第2章
図書館
6時半、今日も目覚ましが鳴る。
机の上に突っ伏した状態から俺は目を覚ました。習慣とは恐ろしいもので、睡眠を必要としていない身体で寝落ちてしまっていた。もう少し踏ん張りがきくと思っていたのは自分を過剰評価してしまっていたらしい。
「こ、これどう止めるの?」
目を覚ましたアンナイは今日も驚いている。アラームを切って、伸びをしてみせる。突っ伏して寝るのは身体が幾らか損傷するらしい。ばきばきと全身から音が鳴る。
「おはよう、アンナイ。」
「あ、おはよう。」
「どうだった?」
まさか眠ることに感想を求める日が来るなんて。
「だんだん暖かくなって、いつの間にか意識がどんどん暗くなっていって、なのに嫌じゃなくて。変な感じね。」
寝るってそんな感じなのか、次寝るときは確かめてみよう、と決心しながら、俺は夜にまとめた資料をアンナイに渡す。
「これは?」
「議事録、聞いたことをまとめたから合ってるか確かめてくれ。」
前提を共有するのは大事だからな、と言いながら台所に立つ。
読んでいる間、朝ご飯を作っておこう。昨日は焼き物が多かったから今度は茹でる料理が良いだろうか、野菜を切りながら考える。これらを塩ダレで食べるのは子供の口にも合うだろうか。俺は好きなのだけれど少し品目としては渋すぎるか。
もう読み終えたらしいアンナイが声をかけてくる。
「合っていると思うわ、よくまとまってるわね。」
技術主任らしく、貫禄たっぷりに褒められた。少し嬉しくなるのは生粋の会社員だからだろうか、腹立たしい。
返答代わりに小皿を置く。
「変な感覚がするわ。もにゃって感じ?」
「ぬか漬けってやつだよ。」
食べることに抵抗がなくなるのが早い。これが胃袋を掴むということなのか、食卓の前にいつの間にか座って、フォークを伸ばしている彼女に笑ってしまう。
食べ終わって、きちんと食器を片付けて、昨夜と同じようにアンナイと向き直る。違うのは今日は紅茶だということくらいだ。
「メールが送れた会社を訪問してまわろうぜ。」
俺の言葉に彼女は驚いたようだった。
「探すのを手伝ってくれるの?」アンナイは柑橘系の香りと共に言った。
何を今更。
「無理しなくて良いのよ。貴方にも仕事があるでしょう。」
俺とは違った方向性でデリカシーがなく無粋だ。沈黙をどう受け取ったのか、彼女はなおも言い募る。
「私は1人でも頑張れるわ。だから。」
冷たいことを言わずに格好くらいつけさせてほしい。
「有給休暇溜まってるから、消化にちょうど良い。気にすんな。」
そんな制度も残ってるのかどうか、50年分の有給休暇日数はいくつ溜まっているのだろう。
「でも。」
「話は戻すけれど、他に案があるのか?」思考の矛先をずらす。
「脅迫者はメールサーバーを利用してたんだろう。機械のメンテナンスは自分でしなきゃいけない時代だ、メールの送信者はサーバーの近くにいる可能性があるんじゃないかな。」
何処かのサーバーに侵入してただ乗りしている可能性はもちろんあるし、むしろ高いと思うけれどそれはそれ。
人がいれば御の字だ、物資や知識の交換が出来るかもしれない。アンナイは考え考え、口を開いた。
「それ以外、手掛かりはないものね。」
その躊躇った様子に不安を覚えて、言葉の先を促す。
「非力な私では言ったところで何が出来るかわからないの。」
アンナイは絞り出すように漏らした。
そんなの気にすることはない。10年かかっても罠を張って、目的を達成すれば勝ちなのだから。時間制限のない中当てなんて、こんなに攻める方が有利な勝負もないだろう。
やったことがないから全て推測だが。
「とりあえずやってみようぜ。」
らしくない言葉を出してしまう。普段なら言われる方が常だっていうのに、求められた役割を演じてしまう癖のようなものがある。
「本当に貴方、頼りになるね。ありがとう、そうでないと私は未だにあれこれ考えて動けなかったわ。そういうところ、好きよ。」
演じた所為でネガティヴにも程がある性格だってのに誤解されてしまったらしい。
眩しい笑顔から目を背ける。大した意味はないとわかっていても言葉に反応して頬が熱い。
「そうと決まったら地図ね。」
アンナイはさっきまでとは打って変わって生き生きと計画を練る。
曰く、他の利用者の事務所所在地一覧も作られてきちんと公開されていたのだという。印刷も既に済ませていた。用意の良い、流石役職者。
「地図は事務所か図書館に行かなきゃないな。」
どちらが近い?と問いかけながら、アンナイは少しパサついた髪を梳かす。出勤前の儀式らしい。
近いのは図書館だ、高熱の友人が入り浸っている彼処。
「じゃあ行きましょう。」
そこから彼女が身だしなみを終えて意気揚々と言うまで、30分も待たされてしまった。
「また二人乗りかしら? 」
文句は言わないでほしい、これ以上速度の出る乗り物は俺の手元にないのだから。
工具箱の代わりにアンナイを載せながら文句を言われる。
こんなことなら平素はガソリンがもったいなくて使えないからなどとは言わず、車でも用意すべきだっただろうか。
ぐんっとペダルを強く踏み込む。
「きゃっ。」彼女が声を上げる。
「自転車に乗るのは2回目だろう。」声をかける。
「昨日はよくわからなかったの。」彼女は喜びを隠さずに叫んだ。「これ、速くて楽しいね。」
速い、速い、とはしゃぐアンナイの声と一緒に、自動車について考えていた気持ちが風に乗って消える。
陽の光は気持ち良いし、風はくすぐったい。当たり前のように享受すべきな幸せだ。それだけで良い。
そう断言出来るほど謙虚なら、俺も苦労していない。
「これは何?」
先ほどまで、桜の花びらを冷たくない雪だと勘違いして騒いでいた彼女が指を指す。
その先にあったのは川に浮かぶ背中だった。自転車を漕ぐ足をさらに速める。
「ねぇ、あれって人じゃないの?」
水死体となって膨らんでいてもわかるものなのか。子供特有の視力の良さに感服する。
そうだ、少なくとも人だ。注意深く見れば水に沈もうとしている彼の腕には大きな石が抱えられていて、自分の意思でそれをしているとわかっただろう。
死ぬ前でも人は膨らむのだな、と考える。死んだら力が抜けて石を落として、すぐに何処かの岸へ打ち上げられることとなるだろう。
「いやぁ、よく見えなかったな。ごみか何かとかんちがいしたんじゃないのか。」
「こんなに人がいないのに、川に流れてくるほどごみなんて出ないでしょう。」
賢い人っていうのは面倒だ。それ以上言い繕わずに橋を渡りきる。
「何であんなことするのかしら。」
抱えた石がようやく見えたらしく、心配そうに言った彼女の言葉に被せて私は言う。
「考えない方が良い、気にしても駄目だ、ああなったら救いようがない。」
強い語気がアンナイの気に障ったのらしい。
「そういえば私、貴方のことをほとんど知らないわ。色々経験してるみたいだけれど、どう生きたらそうなるの?」
挑発的な言い方はきっと彼女なりの気遣いだろう。肩に置かれたアンナイの手は優しく添えられていて、どう返したものか迷ってしまう。
自転車を漕ぐ数時間程度で語り尽くせる程、話をまとめる能力はない。
「話したくないなら強要する気はないわ、辛かったのね。」
辛くはないはずだ、ただ記憶が遠くて思考がまとまらない。気遣いを否定せず反論をするには語彙が足らなかった。
優しさが痛いなぁ、と感じながら私は脚を動かすことしか出来なかった。
「ここが図書館なの?」
アンナイは啞然としている。
そう思うのもさもありなん、見た目は完全に廃墟だ。これでも昔は全国でも有数の大きな図書館、デートスポットと話題になっていた。
ガラスに絡む蔦がお洒落との評判だったそれは今や、蔦は伸び放題、ガラスは高い位置に行くにつれて曇りっぱなし。やはり清掃というのは偉大なのだとよくわかる。
営業的に言わせてもらうと、50年経った建築物なんてもう建て替えの時期だ。どんなに丁寧に使っていても、材料が年月に耐えられる構造なんてしていない。
そんな、外観内実に不安な建物に彼はいる。
ピンポン、と電子音を鳴らして自動ドアが開く。今日も電気は通っているらしい。
「ウカイ、いるか?」
ここの構造は前衛的に入り組んでいるものだからいけない、その上彼自身がいるかどうか五分五分なのだから困ったものだ。やたらと広く入り組んだ建物に声を響かせる。
「おぉいウカイ。俺が来たぞ、紹介したい女もいるぞ。」
「それは誤解を招く表現なのではないかな。」
アンナイが何故かもじもじとしながら言う。
「地図でしょう、勝手に探して持っていくのって駄目なの?」
もちろん良い。良いのだけれど、知り合いの近くに来たのに顔を見ていかないってのはどうかと思ってしまう。
「ここはウカイの家みたいなものだから聞いた方が早いかなって。」
共感されやすい理由の方を口に出す。
「大声を出すな、頭に響く。」
ダウナーでひょろ長い男が咳と共に姿を現した。例の日と同じく今日も今日とて高熱に浮かされているようだ。いつものように書き物をしていたらしく、指はインクで真っ黒になっている。
「今日も俺のお見舞いか、精の出ることだ。暇なの?」
出会い頭に日常を暴露されて顔に血が昇る。
今日はちゃんとした用事のあってのことだからちゃんと対応してほしい。
「そうは言っても、お前、この図書館のことよく知ってるだろ。俺の力を借りなくともやっていけるだろう。」
ましてや地図を探す? あの階を右に曲がったところだよ、とウカイは相変わらず対応が冷たい。
お忙しいところをすみません、とアンナイが申し訳なさそうに顔を出すと、熱に浮かされていつも半眼なウカイの目が全開になった。
「誘拐か?」
「昔の感覚だなぁ。」
アンナイが自己紹介をし、ウカイは愕然とした。
「脳細胞の成長は止んでいないってことか? 身体の発達とは別に精神が発達するなんて、信じられない。」
ウカイは例の日以前と同じく、小難しく物事を捉えている。
それに対してアンナイは言った。
「それが脳細胞の動きは完全に止まったままなのは確認出来ているのです。」そう、自分の脳細胞を客観的に紹介する。
「精神は脳とは別の部分に由来しているものなのか? やはり別個として存在があるのだろうか。」
案外、学者同士で気があったらしい。それぞれの言葉を聞くのではなくて、お互いの言葉をきっかけに各々考え事をしているというのが会話と言えるのかはさておきとして。
共通の知人がその場を離れても彼らは舌戦を止めようとはしなかった。
それぞれ自分の考えを口に出しているだけなので、会話として理解しようとすると頭がおかしくなる。
適当な地図を見繕って持って来ても、まだ彼らのお喋りは続いていた。
「心、魂が物質として脳とは別に存在するなんて荒唐無稽でしょう。」
「現状と貴女自身を見てみろよ、旧人類の前提なんて捨ててしまえ。
魂が脳に由来するなら、頭が丸ごとなくなった後、再生した個人は別人ってことになっちまうだろ。それは困るんだよ。俺の友達がその経験者なのだから。」
「東京の地図、で良いよな?」
白熱しそうになった激論を打ち切る。生涯の時間が永遠にありそうだとしても、今は目の前のやることを達成してほしい。
珍しく長く話していたウカイは椅子に座って息を荒げている。高熱の身で無茶をするからだ。
水筒からお茶を出して渡してやる。
「風邪薬を飲んだから大丈夫だ。」受け取りながら彼は言った。
「貴重な品を無駄遣いして。」打ち捨てられた薬局ももう、そう数はないっていうのに。
「しかも身体が元の状態に戻るまでしか効かないんだろ、なお大事にしなきゃならないんじゃないのか。」
「うん、15分しか効かない。でもきちんと頭の回る状態で話したかったんだ。」
アンナイとの会話のやりあいは彼にそこまでの価値を見出させるものだったのか、達成感に満ちた顔で彼は言う。
話した内容でインスピレーションが湧いてきたらしく、手は猛烈な勢いで何かを書き留めている。
アンナイが反論に頭を回して怖い顔をしているのを横目に、私は確認出来る住所に印をつけていく。
本に直接書き込んでいることに、ウカイは嫌な顔を隠さない。消せるボールペンというやつだ。年数が経てば消えてしまうのだから許してほしい。
本を読まない人の感想だよそれは、と小言をくらいながら書き終えるとその住所は東京都に固まっていた。何ともわかりやすい。
「品川区を中心とした大きな円形だね。1番遠いのは多摩市か。」
一つのサーバーを共有しているかのような同心円上に固まっている。確かこの円の中心には電子通信公社のオペレーションセンターがあったはずだ、俺は当たりをつける。
「詳しいね?」アンナイは怖い顔を止めて問いかけてくる。
品川に職場があるからだ。休みの日に職場の近くの駅へは近づきたくはないなぁ、と顔をしかめた。
「住所公開してるのか? 」
ウカイが問いかける。
「襲撃を受けるような研究を行う組織って、もっと潜むものじゃないのか? 」
舌戦の間に事情を聞いていたらしく、彼は疑問をアンナイへぶつける。
「ちゃんと働いていただけだもの、どうして隠れなきゃならないのよ。」
アンナイは胸を張って答えた。
研究を行っているという事実だけで反感を買うことは知らなかったらしい。脳裏に炎が舞う。
「他社の人に会うなんて初めて、どきどきしちゃうね。」
アンナイは言うものの、メンバーに登録されていても実務を行っているかは定かではない。
昔、社内組合の一員に組み込まれたときを思い出す。あの時も社内報に名前が載せられて初めてメンバーに数えられていたことで知ったくらいだ。
規模はだいぶ違うけれど、円内の他社も望み薄な気がする。自分で提案しておいて、嫌な予感に身を震えそうだ。
「そうと決まれば行きましょうか、道も覚えられたことだし。」
アンナイは元気よく宣言する。
「ウカイさん、貴方はどうするの? 来てくれたら心強いのだけれど。」
「俺は行ってもこの身体だからついていけない。」ウカイはきっぱりと言った。
何時もの御尤もな言い訳だ。
「それにこの図書館の本も読み終えていないから俺は忙しいんだ、働くのは任せた。」
こちらが本来の目的だろう。例の日当日に仕事を辞めて図書館に入った男は、普段通り本に取り憑かれている。
この世にある本を全て読んでしまいたい、人生の時間がその願望を叶えるのに足りてしまったのはもしかしたら不幸なのかもしれない。
でも、とウカイはアンナイに向かって付け加える。
「次会えたら、魂の存在を認めさせてやる。俺はだいたいここにいるからな。」
「望むところです。我々の実験の結果に基づいて、その根拠のない説に反論して差し上げましょう。」
アンナイは高らかに宣言した。学者とはこういうものなのか、まるで決闘の後の握手のような宣言を聞く。
知り合い同士を引き合わせたら私に対してより仲良くなってしまったときのむずむず感を、どう表現したら良いのか。別個の個人なのだから知ったことではない、と蓋をするのが1番早いのか。
俺は黙って、図書館の内部へ乗り入れていた自転車を用意する。
「お前、乗り入れるのは止めろって何回も言ってるだろ。不衛生だ。」
ウカイが目くじらを立てる。
「これを盗まれたら換えが効かないから仕方ないだろ。弁償出来るのかよ。」
「そうなったら歩けばいいじゃないか、健康的だろう。」
不老不死に健康なんて概念あるものか。代替案を鼻で笑ってからチェーン等の点検を済ませる。どれも今やストックが残り少ない貴重品だ。
「ん。」アンナイが万歳をして、乗せろと要求してくる。
何の違和感もない光景に自然に抱き上げて載せてやる。息があってきたというやつか。
ウカイの、保護者じみてきた、という声は無視をする。アンナイの、役職的には部下よ、との返事も聞かなかったことにした。他社なら役職なんてノーカンだノーカン。
「じゃあ、さようなら。」ウカイがアンナイへ手を振る。
「さようなら。」
「イジュウインも、さよなら。」知らないアンナイはともかく、ウカイは俺が別れが苦手だって知っている癖に口を出す。
「一つのことに執着せず、一期一会を楽しめっていつも言ってるだろ。さようなら。」
本に執着している奴が何を言う。腹立ち紛れに無言で出発する。
次いつ会えるかはわからないことは確かなので手だけは振っておいたけれど、ウカイの呆れた顔は見飽きている。だから、振り向けはしなかった。
アンナイが声をかけてきたのは出発から30分も経った頃だった。
俺の不機嫌な様子に気を使っていたのだろう、道理ではしゃぐ声が聞こえないと思った。
「拗ねてるの?」
「拗ねてるって何さ、そんなことしてないよ。」
「大人でも拗ねて良いし、隠される方が面倒よ。」
何でそんなわかった風なことを言われるんだ、そもそも何を理解したっていうんだ。
そう聞き返すことすら出来ない俺は我ながら面倒な性格だった。
「うるさいなぁ。」まるで母親に反抗する子供だ。
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