大企業
幹線道が視界の端に流れていく。歩く人は少なく、しっかりとした足取りで歩く人はもっと少ない。
彼らはどこへ向かっているのだろう、すれ違う人に声をかけるだけの余裕は皆一様になさそうである。
例の日の前、働いていた頃と同じだ。お互いに必要がないことだからしない。何とも合理的、慣れ親しんだ空気が失われていないことにほっとする。
昨日もこの品川には来た、心配になるには早すぎるのではないかと言われるだろうが、例の日以後の変化の中で生きてしまってる私には早すぎることなんてないと断言出来る。
時間はあるのに時が経つのは早い。
ビル風が強い。アンナイの髪が縦横無尽に揺れて、セットの意味をなくしている。
「まずはどこから行こうか。」走らせながら問いかける。
「着くまでに考えるわ。」
アンナイは視界に流れる高層ビルの屋上を見ている。
そこにも人間はたくさんいて、地面を見ていた。俺たちが通り過ぎるのを待っていてくれているのだろう。
「彼らは何をしているの? 」アンナイが聞いてくる。
「バンジージャンプの準備かな。」
「意味がわからないわ。」私にも彼らの意図はわからない。
「振り返らない方が良いよ。」
「うん? 」彼女は1度だけ振り向いてから身体を元に戻す。
十分離れたところで粘着質な破裂音が続いている。
だから見るなと言ったのに。吐きそうなのだろう、そこから目的地に着くまで彼女は沈黙を保っていた。
本当に彼らの意図はわからない。地上の我々を気遣う理性があるくせに痛い思いをするなんて。
自転車から降りた彼女に問いかける。
「じゃあまず、サーバーがあるかもしれない会社のビルに行きましょうか。」
いきなり何を言うのかこの子は。唖然とした拍子に自転車を倒してしまう。フレームが歪んでいたらどうしてくれるのか。
「何を驚いているのよ。事務方はよくわからないけれど、サーバーを使えるよう契約を結んでいるんでしょう? なら、そう無下にはされないでしょう。」
そこが巨悪的な組織だったらどうするのか、考えさせる間もなく歩いていく。
「待て待て。」気が急いているのだろう、アンナイは足を止めようとはしない。「せめて、自転車を停めさせてくれよ。」
「その辺じゃ駄目なの?」
物の価値を知っていて人の時間をどうとも思わない連中がうようよしている以上、それは出来ない。
品川にはまだある人通りを気にして、首を振る。彼女は苦しそうに顔を歪めた。
「出来るだけ急ぐから待っててな。」
手早く慎重に、そしていつものように、古びた自転車が捨てられている自転車置き場に自分のものを隠す。手馴れたものだ。
「凄い数ね。」
錆びた自転車は山のように折り重なっている。最初の1台は誰が置いていったのか、何処かへ行くのに必要なくなって置いていったのだろうか。赤錆の匂いが強い。
じっとアンナイはそれを眺めている。
「鉄とかちゃんと集めれば使えそうなものだけれど、これは誰も使わないの?」
「俺以外が弄っているのを見たことはないな。」
その発想がないのか、時間を使うのが惜しいのか。ここの山はごみのまま。
いつも通りごみ山を出たところで、困った顔のアンナイに対面する。
「聞いてたことと違うわ。」
そりゃ例の日以前の価値観でいる貴女からすると大違いだろう。
「そうじゃないわ、もう資源はないって私たち研究員は職場で言われていたの。」
ない? この国は確かに資源には恵まれてはいないが、枯渇しきったと断言するには首をひねるものがある。
現にごみ漁りだけで機械修理が出来ている人も言うのだから説得力はあると思う。
「この国にはこのままでは未来がないって、だから働かなければいけないって。」
「もしかしてそれを聞いて休みなしで働いていたのか?」
だって学校でもそう聞いていたし、社会の為には頑張らなきゃいけないのでしょう、と話す彼女に眩暈を起こす。
どこまで例の日以前の善人なのだろう。
「やっぱり現実とは違うのね? 」違うと確信しつつも、その問いには答えられなかった。
そう思うのはあくまで私の意見で、この純粋な彼女にそれを話せばそれが彼女の新しい常識にすり替わるだけな気がして、そんな恐ろしいこと出来なかった。
「自分で考えると良いよ、時間はあるんだから。」だから私はこう突き放すことしかしない。
我ながら狡っからい男で嫌になる。
「そうするよ。」
だからアンナイが何でそう心地よさそうに笑うのか、私には理解出来なかった。
※
「これは修理対応となります。」
「お急ぎですか? そうですか、良かった。でしたら見積書を後ほど送付致します。その先で対応という形にしましょう。えぇ、引越し予定地の住所を教えてください。」
「イジュウイン、イジュウイン!」
仕事中にうるさい人だ。足元で騒ぐアンナイに少し苛立ちを覚える。
「何で貴方、さっき貴方を殺した人とにこやかに話してるのよ。」
「その節は大変失礼をしました。」
先ほどまで話していた彼の部下の無礼を詫びる態度は完璧なものだった。
「いえ、私どももデリケートな時期に急に訪問して申し訳ありません。」
それに返す俺の態度はどうだろうか。頸動脈から出た固まりかけている血を拭いながら機械を見ていた目を彼に移す。仕事の機会があって、最初に恩を売れるとは僥倖だった。アンナイもこの感覚に早く慣れてほしい。
「もう大丈夫だから静かにしててな、おじさんたち大事な話をしてるから。」
「子供扱いしないで。」
逆効果の言葉を吐いているが指摘する気にもなれない。
よく自前の点検だけで機械をここまで保たせることが出来るなぁ、と感慨深く思う。元通り梱包されていく自社の機械たちを眺めて、俺はコーヒーをもう一口啜った。首の怪我はトラウマがあるから嫌な気分になってしまう。
あの時、ドアを開けたのが俺で良かった。いや、アンナイの身長なら当たらなかったか。
結局押し切られて、しかも真正面から訪問することとなってしまった。
電気通信公社、引きも切らずの名門企業の癖に名前が分かりづらいと評判だった大手。支社のはずなのに自社ビルなのは流石としか言いようがない。
そのエレベーターホールで私は頭を抱える。
「どうしたの、先に行くわよ?」
「絶対に先に行っちゃ駄目だ。」綺麗なホールに動くエレベーター、明らかに人がいるから。
「良いことじゃないの。」
脅迫者について話を聞けるかもしれないし、と彼女は言うがどこまで性善説的教育を受けてきたのだろう。
「会社で暴れる人なんていないでしょう、立場もあるんだし。」
常人の考え方だ。流されてしまいたいと思うのだから、俺も疲れているらしい。この普通さが普通であれば良いのにな。
そう考えたのはやはり失敗だった。
「ー!ー!」
声が遠い。ドアを開けたら斧が首元に飛んでくる仕組みとなっていたらしい。単純だけれどよく出来ている。
首に刺さったそれを見て、どうしたものかと俺は血を流しながら考えていた。
斧を抜いたのは早計だったかもしれない、急いでハンカチで押さえて止血を試みる。
思考能力が失われるのは致命的だ、この怪我も致命傷だけれど。
スーツの男たちが集まってくる。手に手に持つのは例の日以前のそこらへんで手に入れられるような事務製品で、その平凡さにこの人たちはただ仕事をしているだけだと推測出来る。
「ー、ー。」
声が全く聞き取れないのは参った。アンナイが前に男たちの前に立ち塞がろうとする。違う、敵意を見せていけない。
名刺を取り出してみせる。首が半分まで切られるなんて、お茶を出そうとしたらスーツにかかってしまった程度の粗相だ。
遂に脚の力が抜け、倒れこむところで。スーツの初老に抱き留められる。
彼の使っている高価そうな香水で意識が遠のいていく。
しまったなぁ、介抱されたら相手方の粗相に対して恩を着せて色々な話を聞かせることか出来なくなってしまうかもしれないしゃないか。
アンナイが悲痛な顔を視界の端に捉える。そんな顔をさせてしまったのは申し訳ない。
まぁ後は野となれ山となれだ。そうして俺は意識を手放した。
そこから2時間蘇生するまで死んでいたらしい。
眩しい陽に目が醒める。太陽に照らされる自社製品とスーツの男に過去の経験が脳裏にフラッシュバックして、最悪な気分だ。
「お目覚めですか、この度は大変なご失礼を致しました。」
慇懃に謝るこの紳士然とした男はどこか胡散臭さを漂わせていた。香水がきついのも関係があるだろうか。
「イジュウイン、もう痛くない?」
日常茶飯事なのだから泣くことなんてないのに。アンナイが腫らした目を擦るのを止めさせる。忽ちのうちにその腫れは治っていく。
「名刺を頂戴しました、此方もお渡しさせてください。」
固く真っ白な紙、俺のように数十年前刷られたものを使いまわしているわけではないのだろう。
「エハリと読みます。お見知り置きを。」
他社の部長はなんで呼びかけるのが正解なのだろうか。エハリ部長か、エハリ様、か。役職で呼んではいけないと聞きかじったのはいつの頃だったか。
「お初にお目にかかります。」
「今日はどのようなご用件で? 」
アンナイに目を向けると此方に向ける心配そうな目とかちあう。何も話していないらしい、結果としては正解だったかもしれない。
「今、急ぎの用がありますので手短にして頂ければ幸いなのですが。」
無数のダンボールと妙に空いた空間に事情を察する。
「脅迫メール、貴方のところへも来ていたのですね。」
紳士はにやりと笑った。
「反応がないから、てっきり帝国工業さんは崩壊しているものだと思ってましたよ。」
実際はその通りな訳だが。「まさか。現にこうして様子を伺いに来ているでしょう。」
「無事で良かったです。我々もあの緊急事態のメールを見ましてね、ここも危ない、と思いまして。」
危機対応が早い、アンナイに聞かせてやりたい。見習えとは言わない、こういうのは慣れだしまだ難しいだろうからな。放心して黙っている彼女の様子にちょうど良いと話を進める。
「それで引越しを?」
「えぇ、身の安全を確保しなくては助けに行くことも、犯人確保もままならない。我々は我々の目的がありますから。」
その場に当事者がいないと思っていても予防線を張る、なるほど大企業の部長だ。
アンナイはその言葉を聞いて密かに納得している、こういう風に当事者がいたりするから迂闊なことは言えない。それをよくわかっている、狸だ。
「ところで帝国工業さんと聞いたのでこれらを直せるのかと思って、ご用意しておりました。」
やはりこの不自然に残されたダンボールと弊社機器はそういうことか。
「部品さえあればもちろん直せますよ。」
聞かれることの予測はついていた。だが私は一つの知識から不可解な点を見出してしまう。
「弊社の製品でしたら故障信号を発信するはずなのですけれど。」
罰の悪そうな顔をして、エハリ部長は弁明を始める。
「だってどれだけ連絡をしても返信をしてくれなかったから、貴方がたもあの日に崩壊したのかと思いましてね。だったら信号を出すなんてリスク負えないんですよ。」
案外紳士でもないのだろうか。コーヒーが苦い。
そこまで機械の設定、中身を弄れるなら帝国工業の技術なんて借りる必要は薄いだろう。目的は
和かに頼ってくる彼の透けて見える本音を飲み下す。なんて理想の上司なんだ。
「コーヒーおかわり、いります?」
エハリ部長の声に意識を今に引き戻す。アンナイはどうやら親戚の小さい子供扱いに甘んじることにしたらしい。子供は珍しいのだろう、あれは猫可愛がりに近い。代わる代わる社員が彼女に声をかけている。
「いえ、」もちろん惜しいがコーヒーは断る。「それよりもサーバーはどちらへ?」
電子通信の最大手の部長は痛いところを突かれたように顔をしかめる。
「引越し先とは別のところにあります。」
それが何故そんな顔をする事実なのかは知らないが、鷹揚に頷いてみせる。
「サーバーだけはうちの命ですから、引越し先へはダミーを送っております。」
一体どんなデータが入っているのだろう。少し興味を抱きつつも、私は耳を傾ける。
「時に50年って長いと思いますか?」エハリ部長は答えが既に出ている顔をして問いかけてくる。
「いつの間にか過ぎていましたからね、短いと思います。」
「だよねぇ。」
相好を崩した彼は好々爺といった表情で、その目の仄暗ささえなければアンナイに見せたい優しい顔つきだった。
「じゃあこれ、引越し先の住所。こっちはサーバー所在地。見積、送ってくださいね。今後ともご贔屓に。」
さよならの先がある、いつかの自分が何回死んでも求めていたことをあっさり得られ、笑みをこぼしてしまう。
「腔内がふわふわする、こっちはねっとり何かが絡んでくるわ。」
お菓子を食べて喜んでいる場合か。アンナイとエハリ主任とを見比べて、若い技術主任と部長との差を感じてしまう。
平社員としては文句は言ってはいけないのだろうけれど、歯軋りくらいは許してほしい。
※
トラックが到着したとかで慌ただしいオフィスをお暇する。何処にでもあるような幌のかかったそれの脇を通り、次の目的地へと向かう。
トラックの荷台が見えてしまう。緩衝材もひかずこれで運ぶのか、と遠い目になってしまいそうだ。
あのぶんだときっとすごい数の傷がつくだろう、修理見積は高めに設定しておいた方が良いかもしれない。
「案外貴方がめついわよね。見積りってさっきからよく言っているけれど、お金を払ってくれるところなんてあるの?」
飴を舐める彼女は外見の年相応の呑気さなのだから、尚の事頭が痛い。
「働いた、お金が発生したって事実の方が大切なんだよ。」
貨幣が流通していない今からするとただの自己満足だけれど、数値で働いた時間が貯められているような気がして止められない。
「2度手間なだけに感じるのだけれど。」
「感傷ってのはそういうものなの。」
「おじさんー。」
アンナイは品川でも広がっているざくろが散った凄惨な風景に飽いたのだろう、棒付きの飴を咥えながら仰け反るなんて危険な事をしている。1回死んだ方が覚えるかもしれない、と特に注意はしない。
飴もコーヒーも来客に振る舞う余裕とコネクションがある彼等は何者なのだろうか。社員数も多かった。大企業の社員、それ以外にあの繋がりを作っている理由がある筈だ。なかったのが俺の会社な訳だから。
ぶらぶらと脚を揺らされバランスを崩しそうになる。ただでさえ、2人乗りは重心の位置取りが難しいのだから止めてほしい。
「貴方の事務所は寄らなくて良いのね?」
ところどころ窓の割れたそのビルは背中に遠ざかっていく。
「俺以外いないから、立ち寄る意味がない。」遂に打ち明けた真実を吐息交じりに吐く。
あんな、生き生きとした組織を前にして、アンナイに嘘をつき続けることは出来なかった。
この背の彼女はこれからいろいろなことを知っていってしまうだろう。
そうなったときに、あの人は嘘つきだった、それか、よく知らない人だと思われるのは、何となく嫌だ。
これも執着していることになるのだろうか。
自分の感情を持て余すことなんて、50年ぶりのことだった。
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