旅行代理店

 からんころん、と、綺麗な音が鳴る。ドアベルが残っていることに微笑んでしまう。何に使うのかはわからないけれど、素敵な音をさせるというだけで盗んでいく者も少なくはない。

「日中暑い時間帯だからって、律儀に休まなくたって良いじゃない。」

 続いて店内へ入りながら彼女は言う。

「しかも昼休みでもないのに、仕事中に休むなんて。」真面目に過ぎる感想をアンナイは述べた。

「休まず働き続けたら倒れるぞ。」

 最低ラインでも働き続ける事を目指す、社会に出た日に学んだ事だ。

 昨日1人で入ったあのカフェもそうだったけれど、大通りに面したカフェは何処も使い潰されている。

 特にこの地域は若者でもいたのか、スプレーアート塗れというのも珍しくなかった。

 先程まで休む所を探していた時に見つけた数々の前衛アートを思い浮かべる。

 スプレーインキが貴重な今、彼等はどう自己主張しているのだろう。


 少し入り組んだ平べったい複合施設の2階、その不思議な旅行代理店は未だ当時の面影を残していた。

 革のボックスソファに恐る恐る腰掛ける。埃や虫が湧き出てくる事態にはならず、密かに胸をなで下ろす。

 机を叩いてみても、今度は割れることがなくしっかりと拳を受け止めてくれる。

 アンナイはきょろきょろと店内を見渡しては壁にかかったサインに首を傾げている。

 コンセプトは何処よりも気軽に行きやすい旅行代理店、だったらしい。何処ぞの昭和の喫茶店なのか、といった様相だ。

 壁にかかった色紙の群れは何の意味があるのか、とは思ってしまう。サインを飾る行為は例の日以前でももうあまり取り沙汰されていなかったし、そもそも人物のラインナップが微妙だ。写真を付けても誰だかわからないというのは最早有名人と言って良いのだろうか、店長の親戚も混ざっているのではないか。

 水筒を持っていたビジネス鞄から取り出して中身を注ぐ。氷があったらなお良かっただろうが贅沢は言えない。

 涼やかなハーブの香りが辺りに広がった。歯磨き粉の味がすると俺なんかは今でも感じてしまうが、どうせ彼女は歯磨きした事も覚えてないに違いない。

「はい、どうぞ。」給仕も板についたのではないか、たった数回で私は昔の勘を取り戻したようだ。

「ありがとう。」アンナイはカップを手にし、一口飲む。

「これは食べ物なの? すーっとするわ。お腹の中が涼しい、何で?」

 何でと言われても、困った顔をされても返答のしようがない。子供には早い味だったのかアンナイの好みに合わなかったのか判別はつかなかった。

 俺も一口飲んでやはり好きではないな、と再確認する。

「飲み終わったら早く行きましょう。」首を傾げながら味わっていたアンナイに声をかけてくる。

「飲み終わったらな。」カップには2人とも半分以上残っている。

「どうして休憩を取るの? 」ここに来る前に散々聞かれたことを改めて問われる。

「それが人間だからだよ。」

 何の論理でもないけれど、これは譲れなかった。休まずに動き続けるなんて、人間には出来ないはずだからしたくない。

 彼女には理解出来ないであろう我儘、それだけを強硬に言い張って、我々はこの旅行代理店に来ていた。

 アンナイは人が良い。

 気が急いているだろうに、怒りながらも最終的には承諾して、おとなしくソファに収まっている。

「出来るだけ急いでいる、申し訳ないけれど次はないからね。」アンナイが言う。

「わかっているよ。」気の無い返事を返す。私は人間らしくありたいってだけなのに固いやつだ。

「まったく。」アンナイはお茶を啜る。

「最初の一口はびっくりしたけれど、この味あんまり嫌じゃないかも。」

 飲んでいるうちに味わい方がわかってきたのか、徐々に一口あたりに飲む量が増えていく。

 味に目覚めたのだろう、あの感動も味わえるとは羨ましい限りだ。

 未だにまずい同じお茶を飲む。

 外観といい、こうしてお茶を飲んでいるとここが旅行代理店だと忘れてしまいそうだ。表に出ていた看板と色褪せたチラシがあったからだ。

「ハワイ、香港、ロンドン。」つい読みあげてしまう。

「海外、行ったことあるの? 」

 アンナイがチラシを弄びながら聞く。

「ない。いつか行こうと思ってたんだけれど世界がこうなっちゃったから行きそびれた。」

 今や、行ったら帰ってこられなさそうだ。

 ふーん、と彼女は元は青かったであろう赤い珊瑚礁の海を撫でる。

「綺麗ね。」

「青だともっと綺麗だよ。」

「行ったことないんでしょう?」

「お前も行ったことないなら、嘘だとも言い切れないだろ。」

 南国も霧の都も行ってみたい。異国の地、その様を夢想する。

 全人類がゾンビと化しているのだから、きっと何処もこんな有様なのだろう。もしくはチラシで謳われているような魅力的な土地なのだから、人が集まってごった返しているのだろうか。人が集まる以上交流もするに違いない、渡り鳥のように旅をするコミュニティだとかもありそうだ。

 国境の管理は今どうなっているのだろう、少なくともこの国では管理出来ていない。管理したところで何を守ると言うんだ、生命も食べ物も必須ではない世界だ。

 旅人となって、それらを永遠と見て回るのも悪くない選択に思えてきた。

「この国で旅をするってなると、やっぱり飛行機かな。」

 アンナイの言葉に我に返った。

 この国、しかもそのうちの一箇所に長くいすぎたせいか、旅行パンフなんかを見ると空想が止まらなくなる。

「飛行機は落ちるからなぁ。」

「落ちるの? 」

「そりゃあ沢山落ちたよ、自転車とは違うんだから。」

 電車の車掌さんと同じく、パイロットも有名な職業で憧れる人が多かったらしい。そのせいで大型小型問わず、飛行機は残っていないだろう。

 飛行機操縦は私もしてみたかった。自転車とは違うのだから、もっと、解放感があって気持ちよさそうだ。

「落ちるのは怖いわね、海に落ちたらどうしようもないじゃない。」

 落ちた時点で即死なのは黙っておく。これ以上恐怖を煽っても仕方ない。

 海の底には今何人沈んで眠っているのだろう。

「じゃあ船かしら。時間はかかるけれど安全、考えてみればこの身体にぴったりだね。」はたと気付いた彼女は言う。

「船、需要、お金のチャンスよイジュウイン。転職してみれば? 」

 アンナイの言うことは50年前考えた会社があって、今やその会社がこの国の覇権を握っている。

 覇権といってもこの国が好きな人の善意を借りれるという程度、大きいか小さいかは人の判断基準だ。

 大きいと思う、その分責任も。社員はそう断言していた。

 これから赴くその企業は私の良く知る場所だった。

「キドって人、助けてくれるのかしら。」

 水色に顔を写して彼女は俯く。私よりずっと男前で真面目な彼だ、きっと力になってくれるだろう。

 船のニューロン社はメールサーバーの利用者一覧に当然かのように入っていた。

 考えれば、あの一流企業が何かを企んでいるらしい企業集団に入ってないわけがないのだ。

「ねぇ、キドさんってどんな人? ドアを開けたら首を切ってくるような人?」

 そんな人ではない、大丈夫だと断言出来る。けれど、キドの顔が脳裏にちらつくのが癪で無言を貫く。

 その無言の間にもアンナイはちみり、ちみり、と、飲み終わるのが惜しいとでも言いたげな飲み方をする。

「こんなこと思っちゃいけないんでしょうけど。」おずおずと口走る。「研究がひと段落したら、海外に行ってみたいわ。」

「なんで思っちゃいけないんだ。」つい、彼女が話し終える前に言ってしまった。

「だって研究はやりたいことで、やりたいことなら頑張れって、皆に言われたから。」

 声が小さくなっていくものだから、身を乗り出して聞く。

「やりたいことでもずっとやるのは疲れるよ、他のことをしても良いじゃないか。」

 俺が、いつか誰かに言ってもらいたかったことを言ってしまう。

 アンナイの反応はない。流石に説教臭かっただろうか。

 カップに残った自分の分のお茶を飲み干す。

 彼女は、きっと聞かせる気はなかったのだろう。その言葉は静かな店内でもほとんど響かなかった。

「もう少しこうしていたいわ。」

 彼女のやるべきことを放り出した本音。それを聞いた瞬間にお代わりを注ぐ。

「早く行かなきゃいけないのに、何するのよ。」

 真面目なアンナイは怒って、カップの中身を一息に飲み下す。

 休めるのも今しかないのだから、その気持ちを大事にしても良いんじゃないか。

 そう言ってやれるほど彼女の未来に責任は持てなくて、俺は言えなかった。

 きっと休んで、何か悪いことがあったらずっと後悔するから。

「ごめんな。」俺が強かったら言えたのに。

「いいよ、気を使ってのことだってわかるから。」

 アンナイはそう言って笑ってくれた。

「お茶、ご馳走様。また作ってね。」

「あぁ必ず。」

 次は花茶に手を出してみようか。

 扉を開けると、また、からんころん、と音が俺たちを見送った。


 ※


 結果から言うと。

 木戸は不在だった。それどころかニューロン社がいた階全てがもぬけの殻になっている。

 電気通信公社もやった、引越しをしたのだとよくわかった。

 木戸は昨日挨拶回りしにいったときに、そんなこと一言も言っていなかった。いけずな奴だ。

 いなくなるなら一言言ってくれたって良かったじゃねぇか。

 彼にいつも通された応接室に残されたメモ。これを握り潰して捨てられる俺だったらどんなに良かっただろう。


「ごめんな。」


 そのメモにはそれだけが書かれている。

 何も言わないアンナイの敏感さが憎かった。

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