本当に馬鹿だお前。無茶だ、慣れてないことするな。」
熱せられた床に構わず抱き上げる。裸足の皮膚が床と蒸着されては引き剥がされる。
「お前にだけは死んでほしくなかったのに。」
「本当に色々な人に大事にされていたのですね、彼女。この御時世、1回も死んだことがなかっただなんて。」
今頃になって扉が開き、男がオイカワを背負って入ってきた。
先ほどまでとは打って変わって、丁寧に話す男。床の染みとなった女が曰く、小汚いタオルを巻いた彼。
彼に向かって私は言った。
「お前の方か、私が昨日助けた女は。」
「どこで気がついたんです? 」
彼の巻く油染みた布がこの清潔な場に唯一浮いた存在で、そういえばコートの女にあげたものに似ているな、と気がついたのが最初だった。
「ほぼ初対面からじゃないですか。」男は破顔する。
「それなのにあんなに素っ気なかったのですか。」
「思いついたもののまさかと思った。誰も筋肉質な男と気の強そうな女が同一人物とは思わないさ。」
焼け残った上着を使ってアンナイを前抱きにする。
「あの日の機体は今日は妹が使ってましたから、誤認するのも当たり前ですよ。」
「そう、それだよ。妹とやら、お前らは一体何なんだ? 」
アンドロイドか? サイクロプスか? ロボットか?
50年間の技術革新、機械弄りをしていて悉く知る事が出来なかったそれら。その結晶なのか、お前は。
彼は、期待のこもった目をかわして言った。
「ラジコンですよ、操作しているのはただの人間です。」
「ラジコン。」
「ええ、脳波でのリモコン操作が可能になったのは技術革新と言えるでしょうね。」
「そりゃあ参ったね。」
私たちと同じように替えのある身体の持ち主だった彼は、オイカワを背負って立っている。
オイカワの全身はきっと電源線を切った時に出来たであろう裂傷と感電火傷でいっぱいだった。
「代わりに作業したのか? アンナイたちは。」
「ええ。そこでばったりあって、協力する旨伝えましたら喜んでくださりました。」
最初会ったのと同じように、まるで機械のような正確さを持って、彼は言の葉を並べ立てる。
「良い方々ですね。私の身体に替えが効かないと思ったのか、全作業やってくださいましたよ。助言だけはさせて頂きましたが。」
外が騒がしい。この争いを聞きつけた研究者が走り回っているかのようだ。
よく耳をそばだててみると実態は違うらしい。
時に。停電というものは恐ろしい、学生の頃から様々な機器のデータを飛ばしては叫んでいた私にはわかる。論文、メール、動画、それに集中していればいるほど、それが水泡に帰した時の怒りは計り知れない。
それと皆様はキュービクルという設備機器はご存知だろうか。大出力の電気を受け取って機械用に変換して各機器に送り直す物。もちろん最重要機械で定期点検を義務付けられていたそれ。
そこの線を引っこ抜いたらどうなるのか、想像は容易いはずだ。
そして、床に転がっているのは一本だけでもアンナイの腕ほどある電源線。
数十本の束になって、未だ音を立てるそれには見覚えがあった。
この素材、大きさの鋼線は50年前と同じ用途のものであれば、きっと、大型キュービクルの使途にも耐えられる大容量鋼線だ。
それを物理的に無造作に切断なんてしたらどうなるのか。
停電して研究者たちのデータは全て消えた、この凄まじい怒号はその為なのだろう。
「アンナイたちを唆して、この電源を使うように仕向けたな? 」
「それだけじゃ不十分ですよ。」堂々と男は述べる。
「貴方がたには私の共犯者になって頂きました。この船を沈めて私と一緒に逃げる大罪人、その一員に。」
男が高らかに叫ぶのと、電源線から流れていた電気が消えるのは対称的な反応だった。
静かな結果とは裏腹に、叫び声は余計に大きくなる。
研究者たちは自分たちで設備を直そうとはしないだろう、そもそもそれが出来ないから小間使い《彼ら》を雇っている訳で。
「さあ、探される前に失踪してしまいましょう。」
最終的な目的は同じだから口を挟むことも出来ない。他に出来ることもなく、ここについて知っている情報である地図もその男が手渡したもの。
若者が華々しく敵を撃破して、後始末が大人の責任か。精神性の頭痛に痛む頭を押さえながら、男の後を追った。
※
「なぁ、船って言ったか? 」
「えぇ、言いました。ここは海の上です。もしかして気付いていなかったのですか? 演説の横断幕、見たでしょう。」
廊下、もとい鉄橋を通りながら男は言う。
「だから脱出路は脱出艇か小型飛行機しかありません、おとなしくついてきてください。」
ごうっと視界が開けて強風が身体に叩きつけられる。アンナイを抱いた身体が揺れ、肝を冷やした。
網型の艦橋は必要なものがあるというガレージまで心許なく伸びていた。
「ここを通ります、高所恐怖症とかではないですよね?」
「もし恐怖症だったら行かなくて良いのか? 」つい混ぜっ返す。
「もちろん駄目です。」
きっぱりと笑顔で彼は断言した。
下には甲板があり、何十メートルあるのだろう、米粒が右往左往しているように見える。
そして、右も左も大海原だった。遠くに陸地がある訳でもない、海のど真ん中。死なない身体に任せて泳いだところで陸には帰れないだろうと直感してしまうほどの広大な青い地獄。
「早く来てください、遠くとはいえ通っているのを見ている人がいるかも。」
いたとして、見たとしてここまで登ってこられるのか疑問だが、男の言葉通りに艦橋を駆け抜ける。
男を陥れようにも、オイカワをがっしりと背負っている以上手出し出来ない。
「取るべきものって何だ、車のキーでも閉じ込めたの? 」慣れない冗談を飛ばしてみる。
「この状況で貴方の頭は軽いのですか。物理的に軽いなら結構、重量は軽ければ軽いほど良いですから。」
男の皮肉が光る。大型犬らしさと言ったが撤回しよう。いつの間にか全力疾走している男を追って走りながら思う。
「見せたいものがあるのです。」
「車のキーと大差ないじゃないの?」
「見た上で判断して、助けてほしいものです。」
この期に及んでまだ俺の決断が介在する余地があったのか。内心の動揺を噛み殺す。
「ここまでお前の思惑通りにいってるのに、何をさせようとしてるんだ。」
「そんな難しい事ではありませんから平気ですよ。」
そう言われて簡単だった試しはないってのに。会社で言われた無茶振りの数々を思い出す。飛行機に遅れずに乗るだけの簡単な仕事だと言われて、羽田発の便に乗るその日に日帰りの名古屋出張を入れられた時は殺意すら湧いた。
そういえば久しぶりに過去の会社の様子を思い出した気がする。この数日に知り合った人数でここ何十年分で出会った人数を優に超えている。
「これは果たして良いことか?」1日が早い事だけは確かだ。
俺は男と共に角を曲がり、その巨大な部屋へと入った。
※
彼等は青白い光に照らされながら液体に浮いていた。
それは母の胎にいるべきものだ。
「これが、僕らです。」
そう言う男の側で、5人の胎児たちがキューブ状の水槽にそれぞれ入れられていた。
発育状態はそれぞれまちまちで、この大きさで外に出すのか、と思ってしまう子までいる。
5人とも頭にヘッドギアのような装置が付けられていて、何らかの信号が光となってケーブルに伝えられている。
「胎児である僕らも不老不死なのです。」
全世界の人間は例の日、不老不死となった。若者は若者のまま、老人は老人のまま。
母親の胎の中で成長するべき
「胎の中に帰りたいっていうのはこの事だったのか。」思わず、女の言葉を思い出してしまう。
「ああ、あの子はまだそんな事を言っているのか。」男は苦々しげに言った。「胎の中にいる事を拒絶されたから俺たちはここにいるんだよ。」
「拒絶。」
「そりゃあ、こんな大きな子をお腹の中に抱えたまま何十年、何百年も生き続けるなんて厳しいと考える人がいてもおかしくはないですよ。」
だから諦めるべきだと何度も言ったのに、と彼は2番目に大きい胎児の水槽をこつこつと叩く。返事をするようにふよふよと彼女は手を振った。
「脳の皺の数で人間の発達は決まるだとか、頭が大きめの胎児なら脳髄の体積も足りるらしいとか、いろいろ研究されましたが結局わかりませんでした。」
男は彼女の見えていないはずの目にペンライトを照らす。彼女は怒ったように手足をばたつかせた。
「この子達を脱出艇か飛行機まで運ぶ事が、俺にやってほしかったことか?」
私は得心したように聞いてみる。
なるほど、彼は屈強だがこの数のキューブを運ぶのは難しいだろう。彼自身もその中に含まれているならなおさらだ。
「違う。」推測をバッサリと否定した。
「運ぶのはやるとなったらその時にして貰います。」
「今がその時だろう?」
ここはまだ静かだがいつ怒号で包まれるかわからない。管理人がいなかったら管理室に行ってみるのは至極当然のことだろう。
「貴方の答えが聞きたいのです、現代の感覚を持った貴方に。」男は絞り出すように言う。
「僕らはこのまま助かって良いのでしょうか。」
混ぜっ返すにはすがりつくような視線が邪魔だった。
法的に言うと、胎児は器物だ。どんなに大きくとも、胎の中にいたら器物で適用されるのは器物損壊罪だ。
「散々物扱いされてきました。」
男は怒りを右手に握りこみながら話す。
「ロボット扱いで、屈辱的な身体を与えられることもあったし、強制連行なんて泥仕事をやらされることも多々ありました。僕らは死ぬ痛みが怖い、死ぬ度に替えの身体を与えるかどうかを賭けて嬲られた。」
だから男は、コートの女の身体ではなかったのか。外に出て警察を呼ぼうと目論んだとき、どれだけの折檻を伴ったのだろう。
男は続ける。
「船は沈みます。身体の元はここにしかありません。成長出来ない我々はここで沈むべきなのでしょうか。」
ここで何故俺に判断を委ねるのだろう。
「我々には大人の判断が絶対だからです。」
血を吐くような声だった。生きたいと言外に叫んでいた。
「答えは出てるじゃないか。」
男は目をぱちくりとさせる。精悍な青年がしたらかなり怖い動作だった。
「胎児が器物扱いされるのは意思の疎通が出来なくて、自己弁護出来ないからだ。」男に諭す。
「お前は口を与えられた。手も与えられた。年上を、俺らや船の連中を陥れる頭脳もある。実際に陥れてここまでお膳立てして、後は何を認められる必要がある?」
息をつく。
「絶対に助かりたいからここまでしたんだろ、じゃあ他人のことなんて気にするな。それが大人だろうが、
それで失敗してもきっと後悔はしないから。後悔だらけの俺はそうであってほしいと、願望を無作法に、無責任に言い放つ。
男は呟いた。
「存在を、存在する事を認めてほしい。」
何だ、意外と皆、同じところで悩むんだな。
「まず自分が自分の存在を認めなきゃならない。そこからだよ。お前。」
嵩張るキューブを台車へと載せて固定していく。工具箱と自転車の荷台の要領だ。我ながら手早く、丁寧な手際に惚れ惚れしてしまう。
「第一、殆どお前のことを知らない男に判断を任せちゃ駄目でしょう。変な答えをしたらどうするつもりだったのさ。」
「その時は潔く死のうかと。」
男は静々と言う。
「それがおかしい。」思わず声のトーンが上がってしまう。「俺達は死ねない身体、そこは良いか? 」
素直に頷いたのを見て俺は教える。
「死んでリセットは出来ない。自分のやったこと全てに責任を持たなきゃならない。逃げれない社会というのは、本来はそういう意味なんだ。」
だから、狂った社会では、人の責任を被せられて煩わされないよう個人主義にもなるし、これ以上汚点を作らないよう仕事も辞める。
そして俺も、何もしなかった。
でも、それは狂っている。
「逃げれないからこそ、知恵を回して人を頼る。何かして貰ったら返して次に繋げる。自分を守れるのは自分しかいない世界ってのは、そういうことなんだから。」だから。「人に助けてって言え。助けるかどうかは言われた人が考えることだ。助かって良いかなんて、前提条件から聞くんじゃないよ。」
口に出してから男の様子にはたと気づく。
泣いていた、声をあげて。その身体が機械じゃなければ、目いっぱいに涙を浮かべていただろう。それはまるで産声をあげる赤ん坊のようだった。
「存在してたい。助けて、海の底なんて暗い場所、嫌だ。この身体を喪うのも嫌だ。」
「そうだよ。子供なら子供らしく、そうおねだりすりゃ良かったんだ。」
男の頭を背伸びして撫でくりまわす。
「絶対助けてやる。」
本当に俺はアンナイに触発されて気が狂ってしまったようだ。絶対に助ける、だなんて、出来ないことを約束するなんて!
「それで、どっちが出口で何処に脱出用の機械はあるのかな?」
「それも知らずにそんな啖呵切ってたのかよ、お前。」
俺はしゃっくりあげる子供にはっきりと言われ、罰が悪そうに頬を掻いた。
※
「この国の研究者が、しかも行動力もモチベーションも高い集団が失われる意味を知っているのかお前らは。」
知り合いが激昂するが、子沢山の身としては構っている暇はない。
「邪魔だ。」ぶん殴って昏倒させる。
思えば、営業の頃から何となく気に入らなかった奴だ。この胎児たちへの仕打ちといい、碌な奴じゃないから良いだろう。
「あの、イジュウインさん、そろそろ。」荷物の積み込みを終えた男が声をかけてくる。
「営業の頃は100回くらい妄想したな、これ。」
俺が痛む手を振っていると彼女が非難してきた。
「船を沈めたって認めちゃ駄目って言っておきながら、それは良いの?」
アンナイは感電死まではしていなかったらしい。白魚のような手で小型飛行機のあちこちを触っている。
「良いか、大人の世界を教えてやる。この先、誰に会ったとしても船を沈めたなんて絶対に認めるなよ。」
先程、私は子供達に言い含めた。
なぜ、と問う彼等にはアンナイの疑問に答える。
「殴ったとしても、船を沈めたこととの因果関係はないからな。物的証拠もなくなるし、後は目撃者か時間帯のアリバイ、自供の間接証拠しかない。糾弾しようにも積んでるんだよ彼等は。」
法定主義が崩れた今、これがどれだけ通用するかはわからないけれど、言い逃れはしておいた方が良い。
「そういえば何で船を沈めるなんてこと思いついたんだ?」
男に問いかける。手際といい、壊してはいけない機械を的確に破壊する知識といい、見事としか言いようがないものだった。
「取引先から届いたメールサーバーのメンテナンスをしていたら、メールが来たんです。うっかり開封してしまったら、何処をどうしたら上手くこの船を沈められるかが書いてあって。」
そういえば引越し先にはダミーのメールサーバーを送ると宣っていた企業があったな。とある部長の顔を思い浮かべる。
「あとは何のことはありません。全部無に帰してやったらすっきりするだろうと、ただの私怨です。」その無名の男はにいっと笑って言う。
人をこき使って恨まれるとこういうことになりがちなんだよなぁ。元気な若者から目をそらして、前に向き直る。
※
「飛行機の操縦経験は?」
「ない。」
「同じく。」
「あ、オイカワ、目が覚めたの。」
「いや、おんぶに抱っこですみません。」
「本当にな、物理的にな。」軽薄な笑顔の若者に霹靂とする。
「では電池が切れるまで僕がナビゲートします。」
「だから協力者が必要だったんだな。」ちゃっかりとした男の頭をまた撫でる。
「人生初飛行機だわ。」相変わらずアンナイはいつでも楽しそうだ。
「で、結局誰が操縦するんだ。」
責任が重い外れの立場、それはやっぱり私、イジュウインに回ってきた。
「お願い、イジュウイン。」
「今回だけだぞ。」
指示に従ってエンジンをかける。50年間でも組織の中で損をする性分は変われなかったようだ。
「飛んだ、飛んだわ!」
おっかなびっくり、その小さな飛行機は甲板の上を滑って、海の上を駆け抜けていく。
暗かった海が飛行機が上空に上がるにつれてどんどん蒼くなっていく。無重力感に胃がひゅんひゅんする。
「あれ、知ってる?」アンナイが胎児の男に話しかける。
「水平線っていうんだよ、綺麗でしょう。」
大体の人は知っているっていうのに何と誇らしげに。ましてやこの男は船で生まれ、働いてきた人物だ。彼の困惑した空気が伝わってきて、俺はつい笑ってしまう。
振り向けば、船はゆっくりと、真っ二つになって沈んでいく。
空から見るそれはまるで無音でバターが切れていくようだった。
後悔は積み重なっていく。
いつか船を沈めたことを、死ぬより辛い思いをして後悔するかもしれない。
それでもやっぱり、ただゾンビが漫然と這いずり回るより、必死に立ち上がり歩く方がずっと良い。
開放感に身を震わせて、叫んでしまった。
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